教皇ベネディクト十六世の286回目の一般謁見演説 詩編126

10月12日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の286回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第15回として、「詩編126 […]


10月12日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の286回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第15回として、「詩編126」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇はイタリア語で、エジプト国民の置かれた悲惨な状況に関して次の呼びかけを行いました。
「今週の日曜日からカイロで始まった暴力事件に深い悲しみを覚えています。わたしは、犠牲者のご家族と、エジプトの諸共同体の平和共存を脅かそうとする試みによって苦しむ全エジプト国民と苦しみを分かち合います。平和共存を守ることは、特にこの政権移行期にあたり、決定的に重要です。信者の皆様に勧めます。公正と、全市民の自由と尊厳の尊重に基づく真の平和を社会が享受できるように祈ってください。さらにわたしは、国家統一のために、すべての人、特に少数者の人権が尊重される社会の実現に努める国家・宗教当局者の努力を支持します」。
エジプトでは10月9日(日)、教会の襲撃に抗議してデモを行ったコプト教徒が治安部隊と衝突し、当局の発表によれば23人が死亡しました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 これまでの講話の中で、いくつかの悲嘆と信頼の詩編を黙想してきました。今日はご一緒に有名な喜びの詩編について考察したいと思います。この詩編の祈りは、喜びのうちに神の驚くべきわざを歌います。この詩編126(ギリシア語・ラテン語版の数え方では詩編125)は、主がその民とともに行い、すべての信じる者とともに行い続けてくださる偉大なわざを記念します。
 詩編作者は、イスラエル全体を代表して、すばらしい救いの体験を思い起こすことをもって祈り始めます。
 「主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて
 わたしたちは夢を見ている人のようになった。
 そのときには、わたしたちの口に笑いが
 舌に喜びの歌が満ちるであろう」(1-2a節)。
 詩編は「捕らわれ人が連れ帰られる」と語ります。「捕らわれ人が連れ帰られる」とは、元の、それまでにあったすべての恵みの状態が回復されることを意味します。それは、苦しみと困窮から離れることです。神は、救いをもたらし、祈る人に以前の状態を回復し、そればかりか、以前の状態を前よりももっと豊かで、もっとよい状態に変えることをもって、こたえられます。これはヨブに起きたことです。主はヨブに失ったすべてのものを、二倍にして返し、さらに大きな祝福を与えました(ヨブ42・10-13参照)。イスラエルの民も、バビロニア捕囚から祖国に帰ったとき、同じことを体験しました。この詩編は、外国への流謫の終わりを意味するものとして解釈しなければなりません。「シオンの捕らわれ人を連れ帰られる」ということばは、伝統的に「シオンの囚人を連れ戻す」意味で解釈されます。実際、捕囚からの帰還は、神の救いのわざの典型的な例です。なぜなら、エルサレムの陥落とバビロニアへの流謫は、選ばれた民にとって絶望的な経験でした。それは、政治的・社会的な意味においてだけでなく、とりわけ宗教的・霊的な意味でもいえます。土地の喪失、ダビデ王朝の終焉と神殿の破壊は、神の約束の否定のように思われます。こうして、異邦人の間に散らばった契約の民は、自分たちを見捨てたかのように思われる神に悲しみをもって問いかけることになります。それゆえ、流謫の終わりと、祖国への帰還は、信仰と、信頼と、神との交わりの驚くべき回復として体験されました。「捕らわれ人を連れ帰られる」ことは、回心、ゆるし、神との友愛の再発見、神のあわれみの認識、あらためて神を賛美することが可能になったことをも意味しました(エレミヤ29・12-14、30・18-20、33・6-11、エゼキエル39・25-29参照)。それはあふれる喜び、笑いと歓呼であり、「夢を見ている人のような」すばらしい体験でした。神のわざはしばしば予想もつかない形をとります。それは、人間が想像しうる形を超えています。だからこそこの詩編の中で驚きと喜びが表明されるのです。国々はいいます。「主は大きなわざを成し遂げられた」。イスラエルも宣言します。
 「そのときには、国々もいうであろう
 『主はこの人々に、大きなわざを成し遂げられた』と。
 主よ、わたしたちのために
