教皇ベネディクト十六世の281回目の一般謁見演説 芸術と祈り

8月31日(水)午前10時30分から、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸前のピアッツァ・デッラ・リベルタ(自由広場)で、教皇ベネディクト十六世の281回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第11回として、「芸術と祈り」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 わたしはこの時期に何度も、すべてのキリスト信者が、日々、どれほど多くの仕事を抱えていても、神のため、祈りのために時間を見つける必要があると申し上げました。主ご自身が、わたしたちが主を思い起こすための多くの機会を与えてくださいます。今日わたしは、わたしたちを神へと導き、神と出会うための助けともなる、こうした手段の一つについて簡単にお話ししたいと思います。それは、「美の道(via pulchritudinis)」の一つである、芸術表現という手段です。わたしは「美の道」について何度もお話ししてきました。現代人はこの「美の道」の深い意味を再発見しなければなりません。おそらく皆様は彫刻、絵画、詩あるいは音楽の一節を前にして、深い感動や喜びを覚えたことがあると思います。そのとき皆様は次のことを感じられたと思います。自分の前にあるのは、単なる物質、大理石や青銅の塊、絵が描かれたキャンバス、書きつづられた文字や音の集積ではありません。むしろそれは、より大きなものであり、「語りかけ」、心に触れ、メッセージを伝え、心を高めることができます。芸術作品は人間の想像力によって生み出されます。人間は目に見える現実を前にして問いかけ、深い意味を見いだして、それを形、色、音という言語を通じて伝えようと努めます。芸術は、目に見えるものの彼方に行こうとする人間の欲求を表現し、目に見える形にすることができます。芸術は、無限なるものに対する渇望と探求を表します。そればかりか、芸術は、日常を超えた、無限なるもの、美、真理に開かれた扉のようなものです。だから芸術作品は、思いと心の目を開いて、わたしたちをいと高いところへと駆り立てることができるのです。
 ところで、ある芸術表現は、至高の美である神へと至る真の道となります。実際、こうした芸術表現は、祈りのうちに神との関係を深めるための助けとなります。信仰から生まれ、信仰を表現する作品がそれです。ゴシック大聖堂を訪れるなら、その例を目にすることができます。わたしたちは垂直に伸びた線に心を奪われます。この線は天に向かって聳(そび)え立ち、わたしたちのまなざし、心、思いをいと高いところへと引き寄せます。またわたしたちは、自分の小ささを感じながら、心が満たされることを望みます。あるいは、ロマネスク聖堂に足を踏み入れるなら、わたしたちは自然に精神の集中と祈りへと誘われます。わたしたちは、この壮麗な建物のうちに幾世代もの人々の信仰が収められているのを感じます。あるいはまた、教会音楽の一節を聞いて、心の琴線が鳴り響くとき、わたしたちの魂は広がり、神に向かうよう助けられます。わたしはバイエルンのミュンヘンで行われた、レナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein 1918-1990年)の指揮による、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750年)の演奏会を思い起こします。カンタータの最後の一節が終わったとき、わたしは理性によってではなく、心の奥底で感じました。たった今自分が聞いたものは、わたしに真理を、すなわち最高の作曲家の真理を伝えました。そこでわたしは神に感謝するよう促されました。わたしの隣にはミュンヘンのルーテル教会の司教が座っておられました。そこでわたしは自然に彼に話しかけました。「このような曲を聞けば、これこそ真実であると分かります。これこそ力強いまことの信仰です。神の真理の存在をあらがいがたいしかたで表す美です」。けれども、芸術家の信仰から生み出された絵画やフレスコ画も、その形、色、光によって、何度もわたしたちが思いを神に向けるよう促してくれます。そして、あらゆる美の源から水をくみたいという望みをわたしたちに強く抱かせます。偉大な芸術家マルク・シャガール(Marc Chagall 1887-1985年)が述べたことは深い真理を表し続けます。「画家たちは幾世紀にもわたって、聖書という色のついた文字に自分の筆を浸してきました」。それゆえ、芸術表現は何度もわたしたちが神を思い起こす機会となりえます。それはわたしたちが祈るため、さらには回心するための助けともなるのです。フランスの有名な詩人、劇作家、外交官ポール・クローデル(Paul Claudel 1868-1955年)は、1886年、パリのノートルダム大聖堂において、降誕祭ミサ中で歌われていた「マリアの歌(Magnificat)」を聞いて、神の現存を感じました。彼は信仰上の理由で教会から遠ざかっていました。彼が聖堂に入ったのは、キリスト教徒に対して論駁を試みるためでした。ところが反対に、神の恵みが彼の心の中で働いたのです。
 親愛なる友人の皆様。皆様にお願いします。祈りのため、神との生きた関係のための、美の道の重要性を再発見してください。世界中の都市や町には芸術遺産があります。これらの芸術遺産は信仰を表現し、わたしたちを神との関係へと招きます。それゆえ、芸術の地を訪れるとき、それが単なる文化鑑賞に終わらず(それも結構ですが)、何よりも恵みの時となることができますように。この恵みの時に促されて、わたしたちが主とのきずなと対話を深めることができますように。立ち止まって、単なる外的現実から、それが表すもっと深い現実へと移行することによって、美の光を観想することができますように。美の光は、わたしたちの心を打ち、いわばわたしたちの内面に「傷」を負わせ、神へと上昇するように招くからです。詩編の一つ、詩編27の祈りをもって終わります。「わたしは主に一つのことを願う。わたしは一つのことを 請い求める。命あるかぎり、日ごとに主の家に住み、主の麗しさを仰ぎ見、神殿の中で暁(あかつき)に目覚めたい」(4節〔フランシスコ会聖書研究所訳〕)。願いたいと思います。主の助けによって、わたしたちが自然の中で、また芸術作品の中で、主の美しさを仰ぎ見ることができますように。こうしてわたしたちが、主のみ顔の光に触れ、わたしたちもまた隣人に対して光となることができますように。ご清聴ありがとうございます。

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