教皇ベネディクト十六世の2011年8月7日の「お告げの祈り」のことば 湖の上を歩くイエス

教皇ベネディクト十六世は、年間第19主日の8月7日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳 […]


教皇ベネディクト十六世は、年間第19主日の8月7日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次の呼びかけを行いました。
「親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 深い懸念をもってシリアにおいて増大する悲惨な暴力行為を見守っています。この暴力行為は多くの犠牲者と深刻な苦しみを生み出しています。カトリック信者の皆様にお願いします。和解のための努力が分裂と恨みに打ち勝つように祈ってくだい。さらにシリアの政府と国民の皆様に緊急の呼びかけをあらためて行います。平和共存を速やかに回復し、市民の尊厳を尊重しつつ、地域の安定のために、シリア市民の正当な願いに適切な形でこたえてください。わたしの思いはリビアにも向かいます。リビアでは武力が状況を解決していません。国際機関と政治・軍事指導者に促します。交渉と建設的な対話を通じて、確信と決意をもって、リビアのための平和の計画を追求してください」。
ベネディクト十六世がシリア情勢について呼びかけを行うのは、今年5月15日(日)の「アレルヤの祈り」以来2回目です。シリアでは3月中旬に反政府デモ参加者が治安当局に殺害されて以来、少なくとも市民1650名が殺害され、数万人が逮捕されています。


  親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の主日の福音の中で、わたしたちは、ひとり山に登って、夜中祈っておられるイエスを見いだします。主は群衆からも弟子たちからも離れ、御父との親しい交わりと、騒がしい世間から隠れてひとりで祈ることの必要性を示します。しかし、イエスがこのように人から遠ざかったからといって、彼が人間に無関心で、使徒を見捨てたのだと考えるべきではありません。むしろ、聖マタイが語るとおり、イエスは弟子たちを舟に乗せて、「向こう岸へ先に行かせ」(マタイ14・22)ます。それは彼らともう一度出会うためです。そのうち舟は「すでに陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた」(24節)。すると「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」(25節)。弟子たちは動転して幽霊だと思い、「恐怖のあまり叫び声をあげた」(26節)。弟子たちはそれがイエスだと分からず、自分たちが出会っているのが主であることを悟りませんでした。しかしイエスは彼らを安心させます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(27節)。教父はこの出来事からきわめて豊かな意味をくみ取りました。湖は、この世と目に見える世界の不安定さを象徴的に表します。嵐は、人間を襲うあらゆる苦しみと困難を表します。これに対して、舟は、キリストの上に築かれ、使徒によって導かれる教会を意味します。イエスは弟子たちに次のように教えようと望みます。勇気をもって人生の逆境を耐え忍びなさい。そのために、神に信頼しなさい。神はホレブ山上で預言者エリヤに「静かにささやく声」(列王記上19・12)のうちにご自身を現されました。この箇所は使徒ペトロのしたことを続けて述べます。ペトロは、師であるかたへの衝動的な愛に駆られて、水の上を歩いてイエスのほうに行かせてくれるように願います。「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ」(マタイ14・30)。聖アウグスティヌス(Aurelius Augustinus 354-430年)は、自分が使徒に向かって語りかけていると想像しながら、解説していいます。主は「身を低くして、あなたの手を取ってくださいます。あなたは自分の力だけで立ち上がることができません。あなたに降って来てくださるかたの手をつかみなさい」(『詩編注解』:Enarrationes in Psalmos, in Ps. 95, 7, PL 36, 1233)。ペトロは、自分の力によってではなく、彼が信じる神の恵みによって水の上を歩きます。疑いに襲われ、イエスを見つめることをやめて、風を恐れ、師であるかたのことばを完全に信頼できなくなったとき、彼はイエスから離れ、人生の海に沈みそうになります。偉大な思想家ロマーノ・グアルディーニ(Romano Guardini 1885-1968年)は述べます。主は「いつも近くにおられます。主はわたしたちの存在の根源だからです。しかしわたしたちは、遠近両極の間で神との関係を体験しなければなりません。わたしたちは神の近くにいるときに力づけられ、神から遠ざかったところで試練を受けます」(Accettare se stessi, Brescia 1992, 71)。
 親愛なる友人の皆様。主が通り過ぎるのを耳にした預言者エリヤの体験と、使徒ペトロの信仰の試練は、わたしたちに次のことを悟らせてくれます。わたしたちが主を探し求め、主に祈り求める前に、主ご自身がわたしたちに会いに来てくださいます。主が天から降ってわたしたちの手を取り、高いところに導いてくださいます。主が望まれるのは、わたしたちが主に完全に信頼を置くことだけです。神への完全な信頼の模範である、おとめマリアに祈り求めようではありませんか。どれほど多くの心配と問題と困難がわたしたちの人生の海を騒がせても、わたしたちを落ち着かせてくださるイエスのことばを心の中で聞くことができますように。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。そこから、イエスへの信仰を深めることができますように。

略号
PL Patrologia Latina

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