 大きなわざを成し遂げてください。
 わたしたちは喜び祝うでしょう」(2b-3節)。
 神は人間の歴史の中で驚くべきわざを行われます。神は救いをもたらして、ご自身を示されます。主は力とあわれみに満ちた主、しいたげられた人の逃れ場、貧しい人の叫びを忘れることのないかたです(詩編9・10、13参照)。正義と裁きを愛し、地はそのいつくしみに満ちています(詩編33・5参照)。それゆえ、イスラエルの民の解放を前にして、すべての民は、神がご自分の民のために大いなる驚くべきわざを行ったことを認め、まことの救い主として主を記念します。イスラエルも国々の宣言をこだまします。イスラエルはこの宣言を繰り返しますが、代表者、すなわち、神のわざを直接受けた者としてこのことばを述べます。「主よ、わたしたちのために大きなわざを成し遂げてください」。「わたしたちのために」を表すヘブライ語「インマヌー」(‘immanû)は、より正確にいえば「わたしたちとともに」を意味します。主がご自分の選ばれた者と持ち続ける特別な関係を表す、このことばは、「インマヌエル(われらとともにおられる神)」という名のうちに見いだされます。それは、イエスがこの名で呼ばれ、イエスにおいて頂点に達し、完全に示された名です(マタイ1・23参照)。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちは自分の祈りにおいて、主が自分の生涯の出来事の中でどれほど自分を守り、導き、助けてくださったかをもっとしばしば見いだし、主が自分のためにしてくださったこと、今もしてくださっていることのゆえに主を賛美しなければなりません。わたしたちは主が自分たちに与えてくださるよいことにもっと注意深くならなければなりません。わたしたちは常にさまざまな問題や困難に目をとめます。そして、主からすばらしいことがもたらされることをほとんど認めようとしません。このように注意すること(それは感謝に変わります)は、わたしたちにとってとても大切です。それはよいことについての記憶を強め、暗闇のときにも助けとなります。神は大いなるわざを行われます。そして、注意深い心をもって主のいつくしみに目を注ぎ、このことを体験する人は、喜びで満たされます。詩編の前半はこのような喜びの調子をもって締めくくられます。救われて、流謫の地から祖国に戻る人は、生き返ったかのようです。解放は笑いへと開かれます。しかし同時に、なおも待ち望み、求めていることの実現への期待も残ります。これがこの詩編の後半です。詩編は述べます。
 「主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように
 わたしたちの捕らわれ人を連れ帰ってください。
 涙とともに種を蒔く人は
 喜びの歌とともに刈り入れる。
 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
 束ねた穂を背負い
 喜びの歌をうたいながら帰ってくる」(4-6節)。
 詩編作者は祈りの初めに、主がすでに成し遂げられた帰還の喜びを記念しました。これに対して、今や彼はそれをまだ実現されていないこととして願い求めます。この詩編を流謫からの帰還によって解釈するなら、この見かけ上、矛盾に見える記述は、イスラエルの歴史的経験から説明できます。祖国への帰還は困難で、部分的なものでした。そこで祈る人は、神がさらに手を差し伸べて、民の帰国を完全なものとしてくださることを願うよう促されます。
 しかし、詩編は単なる歴史を超えて、神学的な性格をもった、さらなる地平へと開かれます。慰めに満ちたバビロニアからの解放の体験は、まだ完成していません。それは「すでに」起こりましたが、「まだ」決定的な完成によって特徴づけられてはいません。それゆえ、祈りは、救いが与えられたことを喜びのうちに記念しながら、完全な実現の期待へと開かれます。だから詩編は独自のたとえを用います。このたとえは、その複雑な意味から、あがないの不思議な性格を思い起こさせます。このあがないにおいて、与えられたたまものはこれから与えられるたまものと、生は死と、夢を見るような喜びは悲しみの涙と、より合わされます。第一のたとえは、ネゲブ砂漠の涸れ川です。涸れ川は雨が降ると激しい水で満たされ、干からびた土地を生き返らせ、再び豊かにします。それゆえ、詩編作者は願います。捕らわれ人の流謫の地からの帰還が、このあらがうことも抑えることもできない水のようであってほしいと。この水は、砂漠を、青草と花々が広がる土地に変えることができるからです。
