教皇ベネディクト十六世の2011年7月3日の「お告げの祈り」のことば キリストの軛

教皇ベネディクト十六世は、年間第14主日の7月3日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア […]


教皇ベネディクト十六世は、年間第14主日の7月3日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「親愛なる兄弟姉妹の皆様。ルーマニア教会、とくにサトゥ・マーレの町とともに喜びたいと思います。このサトゥ・マーレで、今日、同地司教で、1952年に殉教者として亡くなったヤノス・シェフラー(János Scheffler 1887-1952年)が列福されるからです。ヤノス・シェフラーのあかしは、感動をもって彼を思い起こす人々と新しい世代の信仰を永遠に支えることでしょう」。
最後に教皇はイタリア語を話す巡礼者に向けて次のようにあいさつしました。
「数日後、わたしはバチカンを離れ、カステル・ガンドルフォに移ります。神のみ旨ならば、次の主日の『お告げの祈り』はカステル・ガンドルフォで行います。ありがとうございます。皆様、よい日曜日とよい週をお過ごしください」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の福音の中で、主イエスは、わたしたちがよく知っており、いつもわたしたちを感動させることばを繰り返して述べます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11・28-30)。イエスは、神の国を告げ知らせ、多くの病人をいやしながらガリラヤの道を歩いておられたとき、群衆に対してあわれみを覚えられました。彼らが飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれていたからです(マタイ9・35-36参照)。イエスのまなざしは現代のわたしたちの世界にも注がれるように思われます。イエスのまなざしは、現代の、困難な生活状態に苦しむ多くの人々、また、人生の意味と目的を見いだすための有効な基準を奪われた人々にも注がれます。最貧国では、大多数の人が弱り果て、貧困にあえいでいます。豊かな国々でも、多くの人は不満を感じ、そればかりかうつ状態に陥っています。さらにわたしたちは、多くの避難民と難民、自分のいのちを危険にさらしながら移住する人々に思いを致します。キリストのまなざしはこれらすべての人々の上に注がれます。そればかりか、天におられる父のすべての子に注がれます。そしてキリストは仰せになります。「・・・・だれでもわたしのもとに来なさい」。
 イエスはすべての人に「安らぎ」を与えると約束されます。しかし、一つの条件をつけます。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」。「軛」とは何でしょうか。荷を重くするのではなく軽くし、押しつぶすのではなく引き上げてくれる「軛」とは何でしょうか。キリストの「軛」とは、愛の律法です。キリストが弟子たちに残されたおきてです(ヨハネ13・34、15・12参照)。人類の傷(それには、飢餓や不正といった物質的な傷もあれば、誤った幸福観がもたらした精神的・道徳的な傷もあります)をいやすまことの薬は、兄弟愛に基づく生活の規則です。この兄弟愛は神の愛から発します。だから、傲慢と暴力の道を捨てなければなりません。傲慢と暴力の道は、より強力な権力ある地位を手にして、是が非でも成功するために用いられます。また、環境のために、これまでの時代に支配的だった攻撃的な生活様式をやめ、分別のある「中庸」を採用しなければなりません。しかし、何よりもまず、人間関係、対人関係、社会関係において、尊重と非暴力の法則、すなわち、あらゆる虐待と戦う真理の力こそが、人間にふさわしい未来を保証することができます。
 親愛なる友人の皆様。昨日わたしたちは、至聖なるマリアの特別な記念日を祝い、聖母のみ心のゆえに神を賛美しました。おとめマリアの助けによって、わたしたちがイエスからまことのへりくだりを「学び」、決意をもってその軽い軛を負うことができますように。そして、内的な平和を味わい、わたしたちも、人生の困難な旅路を歩む他の兄弟姉妹を慰めることができるようになりますように。

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