教皇ベネディクト十六世の287回目の一般謁見演説 詩編136

10月19日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の287回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第16回として、「詩編136」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日は、旧約がわたしたちにあかしする救いの歴史全体をまとめた詩編をご一緒に黙想したいと思います。この偉大な賛美の詩編は、主が人類の歴史の中で、ご自身のいつくしみを何度も繰り返し示してくださったことをたたえます。それが、詩編136(ギリシア語・ラテン語の伝承では詩編135)です。
 「大きなハレル」として知られる、荘厳な感謝の祈りであるこの詩編は、伝統的にユダヤ教の過越の食事の終わりに唱えられます。おそらくイエスも、最後の晩餐を弟子たちと行った際に、これを唱えました。実際、福音書記者たちの記録はこの詩編のことを述べていると思われます。「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」(マタイ26・30、マルコ14・26参照)。それゆえ、賛美の展望は、ゴルゴタの苦難の道を照らします。詩編136全体は、連祷の形式で進み、「いつくしみはとこしえに」という答唱の反復によって特徴づけられます。詩の全体を通じて、神が人々の歴史において多くの驚くべきわざを行い、ご自分の民のために手を差し伸べ続けたことが述べられます。そして、それぞれの主の救いのわざの告知に対して、賛美を主調とする答唱が唱えられます。神の永遠の愛は、ユダヤ教の表現を用いるなら、忠実、あわれみ、いつくしみ、恵み、柔和を意味します。この愛が、この詩編全体の統一的な主題です。詩編は常に同じ形式を反復しますが、一つずつ典型として示されるものは異なります。すなわち、創造、出エジプトの解放、土地の贈与、ご自分の民とすべての被造物に対する主の変わることのない摂理に満ちた助けです。
 いと高き神に感謝せよという三回の招きが行われた後(1-3節)、主は「大きなみわざ」(4節)を行うかたとしてたたえられます。この「大きなみわざ」の第一のものは、被造物、すなわち天と地と天体です(5-9節)。神に造られた世界は、そこで神の救いのわざが行われる単なる背景ではありません。むしろそれ自体が、この驚くべきわざの始まりです。主は創造によって、ご自身のよさと美しさを余すところなく示します。主はいのちのために働き、善への望みを表されます。この望みから、他のすべての救いのわざが生まれるのです。創世記の1章が反響しているこの詩編において、造られた世界はその根本的な要素によって要約されます。特に強調されるのは、天、太陽、月、星といった、昼と夜を支配する偉大な被造物です。ここでは人間の創造は語られませんが、人間は常にそこに存在しています。太陽と月は人間のためのものです。それは人間の時を刻み、典礼暦を示すことを通じて、人間を創造主と関連づけるからです。
 その後すぐに過越祭が思い起こされます。詩編は、歴史における神の自己啓示に触れるために、エジプトにおける奴隷状態からの解放、すなわち出エジプトという偉大な出来事を語り始めます。そして、この出来事のもっとも重要な要素を描きます。エジプトの初子を打つことによるエジプトからの解放、エジプトからの脱出、紅海の渡渉、荒れ野の旅、そして約束の地への到着です(10-20節)。これらはイスラエルの歴史の最初の出来事です。神はご自分の民を解放するために、力をもって手を差し伸べます。神はご自分の使者であるモーセを通してファラオにご自分の偉大さを示し、ついに初子の死という恐ろしい災いをもって、抵抗するエジプト人を屈服させました。こうしてイスラエルは、しいたげる者の富を携えて、奴隷にされた地を離れました(出エジプト12・35-36参照)。「意気揚々と」(出エジプト14・8)勝利の喜びを表しながら。主は紅海でもあわれみ深い力をもって働かれます。イスラエル人は、自分たちを追いかけてきたエジプト人を見て恐れ、エジプトを去ったことを後悔しました(出エジプト14・10-12参照)。これに対して、詩編が述べるとおり、神は「葦の海を二つに分け・・・・イスラエルにその中を通らせ・・・・ファラオとその軍勢を葦の海に投げ込んだ」(13-15節)のです。二つに「分かれた」紅海というイメージは、大きな怪物としての海という観念を表しているように思われます。怪物は真っ二つに切り裂かれ、無害なものとされます。主の力は、自然の力と、人間の領域における武力の危険に打ち勝ちます。神の民の行く手をはばむかのように見えた海は、イスラエルに乾いたところを通らせ、その後、エジプト人の上で閉じて、彼らを打ち滅ぼします。こうして主の「力あるみ手とみ腕」(申命記5・15、7・19、26・8参照)はその救いの力を余すところなく示します。不正な抑圧者は滅ぼされ、水に飲み込まれます。これに対して、神の民は「その中を通り」、自由への道を歩み続けました。
