教皇ベネディクト十六世の282回目の一般謁見演説 詩編3

9月7日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の282回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第12回として、「詩編3」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日わたしたちはサンピエトロ広場に戻ってきました。そして、水曜日の連続講話の中でともに行っている「祈りの学びや」で、いくつかの詩編についての黙想を始めたいと思います。6月にお話ししたとおり、詩編は優れた意味での「祈りの書」です。最初に考察したい詩編は、深い信頼に満ちた嘆きと祈願の詩編です。この詩編の中で、神の現存に対する確信が祈りの基盤となります。この祈りは、祈る人が置かれたこの上なく困難な状況から生まれます。詩編3は、ユダヤ教の伝統によれば、自分の子アブサロムから逃れたときのダビデの作とされます(1節参照)。それはダビデ王の生涯の中でもっとも悲劇的で苦悩に満ちた出来事の一つでした。自分の子が王座を奪い、ダビデは自分のいのちを救うためにエルサレムを去ることを余儀なくされたからです(サムエル記下15章以下参照)。それゆえ、ダビデが遭遇した危険と不安に満ちた状況がこの祈りの土台をなし、理解を助けてくれます。それは、このような詩編が唱えられる典型的な状況を示すからです。だれもが詩編作者の叫びのうちに、苦しみと挫折感、そして神への信頼を見いだすことができます。聖書の記述によれば、ダビデはエルサレムの町を逃れるときも、つねに神に信頼していたからです。
 詩編は神への呼びかけをもって始まります。
 「主よ、わたしを苦しめる者は
 どこまで増えるのでしょうか。
 多くの者がわたしに立ち向かい、
 多くの者がわたしにいいます
 『彼に神の救いなどあるものか』と」(2-3節)。
 それゆえ、祈る人が自分の置かれた状況について行う説明は、きわめて悲惨な調子を帯びています。彼は3回、人々が多数いると繰り返していいます(「増える」、「多くの」、「多くの」)。そこではヘブライ語原典では同じ語根のことばが用いられます。それは、危険がさらに大きくなることを、繰り返し、訴えかけるように強調するためです。このように敵の数と大きさを主張することにより、詩編作者は、自分と迫害者の間に絶対的な不釣り合いがあると考えていることが示されます。この不釣り合いが、緊急に助けを求めることの正当な基盤となるのです。迫害者は多く、優位に立っているのに対して、祈る人は独りきりで、無防備で、迫害者のなすがままです。にもかかわらず、詩編作者が最初に発することばは「主」です。彼の叫びは神への祈願で始まります。多くの人が彼に迫り、逆らいます。そこから恐れが生まれ、恐れは脅威を増大させます。脅威はますます大きく、恐るべきものに思われるからです。しかし、祈る人はこの死の幻に打ち負かされることがありません。彼はいのちの神との関係を堅く保ち、まず神に向かって、助けを求めます。しかし、敵はさらにこの神とのきずなを断ち、彼らがいけにえとする者の信仰を砕こうとします。彼らはそそのかしていいます。主は助けてくれない。彼らはいいます。神もあなたを助けることはできない。それゆえ、迫害は肉体的に行われるだけでなく、精神的な次元にも達します。「主は彼を救ってくれない」。詩編作者の心の中心が攻撃されるのです。これは信じる者がさらされる究極の誘惑です。すなわち、信仰を失う誘惑、神がそばにいてくださることへの信頼を失う誘惑です。正しい人は最終的な試練に打ち勝ちます。彼は信仰と、真理への確信と、神への完全な信頼に堅くとどまります。こうして彼はいのちと真理を見いだします。わたしは、ここで詩編がわたしたちにきわめて個人的に触れてくれるように思われます。多くの問題の中で、わたしたちはこう考える誘惑にさらされます。神もわたしを救ってはくれない。神はわたしを知っておられない。神には力がない。信仰に対する誘惑は敵の最終的な攻撃です。わたしたちはこの攻撃に立ち向かわなければなりません。そうすれば、わたしたちは神を見いだします。いのちを見いだします。
 それゆえ、詩編3の祈る人は、信仰をもって、神を敬わない人の攻撃に対抗するよう招かれます。すでに述べたとおり、敵は神が彼を助ける力をもつことを否定します。これに対して、祈る人は神に呼びかけます。「主」のみ名を呼びます。それから彼は「あなた」と強調しながら、主に向かいます。「あなた」という呼びかけは、堅固でゆるぎない関係を表します。彼は神がこたえてくれることへの確信を抱きます。
 「主よ、それでも
 あなたはわたしの盾、わたしの栄え
 わたしの頭を高く上げてくださるかた。
 主に向かって声を上げれば
 聖なる山からこたえてくださいます」(4-5節)。
