世界代表司教会議(シノドス)第13回通常総会『提題解説』に対する日本カトリック司教協議会公式回答

「キリスト教信仰を伝えるための新しい福音宣教」をテーマに2012年10月7日から28日までバチカンで開催される第13回通常シノドス(世界代表司教会議)のために、2011年2月2日付で「提題解説」(Lineamenta)が […]

「キリスト教信仰を伝えるための新しい福音宣教」をテーマに2012年10月7日から28日までバチカンで開催される第13回通常シノドス(世界代表司教会議)のために、2011年2月2日付で「提題解説」(Lineamenta)が発表され、司教協議会としての正式回答書の提出が求められていました。 回答案は、2011年8月末日までに各教区と男女修道会・宣教会総長管区長から提出された諸意見に基づいて、シノドス代表参加者の宮原良治司教が作成し、特別臨時司教総会(2011年10月7日)で承認され、10月末に教皇庁シノドス事務総局に提出されました。以下はその公式回答書です。

第13回通常シノドス『提題解説』に対する日本カトリック司教協議会の公式回答

2011年10月7日

序論 日本における福音宣教への取り組み――NICEから現代まで

(1)NICE開催20周年(序論質問1)

 1965年に第二バチカン公会議が終了し、1975年にパウロ六世が「現代社会の福音化」に関する使徒的勧告を発表、特に1981年に教皇ヨハネ・パウロ二世が来日したことがきっかけとなって、日本司教団は、1984年に「日本のカトリック教会の基本方針と優先課題」を発表し、1987年に第1回福音宣教推進全国会議(NICE-1)が京都で開催された。NICE-1の参加者からの提案に答えた司教団は『ともに喜びをもって生きよう』を発表した。日本の教会の直面している課題として挙げられたことは、以下3点である。
 ①日本の社会とともに歩む教会:生活から信仰を、社会の現実から福音宣教のあり方を見直すため、教会が真に社会とともに歩むために具体案を提示した。
 ②生活を通して育てられる信仰:生活から信仰を、社会の現実から福音宣教のあり方を見直すため、生活を通して信仰を育てるために、具体案を提示した。
 ③福音宣教をする小教区:生活から信仰を、社会の現実から福音宣教のあり方を見直すため、真に福音宣教をする小教区となるため、具体案を提示した。
 その後、1993年に第2回福音宣教推進全国会議が「家庭の現実から福音宣教のあり方を探る」をテーマに開催された。1995年には、戦後50年にあたり、『平和への決意』を発表し、2001年には『いのちへのまなざし』を発行し、現代日本社会が抱える諸問題に、苦しむ人々とともに歩もうとする姿勢をもって教会が取り組むことを表明した。
 NICE-1開催20周年に際し、NICE「振り返り」を行った司教は次のメッセージを発表した。
「NICE-1から20年が過ぎました。司教団が掲げた「ともに喜びをもって生きよう」と「分かち合い」の勧めは確実に浸透しつつあります。とくに近年、聖書の分かち合いが各地で頻繁に行われるようになってきたことは喜ばしいことです。また、外国籍信徒の増加がめざましく、信徒総数の50%を超えると思われ、韓国やフィリピンなど、アジアの人々との連帯も進んできました。他方、以前にも増して、多くの人が心身の重荷に苦しみ、福音に飢え渇いています。現代の荒れ野とも言うべき、厳しい社会・家庭環境において人々が悩み、苦しんでいる今、わたしたちは「神であるにもかかわらず兄弟の一人となられたキリストにならい、全ての人に開かれ、全ての人の憩い、力、希望となる信仰共同体を育てるよう努めたい」(「第1回福音宣教推進全国会議 参加者一同の宣言」参照)との決意を新たにし、それを未来につないでいきたいと思います」(「NICE-1から20周年――パウロ年と列福式を迎えて――(2008年6月3日)」)。

(2)日本における福音宣教に刺激を与えた出来事(序論質問2 その一)

