教皇ベネディクト十六世の2011年9月4日の「お告げの祈り」のことば 兄弟的譴責

教皇ベネディクト十六世は年間第23主日の9月4日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の主日のミサの聖書朗読の中心は、信者の共同体における兄弟愛というテーマに置かれています。信者の共同体の源は、三位一体の交わりです。使徒パウロはいいます。神の律法全体は、愛のうちに全うされます。それゆえ、わたしたちの他の人々との関係の中で、十戒と他のすべてのおきては次のように要約されます。「隣人を自分のように愛しなさい」(ローマ13・8-10参照)。キリスト教共同体の生活を扱う、マタイの18章からとられた福音の箇所は、わたしたちにいいます。兄弟愛は互いの責任感をも要求します。だから、もしわたしの兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、その人に愛を示さなければなりません。そして、何よりもまず個人的に語りかけ、その人のことばまたは行いがよくないことを指摘しなさい。このようなやり方は兄弟的譴責と呼ばれます。兄弟的譴責は、損害を与えられたことに対する対応ではなく、むしろ、兄弟に対する愛に促されて行われます。聖アウグスティヌス(354-430年)は解説していいます。「あなたに害を加えた人、今なお害を与えている人は、自分自身を深く傷つけています。あなたは兄弟の傷を気にかけずにいられるでしょうか。・・・・あなたは自分が与えられた害を忘れても、兄弟の傷を忘れてはなりません」(『説教』82・7)。
 では、兄弟がわたしのいうことを聞き入れないときはどうすればよいでしょうか。イエスは今日の福音の中で段階を示します。まず、他の二人または三人の人とともにその人と話します。それは、自分のしたことに気づかせるための助けとなるからです。それでもその人が忠告を拒絶するなら、共同体に申し出なければなりません。そして、もし共同体のいうことも聞かなければ、その人自身が分裂を引き起こし、教会共同体から自分を引き離していることを知らせなければなりません。これらすべてのことが示すのは、キリスト教的生活の歩みにおいて、わたしたちが共同責任を担うということです。わたしたちはおのおの自分の限界と欠点を自覚しながら、兄弟的譴責を受け入れ、この特別な奉仕によって他の人を助けるよう招かれています。
 共同体において愛が生み出すもう一つのことは、心を一つにしてささげる祈りです。イエスはいいます。「どんな願いごとであれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18・19-20)。個人で祈ることはもちろん大切です。そればかりかそれは不可欠なことです。しかし主は、どれほど小さな共同体であっても、一致し、心を一つにするなら、ともにいてくださることを約束されます。なぜなら、共同体は、完全な愛の交わりである三位一体の神ご自身の姿の映しだからです。オリゲネス(185頃-253/254年)はいいます。「わたしたちはこのような一致のうちに」すなわち、キリスト教共同体内の一致のうちに「働かなければなりません」(『マタイ福音書注解』14・1)。わたしたちは兄弟的譴責と祈りに努めなければなりません。兄弟的譴責は謙虚で素朴な心を必要とします。そして、共同体は、キリストのうちに真の意味で一致しながら神に祈りをささげなければなりません。今述べたことをすべて、教会の母である至聖なるマリアと、昨日(9月4日)典礼で記念した、教皇・教会博士の大聖グレゴリウス(540頃-604年、教皇在位590-没年)の執り成しを通じて願いたいと思います。

PAGE TOP