教皇ベネディクト十六世の284回目の一般謁見演説 ドイツ司牧訪問を振り返って

9月28日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の284回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、9月22日(木)から25日(日)まで行った3回目のドイツ司牧訪問を振り返りました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 ご存じのとおり、先週の木曜日から日曜日まで、ドイツ司牧訪問を行いました。それゆえ、恒例に従い、今日の謁見の機会を用いて、わたしが祖国で過ごした充実した驚くべき日々をご一緒に振り返れることをうれしく思います。わたしはドイツを北から南へ、東から西へと横断しました。すなわち、首都ベルリンからエアフルトへ、アイヒスフェルトから最後にフライブルクへと。フライブルクはフランスとスイスとの国境近くにある町です。まず、人々と出会い、神について語り、ともに祈り、主がペトロとその後継者に与えた特別な命令に従って兄弟姉妹の信仰を強めることを可能にしてくださった主に感謝します。「神がおられるところに未来がある」というテーマのもとに行われた今回の訪問は、まことに偉大な信仰の祭典でした。この祭典は、さまざまな集いと対話、祭儀、特に神の民とともにささげるミサを通して行われました。これらの行事は貴重なたまものでした。このたまものによって、わたしたちは、神がわたしたちの人生に深い意味とまことの充実を与えてくださること、そればかりか、神だけがわたしたちとすべての人に未来を与えてくださることをあらためて認識できたのです。
 深い感謝をもって、温かく熱狂的な歓迎と、わたしが訪れたさまざまな場所で関心と愛情が示されたことを思い起こします。わたしを招待し、ご尽力くださったドイツ司教団、特にわたしを迎え入れてくださった諸教区の司教の皆様、また、今回の訪問を準備してくださった協力者の皆様に心から感謝申し上げます。(クリスティアン・ヴルフ)ドイツ連邦共和国大統領と、地域・国家の政府・公的機関の皆様に篤く御礼申し上げます。さまざまなしかたで今回の訪問が成功するために貢献してくださったかたがた、特に多くのボランティアのかたがたに深く感謝します。この訪問はわたしとわたしたち皆にとって大きな恵みであり、喜びと希望と、信じ、未来へと進むための新たな刺激を与えてくれました。
 首都ベルリンで、連邦共和国大統領は官邸で、自らわが母国であるドイツ国民を代表してわたしを迎え、ドイツ生まれの教皇に尊敬と愛情を示してくださいました(9月22日)。わたしも宗教と自由の間の関係についての短い考察を披歴させていただくことができました。その際わたしは、偉大な司教また社会改革者のヴィルヘルム・フォン・ケテラー(Willhelm von Ketteler 1811-1877年)のことばを引用しました。「宗教が自由を必要とするように、自由も宗教を必要とします」(「第1回カトリック教徒大会における1848年10月4日の即興演説」、桜井健吾訳、W・E・フォン・ケテラー『自由主義、社会主義、キリスト教』晃洋書房、2006年、15頁)。
 わたしは喜んでドイツ連邦議会訪問の招待をお受けしました(同日)。これが今回のわたしの司牧訪問の中で大きな意味をもつ出来事だったのはいうまでもありません。ドイツ議会議員の前で教皇が演説を行ったのは初めてのことです。この機会に、わたしは法律と自由な法治国家の基礎を考察しようと望みました。この基礎とは、創造主がご自身の被造物の中に記した、あらゆる法律の基準です。それゆえ、わたしたちの自然本性概念を拡大しなければなりません。そのために、自然本性を、諸機能の総体としてだけでなく、それ以上に、わたしたちが善と悪を識別するための助けとなる、創造主の言語として理解しなければなりません。続いてドイツにおけるユダヤ教共同体代表者との会見も行われました。わたしたちは、アブラハム、イサク、ヤコブの神に対する信仰という、自分たちの共通の起源を思い起こしながら、ドイツにおいて行われてきたカトリック教会とユダヤ教の対話がこれまでにさまざまな成果を生み出してきたことを確かめました。イスラーム共同体の代表者との会見も同じように行われました。わたしたちは、人類の平和的な発展にとって信教の自由が重要であることについて意見を同じくしています。
 今回の訪問第一日の終わりに行われた、ベルリンのオリンピアシュタディオンでのミサは、大規模な典礼となりました。この典礼で、わたしは信者の皆様とともに祈り、彼らの信仰を励ますことができました。多くの人々がミサに参加してくださったことをたいへんうれしく思います。この印象深い祭典の中で、わたしは、ぶどうの木とその枝という福音書のたとえを黙想しました。信者としての個人的な生活にとっても、キリストの神秘体である教会の生活にとっても、キリストと一つに結ばれることが重要です。
 訪問の第二の歩みはテューリンゲンで行われました。ドイツ、特にテューリンゲンは宗教改革の地です。それゆえ、わたしは初めから、今回の訪問の日程の中でエキュメニズムを特別に重視したいと強く望みました。そして、エアフルトでエキュメニズムの時をもちたいと心から思いました。なぜなら、まさにこの町でマルティン・ルター(Martin Luther 1483-1546年)はアウグスチノ修道会に入り、そこで司祭叙階を受けたからです。それゆえ、旧アウグスチノ会修道院でドイツ福音教会評議会会員との会合と、エキュメニカル礼拝を行えたことをとてもうれしく思います(9月23日)。会合はとても親密なものでした。この会合は、対話と祈りを通じて、わたしたちを深くキリストへと導いてくれました。わたしたちは現代世界においてイエス・キリストへの信仰を共同であかしすることが重要であることをあらためて見いだしました。現代世界はしばしば神を無視するか、神に関心をもたないからです。完全な一致に向かう歩みの中では、わたしたちの共同の努力が必要です。しかしわたしたちは、信仰や望んでいる一致を自分たちで「作り出す」ことができないことを常に自覚しています。自分で作り出した信仰には何の意味もありません。真の一致は何よりもまず主が与えてくださるたまものです。主は、ご自分の弟子たちの一致のために、かつて祈られましたし、今も常に祈ってくださいます。わたしたちにこの一致を与えることができるのはキリストだけです。わたしたちは、キリストに向かい、キリストによって造り変えていただけばいただくほど、ますます一致するのです。