 最近の日本の教会の福音宣教活動に刺激を与えた出来事としては次のものが挙げられる。
①マザー・テレサの活動
 マザー・テレサの活動は教会のみでなく日本社会に、小さな人びとに目を向けることの大切さを教え、その視点を根づかせてくれた。彼女の生き方は多くの若者の指標になっている。バブルの時代とその崩壊を経験した日本は、その後遺症に苦しみながら、マザー・テレサの世界の大切さに気づいている。
②教皇ヨハネ・パウロ二世の来日
 ヨハネ・パウロ二世の訪日(1981年)は、特に教会に大きな影響を与えた。教皇の広島での平和アピールに触発された司教団は、平和の推進を唯一の被爆国の使命と理解し、「平和旬間」を定め、毎年活動を行っている。それ以来、社会政治問題に介入することにためらいを感じていた日本の教会が、社会の福音化に積極的に取り組むようになった。
③東日本大震災と原発事故
 2011年3月11日に起こった東日本大震災からは、人間が自然の前に謙虚になる必要を学び、文明に対する過度の信頼の危険、薄れてきていた種々の絆の大切さ、先人の知恵の大切さを学んだ。何よりも支援、ボランティア活動などを通して聖霊の働きを確認できた。福島原子力発電所の災害は、あらためて原子力の恐ろしさをまざまざと見せつけ、人間の知恵と技術の限界を私たちに教え、生活様式そのものの大転換を迫っている。

(3)日本の福音宣教のあり方に影響を及ぼした社会変化(序論質問2 その二)

 一方、次の社会変化が、日本における福音宣教のあり方に影響を及ぼしている。
①不況と自死の増加
 日本は、第二次世界大戦後における経済の発展と科学技術の進展が、結局のところ多くの人の心に真の幸福をもたらすことはなかったことを体験した。とりわけ、右肩上がりの経済成長が限界に達し、徹底的な不況の波が押し寄せ、日本国内で13年にわたり年間3万人を超える人が自死に追いやられている現状を見る限り、この60年ほどの間、世界全体が目指してきた発展の方向性が、果たして神の目において正しいものであったのかどうか、ふり返る必要性に迫られている。
②移住者の増加
 日本の教会は、近年増加している日本における外国人(その中には多くのカトリック信者が含まれる)との共生を課題としてきた。移住者を中心とした教会共同体作りが多くの地域で推進されていることは特筆されるべきである。労働者としての滞在であれ、婚姻関係を通じた滞在であれ、日本の各地で、移住者信徒の存在はこれからの教会共同体のあり方を考える上で、無視できない存在となっている。

(4)新しい福音宣教とは(序論質問3)

