教皇ベネディクト十六世の2011年7月17日の「お告げの祈り」のことば 天の国のたとえ

教皇ベネディクト十六世は、年間第16主日の7月17日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻 […]


教皇ベネディクト十六世は、年間第16主日の7月17日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「深い懸念をもって、アフリカ東部、とくにソマリア地域からもたらされるニュースを見守っています。ソマリアはきわめて深刻な干魃(かんばつ)と、その後の一部地域での大雨の被害に遭っているからです。この被害は人道危機を生じています。多くの人が食糧と助けを求めてこの大規模な飢饉から逃れようとしています。
国際社会が、すでに大きな試練を体験しているこれらのわたしたちの兄弟姉妹に速やかに援助の手を差し伸べることを願います。これらの人々の中には多くの子どもも含まれているのです。わたしたちの連帯とすべての善意の人の具体的な支援がこれらの苦しむ人々に豊かに与えられますように」。
アフリカ東部のソマリアは過去60年で最悪の干魃に見舞われ、多数の人が食糧と水を求めて隣国のケニアやエチオピアに避難しています。国連の潘基文(パン・ギムン)事務総長は7月12日、国連関係機関と各国に緊急支援の実施を要請しています。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 福音のたとえ話は、イエスが天の国の神秘を告げるために用いる短い物語です。主は日常生活のイメージや状況を用いながら、「すべてのものの本来の根拠・・・・を示すのです。彼は、わたしたちに・・・・働く神、わたしたちの人生の中に入って来て、わたしたちの手を取ってくれる神を示します」(教皇ベネディクト十六世『ナザレのイエス』:Gesù di Nazaret I, Milano 2007, p. 229〔里野泰昭訳、春秋社、2008年、252-253頁〕)。このような講話を通して、神である師は、父である神を何よりも第一に優先すべきことを認めるように招きます。神がおられなければ、だれもよいことをなしえません。神はすべてのものに対して決定的に優先します。天の国とは、神が主として支配することにほかなりません。つまり、神のみ心をわたしたちの人生を導く基準と考えなければならないということです。
 今日の主日の福音のテーマは、天の国そのものです。「天」をわたしたちの上にある、いと高きところという意味でのみ考えてはなりません。なぜなら、この無限の空間も人間の心の形式となりうるからです。イエスは天の国を麦畑にたとえます。それは、わたしたちのうちに、ある種が蒔(ま)かれていることを悟らせるためです。この種は、小さな隠れたものですが、抑えることのできない生命力をもっています。どんな障害があっても、種は育って、実を結びます。この実がよいものとなるには、人生という土地を神のみ心に従って耕さなければなりません。そのため、よい麦と毒麦のたとえの中で(マタイ13:24-30)、イエスはわたしたちに警告します。主人が種を蒔いた後、「人々が眠っている間に、敵が来て」、毒麦を蒔きました。これは次のことを意味します。わたしたちは洗礼の日に受けた恵みを守るよう心がけていなければなりません。そのために主への信仰を深め続けなければなりません。信仰は、悪が根を張ることを阻んでくれるからです。聖アウグスティヌス(Aurelius Augustinus 354-430年)はこのたとえ話を解説していいます。「多くの人は初めは毒麦で、後によい麦となります」。それから彼は続けていいます。「もし人が悪い者だったときに忍耐をもって耐え忍ばなければ、ほむべき変化を遂げることがないでしょう」(『マタイ福音書の一七の問題』:Quaestiones XVII in Matthaeum 12, 4, PL 35, 1371)。
 親愛なる友人の皆様。知恵の書(今日の第一朗読はここからとられています)は、神の存在のこのような側面を強調していいます。「すべてに心を配る神はあなた以外におられない。・・・・あなたの力は正義の源、あなたは万物を支配することによって、すべてをいとおしむかたとなられる」(知恵12・13、16)。詩編86はこのことを確認します。「主よ、あなたは恵み深く、おゆるしになるかた。あなたを呼ぶ者に豊かないつくしみをお与えになります」(詩編86・5)。それゆえ、わたしたちはこのように偉大でいつくしみ深い父の子なのですから、このかたに似た者となるよう努めようではありませんか。イエスがご自分の説教によって目指しておられたのはこのことです。実際、イエスはご自分のことばを聞く者にいわれました。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5・48)。昨日わたしたちはカルメル山の聖母であるマリアに祈願をささげました。信頼をもってマリアに向かおうではありませんか。マリアの助けによって、わたしたちがイエスに忠実に従い、本当に神の子として生きることができますように。

略号
PL Patrologia Latina

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