教皇ベネディクト十六世のWYD(ワールドユースデー)マドリード大会閉会ミサ説教

2011年8月21日(日)午前9時30分から、スペイン・マドリードのクアトロ・ビエントス空港で、教皇ベネディクト十六世の司式により、第26回WYD(ワールドユースデー)マドリード大会の閉会ミサが行われました。ミサには約1 […]


2011年8月21日(日)午前9時30分から、スペイン・マドリードのクアトロ・ビエントス空港で、教皇ベネディクト十六世の司式により、第26回WYD(ワールドユースデー)マドリード大会の閉会ミサが行われました。ミサには約150万人の青年が参加しました。以下に訳出するのは、教皇の説教の全文です(原文スペイン語)。この日は年間第21主日で、ミサの朗読箇所は、第一朗読がイザヤ書22・19-23、答唱詩編が詩編137・1-2a、2bc-3、6、8bc、第二朗読がローマの信徒への手紙11・33-36、福音がマタイによる福音書16・13-20でした。


 親愛なる若者の皆様。

 この感謝の祭儀をもってわたしたちはWYD(ワールドユースデー)の頂点に達しました。世界のあらゆるところからここに来られた多くのかたがたを目にして、わたしの心は喜びで満たされています。わたしは、イエスが特別な愛をもって皆様を見ておられることに思いを致します。まことに主はあなたがたを愛して、ご自分の友と呼びました(ヨハネ15・15参照)。主は来て、あなたがたと出会います。あなたがたとともに道を歩むことを望みます。満ち満ちたいのちへの扉を開きます。あなたがたをご自身の御父との親しい関係にあずからせます。わたしたちも主の大いなる愛を知り、惜しみない心でこの愛にこたえたいと望みます。そのためにわたしたちは、自分たちが受けた喜びを他の人々と分かち合います。確かに、現代も多くの人がキリストの姿に引き寄せられ、キリストをもっとよく知りたいと望んでいます。人々はキリストが自分たちの深い問いのこたえであると分かっています。けれども、キリストとは実際にいかなるかたなのでしょうか。はるか昔に生きた人が、どのようにして現代のわたしとかかわることができるのでしょうか。
 たった今朗読された福音(マタイ16・13-20参照)は、二つの異なるキリストの知り方を示しています。第一は、流行の意見によって性格づけられる、外的な知り方です。イエスが「人々は、人の子のことを何者だといっているか」とお尋ねになると、弟子たちはこたえました。「『洗礼者ヨハネだ』という人も、『エリヤだ』という人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』という人もいます」。いいかえると、キリストは、人々にすでによく知られた宗教家と同じような人だと考えられていました。そこでイエスは弟子たちに向かって問いかけます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」。ペトロは最初の信仰告白をもってこたえます。「あなたはメシア、生ける神の子です」。信仰は単なる経験的・歴史的事実以上のものです。信仰は、キリストというかたの神秘を深くとらえる力です。
 しかし、信仰は、人間の努力や理性から生まれるものではありません。むしろそれは神から与えられるたまものです。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。信仰は神からの働きかけによって生じます。神はわたしたちにみ心を開いて、ご自身の神的ないのちにあずかるようわたしたちを招きます。信仰は、キリストがいかなるかたであるかについての情報を与えてくれるだけではありません。むしろ信仰とはキリストとの個人的な関係です。知性も意志も感情も含めたわたしたちの全人格を、ご自身を現された神にゆだねることです。それゆえ、「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」というイエスの問いは、つまるところ、イエスについて個人的な決断を行うようにという弟子たちへの促しです。キリストへの信仰とキリストに従うことは密接にかかわり合います。信仰とは、師であるかたに従うことです。そうであれば、信仰はますます強く深く成熟したものとならなければなりません。そこから信仰は、より深く強いイエスとの関係に、イエスとの親しい関係にならなければなりません。ペトロと他の使徒もこの道を歩んで成長しなければなりませんでした。そしてついに復活した主との出会いが彼らの目を完全な信仰へと開いたのです。