①霊的体験の必要性
 現代の日本社会は、明治時代に再宣教が開始して150年を経過するが、それ以前に国家として意識的にキリスト教を排斥し続ける250年余りの歴史をもつ。したがって、それはむしろマイナスからの再出発であり、キリスト教がインカルチュレーションを実現するには忍耐強い成長の歴史を重ねなければならないことを意識的に受け入れて歩む必要がある。このような社会で、福音(イエス・キリスト)の生きている現実とそのメッセージを、単なる翻訳を通してではなく、生きた自分たちの日常言語で宣教できるようになるには時間がかかる。独自のキリスト教文化が形成されるには、深く多くの霊的体験(キリストとの出会いの体験)の積み重ねが必要である。宣教のためのことばを整えていくには、こうした霊的体験への導きも必要である。福音宣教のために日本社会への参加・貢献を重ねても、生きたキリストとの出会いの中で福音を受けとめ、意識化し、深めていかなければ、単なる行動主義に陥り、福音宣教のダイナミックな成長と広がりを生んでいくことはできない。
②本質的なものからの再出発
 日本社会の中で「新しい福音宣教」を行うとは、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない」(イザヤ65・17)ということばに共鳴して生きることである。この呼びかけに耳を傾け、あらゆる存在の根底に神の創造的な働きを読み取る必要がある。存在の根底に立ち返るとは、福音そのものであるイエス・キリストご自身とはだれか、イエスが身をかがめる人間とは何か、わたしたち人間が生きている大地(社会・世界)とは何かを根本から問い直すことでもある。そのためには観想的なまなざしが必要である。こうした本質を問い直す絶えざる努力なしに、創造のわざである「新しい福音宣教」を実現することはできない。現代は、聖書がもっている視点であり(創世記1~3章参照)、日本社会にも受け入れられている(「天・地・人」)、「神と大地と人」の関係性の中で人間の本質が探究されている時代でもある。要するに「本質的なものから再出発すること」が、新しい福音宣教において問われている。
③主の愛を認めること
 「本質的なものから再出発する」とは、次のことである。「「(キリストは)わたしを愛し、わたしのために身をささげられた」(ガラテヤ2・20)と使徒パウロをしていわしめたように、心底から自覚して、わたし個人に向けられた主の愛を認めることなのです。主に限りなく愛されているという自覚だけが、あらゆる個人的な困難や制度面でのむずかしさを乗り越えていくことを助けてくれます。・・・・彼らを強め、勇気を授けるこの愛こそが、彼らの心を燃え立たせ、何ごとにもチャレンジできるようにしてくれるのです」(教皇庁奉献・使徒的生活会省『キリストからの再出発(2002年5月19日)』22)。
④キリストのみ顔の観想
 それゆえ、新しい福音宣教を考えていくとき、教皇ヨハネ・パウロ二世が指摘した次のことが重要な指針になると思われる。「問題の倫理的、社会的な側面は、キリスト教的なあかしにとって欠くことのできない要素を示しています。ですから、内向きで個人主義的な霊性への誘惑は退けなければなりません」(使徒的書簡『新千年期の初めに(2001年1月6日)』52)。その上で、「今日の人々は今日の信仰者に、たとえ意識的にでなくても、キリストについて『語ってほしい』だけでなく、ある意味でキリストに『会いたい』と願っています。・・・・しかし、わたしたちがまずキリストのみ顔を観想しない限り、わたしたちのあかしは、耐えがたいほど貧弱なものであるにちがいありません。・・・・わたしたちのまなざしは・・・・今まで以上に主のみ顔の上にしっかりと注がれていることでしょう」(同16)。新しい千年期において、日本社会に「救い主キリストの最初の告知」がなされるために、まず「キリストのみ顔の観想」へと招かれる必要がある。人々が教義以上に「神に出会った人」を探し求める日本の文化的・宗教的伝統から考えても、霊性的なアプローチを強調することなしに「新しい福音宣教」はむずかしいと思われる。
⑤諸宗教対話の必要性
 日本社会は、世俗化された「神不在の社会」といわれると同時に、さまざまな宗教が存在している「多宗教社会」でもある。このような社会において、伝統的な歴史をもつ諸宗教との対話は(『提題解説』5、8参照)、新しい福音宣教の不可欠な要素である。超越者と人間の体験を軸にした諸宗教との対話は、宣教の未来への重要な要素といえよう。

第1章 「新しい福音宣教」の時代

(5)日本の教会の宣教の方向――人々の生活のただ中に生き、人々に寄り添う(質問1-2)

東日本大震災の経験
 2011年3月11日の東日本大震災にあたり、被災地・被災者への救援のために仙台教区はカリタスジャパンの全面的な支援を得て「仙台教区サポートセンター」を立ち上げたが、全国から志願してきたボランティア(カトリック信徒もキリスト信者でない人たちも)の救援活動の拠点(ベース)として被災した地域にあるカトリック教会(6か所)の建物が提供された。この救援活動の対象は広く一般社会であり、被災した街の人々から非常に喜ばれている。この活動にかかわる中でカトリック信徒も「教会の使命はいわゆる教会の中だけ(内向き)でなく、社会の苦しんでいる人々に向けられるものだ」という理解が深まってきた。同時に司教団の決定による「被災地への救援プロジェクト」の推進は、文字通り「『社会のただなかに生きる』人々の生活に参加するという宣教的使命」を目に見える形で現していく実践として、今まで内向きでありすぎた信者にも、また信者ではない町の人々にも大きな刺激となるであろうと考える。

(6)忘れられていた農村への福音宣教(質問1-4、1-12、1-13)

