教皇ベネディクト十六世の283回目の一般謁見演説 詩編22

9月14日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の283回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第13回として、「詩編22」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の講話ではキリストの姿を深く暗示する詩編を考察したいと思います。この詩編はイエスの受難物語の中で絶えず現れます。それも、へりくだりと栄光、死といのちという二つの次元においてです。ヘブライ語の伝承によれば詩編22、ギリシア・ラテン語の伝承によれば詩編21は、悲しみと感動に満ちた祈りです。それは深い人間性と豊かな神学的意味をもっています。そのため、この詩編は詩編集全体の中でもっともよく唱えられ、研究される詩編の一つとなっています。詩編22は長文の詩ですが、わたしたちは特にその最初の部分を取り上げます。この部分の中心にあるのは悲しみです。そして、神への嘆願の祈りのいくつかの重要な側面の考察を深めたいと思います。
 詩編22は、迫害され、敵に取り囲まれた無実の人の姿を示します。敵はこの人を殺そうとしています。そこでこの人は悲痛な哀願をもって神に訴えかけます。この哀願は、信仰の確信のうちに、不思議なしかたで賛美へと開かれます。祈りの中で、現在の苦しい現実と過去の慰めに満ちた記憶が、自分の絶望的な状況の意識のうちに交わり合います。しかし、祈る人は希望を放棄しようとしません。彼が最初に上げる叫び声は、神への呼びかけです。神は遠く離れたところにおられるように思われるからです。神は答えず、自分を見捨てたかのように思われるのです。
 「わたしの神よ、わたしの神よ
 なぜわたしをお見捨てになるのか。
 なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
 呻きもことばも聞いてくださらないのか。
 わたしの神よ
 昼は、呼び求めても答えてくださらない。
 夜も、黙ることをお許しにならない」(2-3節)。
 神は沈黙しています。この沈黙は祈る人の心を苦しめます。祈る人は絶えず呼び求めますが、答えを得ることができません。昼が夜になり、夜が昼になっても、祈る人はことばをもって、来ることのない助けをうむことなく探し求めます。神は遠く離れ、自分のことを忘れ、不在であるかのように思われます。祈りは、聞き入れられ、答えられることを願います。自分に触れてくれることを促します。慰めと救いを与えてくれる関係を求めます。しかし、もし神が答えてくださらなければ、助けを求める叫びは空しく失われ、孤立は耐えがたいものとなります。にもかかわらず、詩編22の祈る人は、叫びの中で三度、主を「わたしの」神と呼びます。それは最高の信頼と信仰を示します。詩編作者は、外見がどのようであろうとも、主とのきずなが完全に断ち切られると考えることができません。そして、不可解なしかたで自分が見捨てられたかのように思われる理由を尋ねながら、いいます。「わたしの」神がわたしを見捨てることなど決してありえません。
 ご存じのとおり、マタイによる福音書とマルコによる福音書は、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という詩編の最初の叫び声を、イエスが十字架上で発した叫びとして報告します(マタイ27・46、マルコ15・34参照)。この叫びは、神の子であるメシアの苦悩を余すところなく表します。メシアは、いのちの主とまったく対極にある、死という悲惨な出来事に直面するからです。ほとんどすべてのご自分に属する人々から見捨てられ、弟子たちから裏切られ、否まれ、自分を侮辱する人々に取り囲まれたイエスは、自分を押しつぶそうとする重い使命の下に置かれます。この使命は、侮辱と殺害を経なければなりません。だから、御父への叫びと苦しみは、詩編の悲痛なことばで表されました。しかし、イエスの叫びは絶望の叫びではありません。それは、詩編作者の叫びが絶望の叫びでなかったのと同じです。詩編作者は、祈願の中で、苦難の道のりを経て、神の勝利に信頼し、ついに賛美することができるようになります。そして、ユダヤ教の習慣によれば、詩編の最初の部分を唱えることは詩全体に言及することを意味しました。それゆえ、イエスの苦しみの祈りは、たとえそれが筆舌に尽くせない苦しみに満ちたものであっても、栄光への確信へと開かれています。復活した主はエマオの弟子たちにいいます。「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(ルカ24・26)。主イエスは、受難の中で、御父に従順に従いながら、遺棄と死を経験しました。それは、いのちに達して、このいのちをすべての信じる人々に与えるためです。
 詩編22において、最初の祈願の叫びは、悲痛な対照をなしながら、過去の追憶へと続きます。
 「わたしたちの先祖はあなたにより頼み
 より頼んで、救われて来た。
 助けを求めてあなたに叫び、救い出され
 あなたにより頼んで、裏切られたことはない」(5-6節)。
 詩編作者にとって、今、神は遠く離れているかのように思われます。しかしこの神は、イスラエルが歴史の中で常に体験してきた、あわれみ深い主です。祈る人が属する民は、神の愛が注がれ、神の忠実を目の当たりにすることができました。太祖から始まり、後にエジプト、そして長い荒れ野の旅路、約束の地での滞在と、自分たちを攻撃する敵対する諸民族との接触、ついには捕囚の暗闇――これらのことの中で、聖書の歴史全体は、民が助けを求めて叫び、神が救いをもって答えてきた歴史です。詩編作者は太祖の揺るぎない信仰のことを述べます。太祖は「より頼み」(このことばは三回繰り返されます)、決して裏切られませんでした。しかし、今、この信頼の祈りと神の答えの連鎖は断ち切られたかのように思われます。詩編作者の置かれた状況は救いの歴史全体に反するように思われます。そのため、今の現実はますます苦悩に満ちたものとなります。