 今や敵の幻は消え去ります。敵が彼に打ち勝つことはありませんでした。なぜなら、神を信じる者は、神が友であることを確信しているからです。残っているのは「あなた」である神ただひとりだからです。今や「多くの者」は唯一のかたと対比されます。唯一のかたは、多くの敵よりもきわめて大きく、力強いかたです。主は助けであり、守りであり、救いです。主は盾として、ご自分によりたのむ者を守られます。主は勝利の姿で彼の頭を高く上げます。祈る人はもはや独りきりではありません。敵は、かつて思ったほど打ち勝ちがたいものではありません。なぜなら、主は迫害された者の叫び声を聞き、ご自身のおられるところ、聖なる山からこたえてくださるからです。人は苦悩と危険と苦しみの中で叫び声を上げます。人は助けを求めます。すると神はこたえてくださいます。人の叫びと神のこたえは結び合わされています。この結びつきこそが祈りの弁証法であり、救いの歴史全体を読み解く鍵です。叫びは助けが必要であることを表し、他の者の忠実に訴えかけます。叫ぶとは、神が近くにおられ、進んで耳を傾けてくださることへの信仰を表すことです。祈りは、神がともにいてくださることへの確信を表明します。祈る人はそのことをすでに体験し、信じているからです。神がともにいてくださることは、救いをもたらす神のこたえによって完全に示されます。次のことは重要です。わたしたちは祈りの中で、神の現存への確信を大事にし、示さなければなりません。だから詩編作者は、死に囲まれたと感じても、いのちの神への信仰を告白します。神は盾として、堅固な保護をもって彼を包んでくださいます。すでに滅ぼされたと感じていた人は、頭を上げることができます。なぜなら、主が彼を救うからです。祈る人は、脅かされ、嘲笑(あざわら)われても、栄光のうちにいます。なぜなら、神が彼の栄光だからです。
 祈りを聞き入れた神が与えたこたえは、詩編作者に完全な約束を示します。恐れは過ぎ去り、叫びは静まり、平和と深い内的な落ち着きが訪れます。
 「身を横たえて眠り
 わたしはまた、目覚めます。
 主が支えていてくださいます。
 いかに多くの民に包囲されても
 決して恐れません」(6-7節)。
 祈る人は、危険と戦いの最中にあっても、信頼に満ちたゆるぎない委託のうちに、落ち着いて眠ることができます。敵は彼を包囲し、孤立させています。彼らは多く、彼に立ち向かいます。彼を嘲笑い、滅ぼそうと試みます。しかし、祈る人は身を横たえ、落ち着いて眠ります。神がともにいてくださることを確信しているからです。そして、彼は目覚めると、神が変わらずにそばにいてくださることを見いだします。神はまどろむことなく見守るかただからです(詩編121・3-4参照)。神は彼を支え、その手をとり、決して見捨てません。死への恐れは、死ぬことのないかたがともにいてくださることによって、打ち負かされます。昔からの恐れに満たされた夜、孤独と悲しい望みをもって過ごす苦悩の夜は、今や造り変えられます。死を思い起こさせたものは、永遠なる御方の現存となったのです。
 多くの強大な敵の目に見える攻撃は、打ち勝ちがたい力にみなぎる、目に見えない神の現存と対比されます。詩編作者はこのかたに、二つの信頼のことばを述べた後に、あらためて祈りをささげます。「主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください」(8a節)。敵は彼らがいけにえとする者に「立ち向かい」(2節)ます。しかし、「立ち上がり」、彼らを打ち倒してくださるかたは主です。神は、叫びにこたえて、彼を救われます。だから詩編は、殺される危険と、自分を滅ぼしかねない誘惑からの解放の幻で終わります。主に対して立ち上がり、救ってくださいと願った後、祈る人は神の勝利を述べます。不正と残酷な迫害によって、神とその救いの計画に反対するすべての者を象徴する敵は、打ち滅ぼされます。顎を打たれた彼らは、もはやその破壊的な暴力をもって攻撃することができません。神の現存と働きを疑う悪をそそのかすことも、もはやできません。彼らの無分別で冒瀆 的なことばは決定的に否定され、主の救いのみわざによって沈黙させられます(8bc節参照)。こうして詩編作者は典礼的な意味をもつことばで祈りを終えることができます。それは感謝と賛美をもって、いのちの神をたたえます。「救いは主のもとにあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように」(9節)。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。詩編3は、信頼と慰めに満ちた祈願を示してくれます。この詩編を祈ることによって、わたしたちは詩編作者の思いを自分のものとすることができます。この詩編作者は、迫害された義人の象徴であり、イエスのうちに完全に実現されます。詩編のことばは、苦しみと危険、誤解され、迫害される苦悩のうちに、わたしたちの心を、わたしたちを力づける信仰の確信へと開きます。神はいつもそばにいてくださいます。困難とさまざまな問題と生活の暗闇の中にあっても。神はご自身のしかたで耳を傾け、こたえ、救ってくださいます。しかし、わたしたちは神の現存を認め、神の道を受け入れなければなりません。へりくだって、自らの子アブサロムから逃れたダビデと同じように。知恵の書の迫害された義人と同じように。そして、最後に、完全なしかたで、ゴルゴタの上の主イエスと同じように。神を敬わない人の目から見れば、神が助けることなく、御子は死んだように思われます。しかし、まさにそのとき、まことの栄光と決定的な救いの実現がすべての信じる者に示されたのです。主がわたしたちに信仰を与えてくださいますように。主が弱いわたしたちを助けに来てくださいますように。そして、わたしたちが、どんな悲しみと苦悩に満ちた疑いの夜の中でも、長い苦しみの日々の中でも、信じ、祈り、信頼をもって主に身をゆだねることができるようにしてくださいますように。主こそわたしたちの「盾」、わたしたちの「栄え」だからです。ご清聴ありがとうございます。

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