①都市と農村
 日本においてこれまで教会が十分に入り込むことができていないのは、農村地帯である。多くの教会が都市部に集中している。地方の教会にあっても、小教区は地方の都市部に集中している。その中で、日本人と結婚した外国人信徒の存在は、大きな希望を与えている。早くから移住者信徒の存在を認め、またその役割を十分に認識し、同時に日本人信徒との関係を巧みに築き上げてきた教会共同体では、新たな希望が目覚めている。
②移民信徒の力を生かす
 たとえば新潟教区の山形県新庄市(2010年10月)や、さいたま教区の茨城県常総市(2009年2月)には、新しい小教区が誕生した。その小教区には日本人信徒はわずかしかおらず、それ以外のほとんどの信徒は、フィリピン出身の信徒とそのこどもたちによって構成されている。自分たちで生み出す教会共同体という意識は、移住者信徒にあっては、自分たちは日本でのお客様ではないのだという自覚を生み出し、日本人信徒にあっては、世界に広がる教会の意義を肌で感じる機会を与えている。また特に、農村地帯で生活する外国人信徒にあっては、自分たちは神の計画の一部としてまさしく福音宣教のために日本に派遣されているのだという、福音宣教への意識覚醒が、小教区設立によってもたらされている。現在の日本の地方における教会の状況の中で、新しい小教区を設立する、しかも教会を新しく建設することは、「大胆」であると思う。新庄や常総では、農村地帯の小さな町に突然教会が出現したが、地域の住民からは好意を持って受け入れられている。

(7)人々との対話の中で神への問いを示す(質問1-8、1-9)

①宗教への拒絶反応
 日本においては、第二次世界大戦後の経済発展と技術革新の中で、世俗化が激しく進んでいった。その中で、宗教的なものはオカルト的興味の対象や、現実生活に対して利益をもたらすべき存在に追いやられてしまった。すなわちこの世の主役は神ではなく人間となった。1995年のオウム真理教事件は、多くの人々の宗教に対する意識に大きな影響を及ぼした。神秘的に人間を教祖とあがめるカルト宗教の行った犯罪行為が、一般的に宗教は危険なものだという意識を多くの人に植え付けてしまった。これは今でも変わっていない。一般的にいって、日本においては伝統的な神道や仏教以外の宗教に対する警戒心が強い。
②新しい宣教の試み
 NGO活動 3月の大震災への復興支援活動においても、カトリック教会という看板を前面に出して被災者と向き合うと、まず第一に警戒心を持たれてしまう。そこで、国際的な信用を誇るNGOとしてのカリタスジャパンのような一般世俗社会で通用する看板は大きく役に立った。
 新しい宣教の場 岩下壮一神父(1889-1940年)が1934年に創立した真生会館(東京)は、小教区でもカトリック教育機関でもない、カトリック青年の教育・宣教のための場を提供してきた。真生会館の元理事長を務めた宣教師のG・ネラン神父(Georges Neyrand 1920-2011年)は、1980年に東京・新宿にサラリーマンのための宣教の場としてスナック「エポペ(Epopée)」を設立した。
 若者との関わり 若い世代は、宗教に対して全く無関心の者と、新興宗教などに狂信的に帰依する者とに分けることができる。そして、大多数が中間層で宗教にはほとんど興味を示さない。しかし、若者も初詣でなど宗教的慣習には参加しており、スピリチュアルな書籍・スピリチュアリティには広く関心がある。現代は、「若者に場を与える」時代ではなく、「若者たちが自ら場を作る助けとなること、若者が作る場に同行する」時代である。教区を超えたカトリック青年の活動を支援する組織として2000年に設立された「日本カトリック青年連絡協議会」(日本カトリック司教協議会・公認団体)は「ネットワークミーティング」を開催している。インターネットと社会的フォーラムを用いて若者が自主的・積極的にかかわれる場を支援することが教会に求められている。

第2章 イエス・キリストの福音をのべ伝える

(8)第一の福音宣教の場としての家庭(質問2-1、2-8、2-9)

