教皇ベネディクト十六世の285回目の一般謁見演説 詩編23

10月5日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の285回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第14回として、「詩編23」に […]


10月5日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の285回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第14回として、「詩編23」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇はイタリア語で、アフリカ・ソマリア地域の飢餓救援に関して次の呼びかけを行いました。
「アフリカの角(ソマリア)の地域を襲った飢餓に関する悲惨な知らせが届き続けています。いくつかの愛のわざを行うカトリック団体代表者とともにこの謁見に出席くださった、教皇庁開発援助促進評議会議長のロベール・サラ枢機卿、モガディシュの使徒座管理区長のジョルジョ・ベルティン司教にごあいさつ申し上げます。これらの団体は、この人道危機に立ち向かうための取り組みを考察し、それに最終的な刺激を与えるための会合を開いておられます。この会議にはカンタベリー大主教代理も参加されます。カンタベリー大主教も被災者のための呼びかけを行われました。国際社会にあらためて心からお願いします。これらの地域の人々への支援を継続してください。そしてすべての人にお願いします。厳しい試練にさらされたこれらの兄弟姉妹、特に病気と、水と食料の不足のためにこの地域で毎日亡くなっている子どもたちのために、祈り、具体的な援助を行ってください」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 主に祈りをささげることは、根本的に信頼する行為を表します。その人は、いつくしみ深く、「あわれみ深く恵みに富み、怒るに遅く、いつくしみとまことに満ちている」(出エジプト34・6-7、詩編86・15。ヨエル2・13、創世記4・2、詩編103・8、145・8、ネヘミヤ9・17参照)神に身をゆだねられることを知っています。それゆえ、今日は、ご一緒に、信頼に満ちた一つの詩編を考察したいと思います。この詩編の中で、詩編作者は、自分が導かれ、守られ、あらゆる危険から逃れているという静かな確信を表明します。なぜなら、主が彼の羊飼いだからです。この詩編23(ギリシア語・ラテン語版の数え方では詩編22)は、だれもが知っており、だれからも愛されているテキストです。
 「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」。この美しい祈りはこのように始まります。このことばは、放牧の生活と、羊飼いと羊が互いを知っているという体験を思い起こさせます。羊は自分たちの小さな群れを作ります。このたとえは、信頼と親しさと優しさに満ちた雰囲気を示します。羊飼いは自分の羊を一匹ごとに知っています。彼は羊の名を呼び、羊は羊飼いに従います。羊は羊飼いを知っており、羊飼いに信頼しているからです(ヨハネ10・2-4参照)。羊飼いは羊の世話をし、貴重な宝物のように彼らを守り、進んで彼らを保護し、彼らが落ち着いて過ごせるようにその健康を保障します。羊飼いが羊とともにいれば、何も欠けることはありえません。詩編作者は、このような体験に基づいて、神を自分の羊飼いと呼び、安全な青草の原まで神に導いてもらいます。
 「主はわたしを青草の原に休ませ
 憩いの水のほとりに伴い
 魂を生き返らせてくださる。
 主はみ名にふさわしく
 わたしを正しい道に導かれる」(2-3節)。
 わたしたちの目の前に開かれた情景は、緑の草原と、澄んだ水のわき出る泉です。羊飼いはこの平和のオアシスに羊の群れを伴います。このオアシスは、主が詩編作者を導く、いのちの場の象徴です。詩編作者は、自分が羊のように泉のほとりの草原に横たわり、憩っていると感じます。彼には何の緊張も不安もなく、むしろ信頼と落ち着きで満たされています。自分のいる場所は安全で、水は冷たく、羊飼いが自分を見守っているからです。ここで忘れてはならないことがあります。詩編が描く光景は、その大部分が荒れ野に囲まれているということです。荒れ野には灼熱の太陽が照りつけています。地中海式の半放牧を行う羊飼いは、村々を囲んで広がる、乾燥した草原で羊の群れと生きています。けれども羊飼いは、生きるために不可欠な草原と新鮮な水がどこにあるかを知っています。魂を「生き返らせ」、再び歩み始めるための新たな力を回復できるオアシスへと導くことができます。