 エッツェルスバッハの聖母巡礼聖堂で行われた聖母の晩の祈りは特別に感動的な行事でした(同日)。大勢の巡礼者がわたしを出迎えてくださったからです。わたしは若いときからアイヒスフェルト地域についての話を聞いてきました。アイヒスフェルトは、歴史のさまざまな出来事の中で常にカトリック信仰にとどまった地域です。またアイヒスフェルトの住民は、ナチズムと共産主義の独裁政治に勇敢に立ち向かいました。ですから、エッツェルスバッハの悲しみの聖母の不思議なご像への巡礼を機に、アイヒスフェルトとその住民を訪問することができ、たいへんうれしく思います。エッツェルスバッハでは、何世紀にもわたって信者がマリアに自分の願いと心配事と苦しみをゆだね、慰めと恵みと祝福を与えられてきたのです。壮麗なエアフルトの大聖堂広場でささげられたミサも感動的でした(9月24日)。わたしは、テューリンゲンの守護聖人――聖エリーザベト(Elisabeth 1207-1231年)、聖ボニファティウス(Bonifatius 672/675-754年)、聖キリアン(Kilian 640頃-689年頃)――と、全体主義体制の時期に福音をあかしした信者の輝かしい模範を思い起こしながら、信者の皆様を招きました。現代の聖人となってください。キリストを力強くあかししてください。そして、現代社会の建設に貢献してください。実際、世を真の意味で変革するのは常に、聖人と、キリストの愛に満たされた人々です。ダッハウ強制収容所を生き伸びた最後のドイツ人司祭のヘルマン・シェイペルス師(Hermann Scheipers 1913年-)との短い会見も感動的なものでした。エアフルトでは、修道者から性的虐待を受けた何人かの被害者のかたがたともお目にかかることができました。わたしはこのかたがたに、遺憾の念と、苦しむ彼らに寄り添うことをお伝えしたいと望んだのです。
 わたしの旅の最後の歩みは、ドイツの南西部、フライブルク大司教区で行われました。美しい町フライブルクの住民、フライブルク大司教区の信者、スイス、フランスまた他の国々から来た巡礼者の皆様から、わたしは特別に盛大な歓迎を受けました(9月24日)。多くの若者とともに行った晩の祈りでも、同じような歓迎を受けました(同日)。祖国ドイツの信仰が若々しい顔をもっているのを見て、うれしく思いました。この信仰は、生きていて、未来に開かれています。意味深い光の祭儀の中で、わたしは若者たちに復活のろうそくの火を手渡しました。復活のろうそくの火は、キリストの光の象徴です。そしてわたしは彼らを励ましました。「あなたがたは世の光である」。わたしは若者たちにあらためて申し上げました。教皇は若者たちの積極的な協力に期待しています。若者たちは、キリストの恵みによって、世に神の愛の火をもたらすことができるのです。
 フライブルクの神学校での神学生との集いは特別な行事でした。数週間前に届いた、心を揺さぶられる手紙にある意味でこたえながら、わたしは若い神学生たちに、主の召し出しのすばらしさと偉大さを示そうと望みました。そして、喜びをもって、キリストとの深い交わりのうちに、キリストに従って歩み続けるための助けを与えたいと思いました。同じ神学校の中で、わたしは兄弟愛の雰囲気のうちに、東方正教会代表者のかたがたと会見することができました。わたしたちカトリック教会の信者は東方正教会に対して深い親近感を抱いています。このような大きな共通性から、現代社会を刷新するためのパン種となるという共通の責務も生まれます。神学校での行事の終わりには、ドイツのカトリック信徒の代表者との会見が行われました。
 フライブルク空港で行われた大規模な主日のミサも、今回の司牧訪問のもう一つの頂点をなす行事でした(9月25日)。このミサは、教会生活のさまざまな領域で働く人々、特に福祉事業における多くのボランティアと協力者に感謝する機会ともなりました。これらの人々のおかげで、ドイツ教会が普遍教会、特に宣教地にさまざまな援助を行うことが可能となっています。わたしはまた次のことを申し上げました。この人々の奉仕が常に実り豊かなものとなるには、それが真の生きた信仰から生まれ、司教と教皇との一致、教会との一致を保たなければなりません。最後に、ドイツを離れる前に、教会と社会の中で活動する多くのカトリック信者の皆様とお話ししました。その際わたしは、世俗化した社会における教会活動について、神に対していっそう開かれた者となるためには物質的・政治的重圧から解放されなければならないことについて、若干の考察を行いました。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。今回のドイツ司牧訪問は、祖国ドイツの信者と会い、彼らの信仰と希望と愛を強め、カトリック信者である喜びを彼らと分かち合うための貴重な機会を与えてくれました。しかし、わたしのメッセージは全ドイツ国民に向けられたものでした。それは、すべての人が信頼をもって未来に目を向けるよう招くためです。まことに「神がおられるところに未来がある」のです。今回の訪問を可能にしてくださったかたがた、祈りをもってわたしとともに歩んでくださったかたがたにあらためて感謝申し上げます。主がドイツにおける神の民を祝福してくださいますように。皆様をも祝福してくださいますように。ご清聴ありがとうございます。

PAGE TOP