 親愛なる若者の皆様。今日キリストは、使徒たちに投げかけたのと同じ問いをわたしたちにも投げかけます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」。皆様若者の心にふさわしいしかたで、寛大に、勇気をもってキリストにこたえてください。「イエスよ。わたしは知っています。あなたはご自身のいのちをわたしに与えてくださった神の子です。わたしはあなたに忠実に従い、みことばによって導いていただきたいと思います。あなたはわたしを知り、愛してくださいます。わたしはあなたを信頼し、全生涯をみ手にゆだねます。わたしを強める力、わたしを見放すことのない喜びとなってください」。
 ペトロの告白へのこたえの中で、イエスは教会について語ります。「わたしもいっておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」。これはどういう意味でしょうか。イエスは、キリストが神であると告白した、ペトロの信仰の岩の上に教会を築きます。それゆえ、教会は、他の単なる人間が作った制度とは異なります。むしろ教会は神と密接に結ばれています。キリストご自身が教会のことを「わたしの」教会といっておられます。キリストと教会を切り離すことはできません。それは、頭をからだから切り離せないのと同じです(一コリント12・12参照)。教会は自分で生きるのではなく、主によって生きるのです。主は教会の中に現存して、教会にいのちと糧と力を与えるのです。
 親愛なる若者の皆様。ペトロの後継者として皆様にお願いします。使徒の時代から伝えられてきた信仰を強めてください。神の子キリストを皆様の人生の中心に置いてください。けれども、次のこともいわせてください。信仰のうちにイエスに従うとは、教会の交わりの中でイエスとともに歩むことです。わたしたちはひとりでイエスに従うことはできません。「自力で」イエスに従い、社会の中で支配的な個人主義的な精神に従って信仰生活を送ろうとする人は、決してイエス・キリストと出会うことができませんし、ときとして誤ったイエス像に従うことになります。
 信じるとは、兄弟姉妹の信仰に支えられることです。それは、皆様の信仰が他の人の支えとなるのと同じです。親愛なる友人の皆様。皆様にお願いします。教会を愛してください。教会は皆様を信仰のうちに産み、キリストについての知識を深め、キリストの愛のすばらしさを見いださせてくれたからです。キリストとの友愛を深めるには、何よりもまず、小教区、共同体、運動団体に喜びをもって参加することの大切さを認めなければなりません。主日のミサにあずかること、ゆるしの秘跡を頻繁に受けること、祈りと神のことばの黙想を深めることも大切です。
 イエスとの友愛はまた、さまざまな場で信仰をあかしするよう皆様を促します。それには拒絶や無関心をもって迎えられることも含まれます。他の人にキリストを知らせることなしに、キリストと出会うことはできません。キリストを自分だけのものにしてはなりません。自分の信仰の喜びを他の人に伝えてください。世界は皆様の信仰のあかしを必要としています。間違いなく、世界は神を必要としています。わたしは、五大陸から来た若者の皆様がここにおられることが、キリストが教会に与えた命令の生んだ実りの驚くべき証拠だと思います。「全世界に行って、すべての造られたものに福音をのべ伝えなさい」(マルコ16・15)。皆様も、他の土地や国でキリストの弟子また宣教者となるという特別な使命を与えられています。これらの土地や国でも、多くの若者がより大いなるものを望んでいます。彼らは、より真実な価値が存在するかもしれないことを心の中で感じるがゆえに、神のいない生活様式といういつわりの約束の誘惑に身をゆだねません。
 親愛なる若者の皆様。皆様のために心から祈ります。皆様をおとめマリアにゆだねます。マリアがその母としての執り成しをもっていつも皆様とともに歩み、神のことばを忠実に守ることを教えてくださいますように。教皇のためにも祈ってくださるようお願いします。教皇がペトロの後継者として、兄弟姉妹の信仰を強めることができますように。司牧者も信者も含めた、教会に属するわたしたちが皆、日々、主に近づくことができますように。そして、生活の聖性を深め、力強く真理をあかしすることができますように。イエス・キリストはまことに神の子、全人類の救い主、わたしたちの希望の生きた泉です。アーメン。

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