①家庭での祈りの教育
 信者にとって霊的体験の最高の場は、言うまでもなくミサであるが、まず、典礼教育を十分に行う必要がある。日常生活においては、祈りが霊的体験の源泉であるが、祈りの指導はきわめて不十分で、日々の祈りもなおざりにされているかもしれない。まず、それぞれの家庭で家族そろって祈るという習慣を定着させるよう努力すべきである。特に、家庭こそ祈りを身につける土台にならなければならないが(申命記6・4-9参照)、それがまだ実行されていないと思われる。特に若い母親は、子どもの信仰教育の最初の段階として、しっかり祈る習慣を子どもに身につけさせる大切な責任がある。肝心なのは、まず親子が一緒に祈る習慣を、各家庭に確立すること、また親子でみことばを分かち合うことである。ちなみに、1993年に開催された第2回福音宣教推進全国会議(NICE -2)のテーマは、「家庭の現実から福音宣教のあり方を探る」であった。
②家庭における福音宣教
 カテケージスを信徒が責任をもって引き受けることができる教会になることが「新しい福音宣教」の第一のステップになるのではないか。特に、カテケージスにおいて一方交通にならないように、カテキスタと求道者は、共に福音を分かち合うという原則に基づくべきである。特に、日本において家族全員が信者である家庭はむしろ少ない。したがって、福音宣教を最初に行うのは各家庭にほかならない。教皇パウロ六世は、次のように家庭における福音宣教の大切さを強調しておられる。「家庭は、教会のように、福音が伝えられる場でありまたそこから福音が照らし出される場でもあります。そこでこの使命を意識している家庭では、全員が福音化を行いまた同時に福音化されているのです。両親は子どもに福音を伝えるばかりではなく、子どもからも、彼らが生活の中で深く生きている福音を受け取ることができます。そしてそのような家庭は他の多くの家庭の福音宣教者となります」(『福音宣教』71)。「新しい福音宣教」をまず家庭から始めることが急務である。
③両親の養成
 文化の世俗化が、各家庭で子どもたちに信仰教育をほどこすことをますますむずかしくしている。したがって、まず親たちの信仰の再教育によって、世俗化した時代においても、少なくとも家庭で子どもたちにカテケージスができる親たちを養成すべきである。また、いくつかの家庭が一緒になって共同体を育成することにより、子どもたちは、生活に根ざした信仰教育を受けることができる。特に、家族全員が信者でない場合は、複数の家族が協力し合うことが大切である。

(9)若者がキリストと出会う場(質問2-3)

①ボランティア体験学習プログラム
 現代の若者たちはボランティア活動に関心をもっている。第三世界や被災地でのボランティアや体験学習を通して他者のために生きる人生や自分の信仰を考えさせることは、司祭・修道者・信徒奉仕者への「召し出し」を掘り起こすためにも有効だと思われる。貧しい人々とともに過ごし、現地の人と出会うことのできる体験学習に参加させることは、他者のために生きる自己を発見する機会となる。
②若者の霊性への渇望にこたえる
 また、生きるキリストと出会うことに飢え渇いている若者が少なくない。青年黙想会や召命黙想会に多くの若者が再び参加するようになっている。WYD(ワールドユースデー)や「ネットワークミーティング」にも多くの若者が参加し、自主的に観想的な祈りを企画している。このような若者の渇きにこたえる努力が必要である。

(10)福音宣教する信徒の養成(質問2-18、2-19)

 キリスト者一人ひとりが宣教者であるという自覚はまだ育っていない。かろうじて、勉強会や、使徒的活動団体で活動している少数の信徒は、実際に福音を伝える場をもっているが、ミサに参加する以外に教会活動に与っていない信徒が大多数である。信徒自身が、非キリスト者に対しても、信者に対してもカテケージスができるように養成されれば、実りある働きができる。ほとんどの信者は、洗礼を受け、堅信によって聖霊の賜物をいただき福音宣教者に召されていることの基礎養成が不十分なので、自分が福音宣教者であるという自覚はまだ十分に育てられていない。そのために信仰の生涯教育を継続することが必要である。現実に生じる諸問題に福音の光を当てて見るためには訓練が必要であり、一言で言えば祈りを身につける必要がある。

(11)「新しいカテケージス」の構築(質問2-16)

 日本の教会は、第二バチカン公会議後の40年の歩みにおいて、典礼改革を初め、教会が組織・制度以上にまず歴史における共同体つまり「旅する神の民」であるという自己理解に目覚めたが、個々の共同体が福音的に真に刷新されたかどうかについてはかなりのバラつきがある。したがって、第二バチカン公会議が目指した教会全体の刷新を、これからは、「新しい福音宣教」として新たに取り組むことが求められている。その際、第二バチカン公会議に基づいた「新しいカテケージス」の構築と実施を刷新の第一ステップにすべきである。「新しいカテケージス」にはインカルチュレーションが不可欠である。

