教皇ベネディクト十六世の277回目の一般謁見演説 聖書を読むことの勧め

8月3日(水)午前10時30分から、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸前のピアッツァ・デッラ・リベルタ(自由広場)で、教皇ベネディクト十六世の277回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月4日から開始した「祈り」についての連続講話に関連して、夏の間、聖書を読むよう信者を招きました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 このカステル・ガンドルフォの広場で皆様にお目にかかり、7月に中断した謁見を再開できることをたいへんうれしく思います。すでに開始したテーマである「祈りの学びや」を続けたいと思います。けれども今日は、すこし違った形で、ただしテーマから離れることなしに、霊的かつ具体的なことを強調したいと思います。それは、わたしたちのように(世界の一部の地域で)夏季休暇の時を過ごす人々のためだけでなく、日々の仕事に励むすべての人にとっても役立つと思われるからです。
 自分の活動を休んでいるとき、とくに休暇の間、わたしたちはしばしば、読みたい本を手に取ります。これが、今日考えてみたい第一の点です。わたしたちは皆、精神を集中し、黙想し、静かに過ごす時間と場所を必要としています。そのように過ごせるのはありがたいことです。実際、こうした欲求は、わたしたちに次のことを示します。すなわち、わたしたちが造られたのは、働くためだけではなく、思考し、反省し、また、ただ思いと心をもって物語を読むためです。わたしたちはこのような物語と一体化し、ある意味でその中で「われを忘れます」。それは、後で豊かになった自分を再び見いだすためです。
 もちろん、休暇のときに読む多くの本はたいていの場合、気晴らしのためであり、それは正常なことです。しかし、さまざまな人、とくに長期間、休暇をとって休める人は、よりむずかしい本を読もうと努めます。そこでわたしは一つの提案をしたいと思います。普通、あまり知られていない聖書のいくつかの書を開いてみてはいかがでしょうか。あるいは、典礼の中で一部は聞いたことがあっても、全体を読んだことのない書を読んでみてはいかがでしょうか。実際、多くのキリスト信者は聖書を読みません。そして、聖書について限られた表面的な知識しかもっていません。聖書は、名前が示すとおり、さまざまな書物をまとめたものです。それは数千年の間に生まれた小さな「図書館」です。聖書に含まれる「小さな書」のあるものは、善良なキリスト信者を含めた、大部分の人々に知られていません。そのうちのいくつかはたいへん短いものです。たとえば、トビト記です。トビト記は、家庭と結婚がもつ深い意味を述べた物語です。あるいはエステル記です。エステル記の中で、ユダヤ人の王妃エステルは信仰と祈りをもって自分の民を絶滅から救います。あるいは、もっと短いものに、ルツ記があります。ルツは、神を知り、その摂理を体験した異邦人です。これらの小さな書は、一時間で読み通すことができます。もっとむずかしいものですが、真の意味で傑作といえるのは、ヨブ記です。ヨブ記は、罪のない人の苦しみという大きな問題を扱います。また、コヘレトの言葉があります。コヘレトの言葉は、揺れ動く現代性のゆえにわたしたちの心を打ちます。そこでは人生とこの世の意味が論じられるからです。雅歌は、人間の愛についての驚くべき象徴詩です。見てのとおり、これらの書はすべて旧約聖書の書物です。新約はどうでしょうか。確かに新約聖書はもっと知られており、文学ジャンルもそれほど多岐にわたってはいません。しかし、福音書全体を通読することのすばらしさを認識すべきです。使徒言行録や書簡についても同じことを勧めます。
 親愛なる友人の皆様。終わりに、今日、夏の間、また休みのときに聖書を手に取ることをお勧めしたいと思います。それは、あまり知られていない聖書のいくつかの書を読むことによって、また福音書のようによく知られているものは通読することによって、聖書を新たな形で味わうためです。そうすれば、くつろぎの時は、教養を深めるだけでなく、精神を養うことができます。こうして精神は、もっと神を知り、神との対話である祈りを深めることができます。それは休暇のためのすばらしい仕事になると思います。聖書を手に取ってください。くつろぎながら、神のことばの広大な空間に分け入ってください。永遠なるかたとの触れ合いを深めてください。これこそが、主がわたしたちに与えてくださった自由な時間の目的だからです。

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