 第二のたとえは、ネゲブの乾いた石だらけの丘陵地から、農夫が糧を得るために耕す畑に移動します。ここでは、救いを語るために、毎年、農耕の世界で繰り返される体験が思い起こされます。すなわち、種蒔きの困難と労苦に満ちた時と、その後の収穫の大きな喜びです。種蒔きには涙が伴います。なぜなら、いつかパンになるかもしれないものを蒔いて、不安に満ちた時に身をさらさなければならないからです。農夫は労苦して土地を耕し、種を蒔きますが、種を蒔く人のたとえがよく示すとおり、この種がどこに落ちるかは分かりません。それを鳥が食べてしまうか、芽が出るか、根を張るか、穂を実らすかは分からないのです(マタイ13・3-9、マルコ4・2-9、ルカ8・4-8参照)。種を蒔くとは、信頼し、希望することです。人間の労苦も必要ですが、その後は、自分の力ではどうすることもできない期待のうちに歩み入らなければなりません。種蒔く人は、多くの要素が収穫の結果を左右し、失敗の危険が常に待ち受けていることをよく知っているからです。にもかかわらず、農夫は毎年、同じことを繰り返して、種を蒔きます。そして、穂が実り、畑が麦で満たされると、彼は特別な奇跡を前にして喜ぶのです。イエスはこの体験をよく知っていたので、弟子たちにこう語りました。「また、イエスはいわれた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない』」(マルコ4・26-27)。これが人生の隠された神秘です。これが救いの驚くべき「大きなわざ」です。主はこのわざを人類の歴史の中で行われますが、人々はその秘密を知らずにいます。神のわざが完全に示されるとき、それはネゲブの川の流れや、畑の麦のような、激しい姿を示します。畑の麦は、神のわざの特徴をなす、不釣り合いな性格も表します。すなわち、種蒔きの労苦と、収穫の大きな喜び。期待の不安と、豊かな収穫を見たときの安堵。地に蒔かれた小さな種と、日に照らされて金色に輝く麦の束の大きな山の間の不釣り合いです。収穫のときに、すべては変わります。涙は止まり、喜びの叫びに道を譲るのです。
 詩編作者は、これらすべてのたとえを用いながら、救いと、解放と、捕らわれ人の流謫からの帰還について語ります。詩編作者はいいます。バビロニアへの流謫は、実際、種蒔きのようなものです。それは、他のあらゆる苦しみと危機的状況、その疑いに満ち、神が遠く離れているかのように思われる悲惨な暗闇と同じです。新約の光に照らされた、キリストの神秘において、このメッセージはいっそう明らかなものとなります。暗闇を通り抜ける信者は、地に落ちた一粒の麦のようなものです。麦は死んで、多くの実を結ぶからです(ヨハネ12・24参照)。あるいは、イエスが好んだ別のたとえを用いるなら、それは新たないのちを生み出す喜びを得るために、産みの苦しみを味わう女のようなものです(ヨハネ16・21参照)。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。詩編126は次のことを教えてくれます。わたしたちも祈るとき、常に希望に心を開き、神への信仰にしっかりとどまらなければなりません。わたしたちの歴史も、たとえ多くの場合、苦しみと不安と危機的状況によって特徴づけられていても、救いと、「捕らわれ人が連れ帰られる」歴史です。イエスによって、わたしたちのあらゆる流謫は終わります。イエスの十字架と、死がいのちに変わる神秘によって、あらゆる涙はぬぐい取られます。地に落ちて実る、一粒の麦と同じです。わたしたちにとっても、このイエス・キリストを見いだすことが、神に認められ、捕らわれ人が連れ帰られる大きな喜びとなります。しかし、喜びに満ちてバビロニアから帰った人々も、貧しく荒れ果てた土地を見いだし、種蒔きの苦労を味わい、本当にいつか収穫を得られるのか分からずに苦しみました。それと同じように、わたしたちも、わたしたちのいのちであり、真理であり、道であるイエス・キリストをついに見いだし、信仰の世界に、「信仰の地」に足を踏み入れた後、しばしば暗く、辛い、困難な生活を体験します。わたしたちも涙とともに種を蒔きます。しかし、わたしたちは確信しています。キリストの光がついには本当に大きな収穫をもたらしてくれることを。ですから、暗夜のうちにあっても、このことを学ばなければなりません。光が存在することを忘れてはなりません。神はすでにわたしたちの生活のただ中におられます。神の「然り」は、わたしたちすべてよりも強力です。このことへの大きな信頼をもって、わたしたちは種を蒔くことができます。神がわたしたちの生活の中におられるのを忘れずにいることが大切です。神がわたしたちの生活の中に入って来てくださったことへの深い喜びが、わたしたちを解放してくれます。この喜びは、感謝となります。わたしたちは、わたしたちのところに来てくださったイエス・キリストを見いだしたからです。この感謝が希望に変わります。この希望の星が、わたしたちに信頼を与えてくれます。それは光です。なぜなら、種を蒔く苦しみそのものが、新しいいのちの始まりだからです。神が与える、大きく、決定的な喜びの始まりだからです。

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