教皇ベネディクト十六世の2011年10月2日の「お告げの祈り」のことば 隅の親石であるキリスト

教皇ベネディクト十六世は年間第27主日の10月2日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア […]


教皇ベネディクト十六世は年間第27主日の10月2日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「親愛なる兄弟姉妹の皆様。今日の午後、イヴレーアで、イヴレーアの無原罪の愛徳姉妹会の創立者であるアントニア・マリア・ヴェルナ修道女(Antonia Maria Verna 1773-1838年)が列福されます。列福式は国務省長官のタルチジオ・ベルトーネ枢機卿が司式します。18世紀から19世紀に生きた、女性の奉献生活者と教育者の模範として、輝かしい新たな福者を与えてくださったことを神に感謝したいと思います」。

教皇は7月7日から夏季滞在を行っていたカステル・ガンドルフォから、10月1日(土)午後、バチカンに戻りました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の主日の福音は、イエスの警告で結ばれます。この警告は、祭司長や民の長老たちに向けられた、特別に厳しいものです。「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(マタイ21・43)。このことばは、あらゆる時代において、特に権威ある役割をもって主のぶどう畑で働くよう招かれた人々が担う、大きな責任を考えさせてくれます。そして、あらためてキリストに完全な忠実をもって従うよう促します。キリストは「家を建てる者の捨てた石」(マタイ21・42参照)です。なぜなら、家を建てる者はキリストを律法の敵であり、公的秩序に対して危険だと判断したからです。しかし、拒絶され、十字架につけられたキリストご自身は、復活して、「隅の親石」となりました。この親石の上に、すべての人と全世界は完全な確実性をもって基盤を置くことができます。不忠実な農夫たちのたとえは、この真理について語ります。ある人がこの農夫たちに、自分のぶどう畑をゆだねました。それを耕し、収穫を得させるためです。ぶどう畑の主人は神ご自身を表します。これに対して、ぶどう畑は、神の民と、神がわたしたちに与えてくださったいのちを象徴します。神がいのちを与えてくださったのは、わたしたちが、神ご自身の恵みとわたしたちの努力によって、善を行うためです。聖アウグスティヌス(Aurelius Augustinus 354-430年)は解説していいます。「神は、わたしたちをよりよいものとするために、畑のようにわたしたちを耕されます」(『説教87』:Sermo 87, 1, 2, PL 38, 531)。神はご自身の友のために計画をもっておられましたが、残念ながら、人間のこたえはしばしば不忠実に傾きます。不忠実は拒絶となって現れます。傲慢と利己主義は、神のもっとも貴いたまものである、神のひとり子を認め、受け入れることさえも妨げます。実際、マタイ福音書記者が述べるとおり、「主人は自分の息子を送った」のですが、農夫たちは「息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった」(マタイ21・37、39)のでした。神はご自身をわたしたちの手にゆだねます。神ははかりしれない無力さの神秘を受け入れ、愛の計画への忠実のうちにご自分の全能を示されます。しかし、この愛の計画は、最終的に、悪人に対する正しい裁きも予定しています(マタイ21・41参照)。
 わたしたちは、隅の親石であるキリストへの信仰に堅固な錨(いかり)を下ろしながら、ぶどうの枝としてキリストのうちにとどまります。ぶどうの枝は、ぶどうの木にとどまらなければ、自分で実を結ぶことができません。キリストのうちに、キリストによって、キリストとともにいることによってのみ、新約の民である教会は築かれます。このことに関して神のしもべパウロ六世は述べます。「教会が、自分自身についていっそう深い自覚をもつことによって、まず第一に、キリストと生命の通うつながりをもっているのだということが、再びみずみずしい姿で表れてくる。このことは、よく知られている。しかし、それは基礎である。しかし、それを欠くことはできない。しかし、それは決して十分に知られ、反省され、示されたとはいえない」(回勅『エクレジアム・スアム(1964年8月6日)』:Ecclesiam suam, AAS 56 [1964], 622)。
 親愛なる友人の皆様。主はいつも近くにいて、人類の歴史の中で働いておられます。主はまたご自分の天使たちの特別な現存をもってわたしたちとともにいてくださいます。今日、教会は天使たちを「守護の天使」、すなわちすべての人に対する神の気遣いの奉仕者としてあがめます。人間のいのちは、初めから死の時まで、天使たちの絶えざる保護に包まれています。天使たちは、勝利の元后であるロザリオの聖母の冠でもあります。10月の第一日曜日のちょうど今から、ポンペイの聖母巡礼聖堂と、世界中で、このロザリオの聖母に対して熱心な祈願がささげられます。どうか悪が滅ぼされ、神のいつくしみが完全に現されますように。

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