第3章 キリスト教的体験への導入

(12)「異邦人の中庭」としてのカトリック学校(質問3-24)

 日本におけるカトリック教育機関で働く大部分の教職員、学生・生徒は非キリスト者である。日本におけるすべてのカトリックの教育機関は「異邦人の中庭」になっている。カトリック系の学校、教育機関は予備宣教的な役割を果たしている。
 日本におけるカトリック教育は100年以上の歴史をもつ。2010年現在、カトリック学校数は847、園児・生徒・学生数22万人、教職員2万7千人(うち聖職者・修道者1,470人〔5%〕)である。しかし、カトリック学校で働く司祭・修道者は減少しており、少子化の中でカトリック学校をめぐる環境は厳しい。カトリック学校はそれぞれ、建学の精神とカトリックのアイデンティティを再確認するために努力を重ねている。
 最近は、複数のカトリック校の教師たちが共に学び分かち合うグループが誕生している(宗教倫理教育担当者ワークショップ、カトリック学校に奉職する教職員のための養成塾)。司教協議会の学校教育委員会も『キリスト教理解のために――カトリック教育にかかわるすべての人に』(2011年)を発行して、教職員のキリスト教理解に積極的に取り組み始めている。

(13)日本における信徒使徒職(質問3-5)

 日本では戦後、1949年にカトリック青年労働者連盟(JOC)が、1950年にカトリック労働者運動(ACO)が、1968年にクリスチャン・ライフ・コミュニティ(CLC)が設立されるなど、いくつかの信徒使徒職団体が活発に活動してきたが、世界的な学生運動の影響を受けてその多くが衰退している。1969年にカトリック学生連盟が解散したのはその象徴的な出来事である。一方、福祉活動を中心とした「聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会」(1914年設立)、マリア信心を通して人々に奉仕する「レジオマリエ」(1948年)、「マリッジ・エンカウンター」(1977年以降)などの団体は今も各地で活発に活動している。現在、日本カトリック司教協議会・公認団体は19存在する。

(14)「新求道期間の道」のもたらした分裂(質問3-27)

 日本の一部の地方の教区はある種の期待をもって「新求道期間の道」を導入した。しかし、そもそも基礎となる教会共同体が小さい上に、外来の宗教への警戒心が強い土地柄もあり、必ずしも福音宣教に成功しているとはいえない。かえって、すでに小さな小教区共同体をさらに分裂させる危険性が浮き彫りにされた。日本の田舎の教区においては、小教区というものの規模が大変小さいという現実を直視する必要がある。日曜日のミサの出席者が10名程度という小教区は、決して珍しい存在ではない。そういった所で、「新求道期間の道」のような活動を実施するためには、賢明な状況判断が必要であるにもかかわらず、他の地域と同じ取り組みを実施したため、成功を収めることがなかったのではないかと判断している。
 「新求道期間の道」は福音宣教のために学ぶべきところを多く持っているが、以下の問題がある。すなわち、一つの方法論にこだわり、これを堅持し、ローマの認可を楯にとって司教にも迫る。ことばとは裏腹に強固な団体を組織し、独自の命令系統、独自の金銭の流れを有するが、日本の法律はこの現状を許さない。また、教区内で司教の指示に従わない。
 要するに日本の教会において、「新求道期間の道」は、現在では必要とされない運動の一つである。ローマ教皇庁は、特にこの運動(道)によって日本の教会がいかに苦しみ、教会の分裂の痛みを永年にわたりこうむってきたかを理解していないと思われる。日本の教会に限っていえば、彼らの宣教方法は今日まで大きな弊害となっている。

(15)「新しい福音宣教」と司祭志願者の養成プログラムの見直し(質問3-29)

「日本カトリック神学院」の設立
 日本社会、グローバル化への変化と現状に対する「新しい福音宣教」のビジョン、刷新、実践へのたゆまない祈りと努力のうちに、現在の「日本カトリック神学院」の姿がある。2009年、福岡と東京の二個所に分かれていた大神学院が、日本の司教団の新しい福音宣教へのビジョンのもとに統合され、一つの神学院として司祭志願者への養成が現在、行われていることは、その大切な実りの一つのしるしである。

PAGE TOP