 詩編作者がいうとおり、神は詩編作者を「青草の原」、「憩いの水」へと導きます。そこではすべてが満ちあふれ、豊かに与えられます。主が羊飼いなら、欠乏と死の場所である荒れ野にいても、根本的ないのちが存在することを確信できます。そして、「何も欠けることがない」ということができます。実際、羊飼いは羊の群れを心にかけ、自分の歩調と必要を羊に合わせます。彼は羊たちとともに歩み、生活します。自分が必要とすることではなく、羊の群れが必要とすることに注意を払いながら、「正しい」道、すなわち彼らにふさわしいところへと導きます。自分の群れの安全が羊飼いの第一の目的であり、この目的に従って彼は群れを導くのです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちも詩編作者と同じように、「よい羊飼い」に従って歩むなら、人生の歩みがどれほど困難で、曲がりくねり、長いように思われても、しばしば、水もなく、灼熱の合理主義の太陽が照りつける霊的な荒れ野の地を歩んでいても、こう確信することができます。わたしたちは「正しい」道を歩いています。主がわたしたちを導き、いつもそばにいてくださり、わたしたちには何も欠けることがありません。
 それゆえ詩編作者は、不安も恐れも感じずに、落ち着き、安心していると宣言できます。
 「死の陰の谷を行くときも
 わたしは災いを恐れない。
 あなたがわたしとともにいてくださる。
 あなたの鞭、あなたの杖
 それがわたしを力づける」(4節)。
 主とともに歩む人は、たとえ苦しみと不安とあらゆる人間的な問題の陰の谷にあっても、安心していられます。あなたがわたしとともにいてくださる。これがわたしたちの確信です。この確信がわたしたちを支えてくれます。夜の闇は恐れを引き起こします。その揺れ動く影と、危険を見分けることの困難と、謎めいた物音に満ちた沈黙のためです。羊の群れが、日が沈んで、ものが見えなくなった後に移動するなら、羊は普通、不安に陥ります。つまずいたり、群れから離れて、迷子になる恐れがあるからです。群れを襲う者が闇の中に隠れている可能性もあります。詩編作者は、「陰の」谷について語るために、死の闇を表すヘブライ語のことばを用います。彼が通らなければならない闇は、不安と、恐るべき脅威と、死の危険の伴う場所です。にもかかわらず、祈る人は恐れずに、安心して歩みます。主が自分とともにいてくださることを知っているからです。この「あなたがわたしとともにいてくださる」は、揺るぎない信頼を宣言するとともに、深い信仰体験を要約したことばです。神がそばにいてくださることによって、現実は変わります。あらゆる危険が死の陰の谷からなくなります。どのような脅威も消え去ります。今や羊の群れは、聞き慣れた杖の音に伴われて、落ち着いて歩むことができます。その音は、地を打ち、羊飼いがそばにいて元気を与えてくれることを示します。
 このような慰めに満ちた情景は、詩編の前半を終えると、別の光景に場を譲ります。わたしたちはあいかわらず荒れ野にいます。荒れ野では、羊飼いが自分の群れとともに生活していますが、今やわたしたちは羊飼いの天幕の下に移されます。天幕はもてなしを施すために開かれます。
 「わたしを苦しめる者を前にしても
 あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
 わたしの頭に香油を注ぎ
 わたしの杯を溢れさせてくださる」(5節)。
 今や主は、惜しみないもてなしと、豊かな配慮のしるしをもって祈る人を迎え入れるかたとして示されます。神である主人は、「食卓」の上に食事を整えてくださいます。「食卓」は、ヘブライ語の元々の意味で、動物の皮を表します。この皮は地面に広げられ、その上に、共同の食事のために皿が置かれます。この分かち合いは、食物の分かち合いであるだけでなく、いのちの分かち合いでもあります。交わりと友愛が示されることによって、きずなが深められ、連帯が表されるからです。それから、かぐわしい香油の贈り物が頭に注がれます。香油は、荒れ野の太陽の暑さを和らげ、皮膚を冷やし、その香りによって心を喜ばせます。最後に、上質のぶどう酒で満たされた杯が祝宴のリストに加わります。ぶどう酒は惜しみなく豊かに分かち合われます。食事、香油、ぶどう酒――これらはいのちと喜びを与えるたまものです。それらのものは、厳密な意味で必要なものを超えたものであり、それゆえ無償で豊かな愛を表すからです。詩編104は、主のいつくしみ深い摂理をたたえていいます。「家畜のためには牧草を茂らせ、地から糧を引き出そうと働く人間のためにさまざまな草木を生えさせられる。ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ、パンは人の心を支える」(14-15節)。多くの配慮が詩編作者に示されます。彼は自らを、もてなしの天幕で休む旅人と考えます。敵は立ち止まって見つめるだけで、何も手を下すことができません。敵が自分の餌食と考えていたものは、安全な場所に置かれ、手を触れることのできない聖なる客となったからです。わたしたちも、本当にキリストとの交わりのうちにある信者でいるなら、この詩編作者となります。神がご自分の天幕を開いてわたしたちを受け入れてくださるなら、だれもわたしたちを傷つけることはできません。