 しかし、神はご自身を裏切ることができません。それゆえ、祈りは祈る人の辛い状況の記述に戻ります。それは、かつていつもなされたのと同じように、主があわれんで、手を差し伸べてくださるよう促すためです。詩編作者は自分についていいます。「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥」(7節)。わたしは嘲笑(あざわら)われ、軽蔑された(8節参照)。そして信仰のゆえに傷つけられた。人々はいいます。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう」(9節)。皮肉と侮蔑をもって愚弄されることにより、迫害された人は、自らの人間としての姿を失ったかのように思われます。イザヤ書の中で描かれる苦難のしもべと同じようにです(イザヤ52・14、53・2b-3参照)。そして、知恵の書の迫害された義人や(知恵2・12-20参照)、カルワリオ(されこうべ)のイエスと同じように(マタイ27・39-43参照)、詩編作者は、自分を苦しめるものが激しく諷刺をもって強調されることにより、自分と主との関係が問われているのを目の当たりにします。それは、神の沈黙です。神が不在のように思われることです。にもかかわらず、神は、まごうことのないしかたで、近くに、また優しく、祈る人の生涯の中におられます。詩編作者はそのことを主に思い起こさせます。「わたしを母の胎から取り出し、その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。母がわたしをみごもったときから、わたしはあなたにすがってきました」(10-11a節)。主はいのちの神です。主は乳飲み子を生まれさせ、受け入れ、父の愛情をもって育てるからです。祈る人は初めに民の歴史における神の忠実を思い起こしました。そこから、彼は今や、自分の主との個人的な歴史を思い起こします。そのために彼は、生涯の初めの特に重要な出来事を振り返ります。詩編作者はそこに、現在の苦境にもかかわらず、神が近くにおられること、愛してくださることを見いだします。それがきわめて根本的なことであるがゆえに、彼は今や信仰と希望に満ちた告白をもって叫びます。「母の胎にあるときから、あなたはわたしの神」(11b節)。
 今や嘆きは悲しみに満ちた祈願となります。「わたしを遠く離れないでください、苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです」(12節)。詩編作者が自分の近くにいると感じているもの、彼を脅かしているものは、ただ敵だけです。それゆえ、神がそばに来て、助けてくださらなければなりません。なぜなら、敵は祈る人を取り囲んでいるからです。それは口を開いてうなり声を上げ、かみ砕こうとするたけだけしい雄牛やライオンのようだからです(13-14節参照)。苦悩は危機感に変わって、ますます増大します。敵は打ち勝ちがたいもののように思われます。彼らは凶暴で危険な獣となります。これに対して、詩編作者は小さく、無力で、身を守るすべもない虫けらのようです。しかし、詩編作者が用いるこのたとえは、次のことも表します。人間が残虐になり、兄弟を襲うとき、獣のようなものがその人を支配し、その人はあらゆる人間らしさを失います。暴力は常に自らのうちに野獣性を含みます。そして、神が救いをもって手を差し伸べることにより、初めて人間は人間性を回復できます。今、残忍な攻撃にさらされた詩編作者にとって、もはや逃げ道はないかのように思われます。死が彼を捕らえ始めます。「わたしは水となって注ぎ出され、骨はことごとくはずれ、・・・・口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。・・・・彼らはわたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」(15、16、19節)。キリストの受難物語で再び用いられる悲劇的なたとえにより、罪に定められた者のばらばらにされたからだ、瀕死の者を苦しめる耐えがたい渇きが語られます。この渇きは、イエスの「渇く」(ヨハネ19・28参照)という水を求める声のうちに響き渡ります。ついにそれは見張りたちの決定的な振る舞いにまで至ります。彼らは十字架の下の兵士たちと同じように、いけにえとされた者はすでに死んだ者と考えて、その服を分け合ったのです(マタイ27・35、マルコ15・24、ルカ23・23、ヨハネ19・23-24参照)。
 再びわたしたちは、もう一度助けを求める切迫した声を耳にします。「主よ、あなただけはわたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ、今すぐにわたしを助けてください。・・・・わたしを救ってください」(20、22a節)。この叫び声が天を開きます。なぜなら、この叫び声は信仰を告白するからです。いかなる疑いも、暗闇も、絶望も超えた確信を告白するからです。悲しみの祈りは造り変えられます。それは、救いを受け入れることにより、賛美に変わるのです。「わたしに答えてください。わたしは兄弟たちにみ名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します」(22c-23節)。こうして詩編は感謝へと開かれます。最終的に偉大な賛歌へと開かれます。この賛歌を唱えるのは、民全体、主に忠実に従う人々、集会、将来の世代の人々です(24-32節参照)。主は助けに来てくださいました。主は貧しい人を救って、あわれみのみ顔を示してくださいました。死といのちは、切り離しがたい神秘のうちに交わり合います。そして、勝利を得たのはいのちです。救いの神は裏切ることのない主としてご自身を現されました。地の果てまで、すべての人が神をほめたたえ、諸国の民のすべての家族がそのみ前にひれ伏します。それは信仰の勝利です。信仰は、死をいのちのたまものに造り変え、苦しみの淵を希望の泉へと変えることができるからです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。詩編22はわたしたちをゴルゴタへと、イエスの十字架の下へと導きます。それは、わたしたちがイエスの受難を追体験し、復活の実り豊かな喜びにあずかるためです。それゆえ、過越の神秘の光に満たされようではありませんか。たとえ神が不在であるかのように思われても。神の沈黙のうちにあっても。そして、エマオの弟子たちと同じように、外見を超えたまことの現実を見分けることを学ぼうではありませんか。そのために、侮辱のうちに栄光へと挙げられる道を、死と十字架のうちに完全に示されたいのちを見いだそうではありませんか。こうして父である神に心からの信頼と希望を置くことにより、わたしたちはどんな苦しみのうちにあっても、信仰をもって祈ることができます。助けを求める叫びは賛美の歌に変わるのです。ご清聴ありがとうございます。

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