 やがて旅人が再び出発しても、神の保護は続き、旅人とともに旅路を歩んでくださいます。
 「いのちのある限り
 恵みといつくしみはいつもわたしを追う。
 主の家にわたしは帰り
 生涯、そこにとどまるであろう」(6節)。
 神のいつくしみとまことは、詩編作者が天幕を出て、旅を再開しても、護衛として彼に伴います。しかし、この旅路は新たな意味を与えられます。それは主の神殿への巡礼となるのです。祈る人は、この聖なる場所に永遠に「とどまり」、またそこに「帰る」ことを望みます。ここで用いられているヘブライ語の動詞は「帰る」意味を表しますが、母音を少し変えると「とどまる」意味も示すことができます。そこで、古代の版も、近代の翻訳の大部分も後者の意味にとっています。わたしたちは両方の意味にとることが可能です。神殿に帰ることと、神殿にとどまることは、すべてのイスラエル人の望みです。近くにおられるいつくしみ深い神のそばにとどまることは、すべての信じる者の願いであり、あこがれです。それは、本当に神のおられるところ、神の近くに住めることだからです。わたしたちは羊飼いであるかたに従うことによって、このかたの家へと導かれます。この家こそ、すべての歩みが目指す目的です。それは、荒れ野で望んだオアシスであり、敵から逃れるための避難所となる天幕であり、日々、終わりのない静かな喜びのうちに、神の忠実ないつくしみと愛を味わうことのできる平和の場所です。
 豊かで深い意味をもつこの詩編の象徴表現は、イスラエルの民の歴史と宗教体験全体とともに歩んできましたし、キリスト信者とも、ともに歩んでいます。特に羊飼いの姿は、出エジプトの初期の時代と、長い荒れ野の旅路を思い起こさせます。人々の群れは神である羊飼いに導かれました(イザヤ63・11-14、詩編77・20-21、78・52-54参照)。また、約束の地で、王の務めは主の群れを養うことでした。たとえば、神に選ばれた牧者であり、メシアの先取りであるダビデのように(サムエル記下5・1-2、7・8、詩編78・70-72参照)。後に、バビロン捕囚の後、いわば新たな出エジプトのように(イザヤ40・3-5、9-11、43・16-21参照)、イスラエルは祖国に帰りました。散らされた羊が神によって再び見つけ出され、肥沃な牧草地また憩いの場所に連れ戻されるように(エゼキエル34・11-16、23-31参照)。しかし、主イエスのうちに、詩編23が表す力は完成し、完全な意味を見いだします。イエスは「よい羊飼い」です。この「よい羊飼い」は、迷い出た羊を捜しに出かけます。彼は自分の羊を知っており、羊のためにいのちをささげます(マタイ18・12-14、ルカ15・4-7、ヨハネ10・2-4、11-18参照)。このかたは道であり、それも、わたしたちをいのちへと導く正しい道です(ヨハネ14・6参照)。また、死の陰の谷を照らし、わたしたちのあらゆる恐れに打ち勝つ光です(ヨハネ1・9、8・12、9・5、12・46参照)。わたしたちを受け入れ、敵から救い、ご自身のからだと血によって食卓を整えてくださる主人です(マタイ26・26-29、マルコ14・22-25、ルカ22・19-20参照)。それは天において行われるメシアの婚宴の決定的な食卓です(ルカ14・15以下、黙示録3・20、19・9参照)。イエスは王である羊飼いです。十字架の栄光の木の玉座に座る、柔和とゆるしに満ちた王です(ヨハネ3・13-15、12・32、17・4-5参照)。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。詩編23はわたしたちを招きます。神への信頼を新たにしなさい。神の手に自分を完全にゆだねなさい。それゆえ、信仰をもって願おうではありませんか。主よ、現代の困難な道にあっても、わたしたちがいつも従順な群れとして主の道を歩めるようにしてください。わたしたちをあなたの家、あなたの食卓に迎え入れてください。わたしたちを「憩いの水」に導いてください。あなたの霊のたまものを与えられたわたしたちが、あなたの泉から、「永遠のいのちに至る水がわき出る」(ヨハネ4・14。7・37-39参照)泉から飲むことができますように。ご清聴ありがとうございます。

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