 ところで、詩編は短いことばで、約束の地に向かうイスラエルの長い旅路を思い起こしながら、この道について述べます。「イスラエルの民に荒れ野を行かせたかたに感謝せよ。いつくしみはとこしえに」(16節)。この短いことばに、40年に及ぶ経験が込められています。それは、イスラエルにとって決定的な意味をもつ時期でした。イスラエルは、主に導かれながら、神のおきてに従順に従い、信仰を生きることを学んだからです。それは、荒れ野の厳しい生活に特徴づけられた困難な時期であるとともに、主に対する子としての信頼に満ちた、幸いな時期でもありました。それは「若いとき」でした。預言者エレミヤが主に代わって、優しさと懐かしさに満ちたことばでイスラエルについて述べたとおりです。「わたしは、あなたの若いときの真心、花嫁のときの愛、種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす」(エレミヤ2・2)。主は、以前の講話で考察した詩編23の羊飼いと同じように、40年にわたりご自分の民を導き、教え、愛しました。そして、彼らを約束の地へと連れて行き、敵対する部族の抵抗や敵意も滅ぼしました。彼らは救いの道を妨げたからです(17-20節)。
 詩編136が数え上げる「大きなみわざ」は、ついに最後の恵みのときに達します。それは、神が父祖たちに行った約束の実現です。「彼らの土地を嗣業として与えたかたに感謝せよ。いつくしみはとこしえに。しもべイスラエルの嗣業としたかたに感謝せよ。いつくしみはとこしえに」(21-22節)。主の永遠の愛をたたえてきた詩編は、今や土地が与えられたことを記念します。民はかつて自分のものだと主張したことのない土地を与えられます。こうして彼らは感謝をもってそれを受け入れ、生き続けます。イスラエルは彼らが「嗣業」としてそこに住む領土を与えられました。この「嗣業」ということばは、一般的には、他の人から与えられた財産を所有することを意味します。この所有権は、特別な意味では、父祖の遺産を表します。神の特質の一つは「与えること」です。今や、出エジプトの旅の終わりに、たまものの受取人であるイスラエルは、子として、実現した約束の国に入ります。天幕のもとで不安定な生活を送る、放浪の時期は終わりました。今や、定住し、家を建て、ぶどうの木を植え、安心して過ごせる、幸いな時が始まります(申命記8・7-13参照)。しかし、偶像崇拝の誘惑を受け、異教によって汚され、たまものを与えてくださったかたを忘れて自己満足に陥る時期も存在します。それゆえ、詩編作者は、へりくだりと、敵と、死の現実について述べます。これらのものの中で、主はあらためて救い主として示されます。「低くされたわたしたちをみ心に留めたかたに感謝せよ。いつくしみはとこしえに。敵からわたしたちを奪い返したかたに感謝せよ。いつくしみはとこしえに」(23-24節)。
 ここで問いが生まれます。わたしたちはどうやってこの詩編を自分の祈りとすることができるでしょうか。どうすればこの詩編を自分の祈りとして用いることができるでしょうか。この詩編の初めと終わりの枠組みとなっているものが重要です。すなわちそれは被造物です。わたしたちは後でこの点に戻りたいと思います。被造物は神の大きなたまものです。わたしたちは被造物によって生き、神も被造物のうちにご自身のいつくしみと偉大さを示されます。それゆえ、わたしたちは皆、被造物を神のたまものとして考えるべきです。これに続くのが救いの歴史です。もちろんわたしたちは、こういうこともできます。エジプトからの解放、荒れ野の時期、聖地への到着、さらにその後のさまざまな問題は、わたしたちとかけ離れたことです。それはわたしたちの歴史ではありません。しかし、この祈りの根本構造に注意しなければなりません。根本構造とは、イスラエルが主のいつくしみを思い起こすということです。歴史の中には多くの陰の谷があります。わたしたちは困難と死を通らなければなりません。しかし、イスラエルは、神がいつくしみ深いことを心に留め、この影の谷の中で、死の谷の中で、生き続けることができます。それは、イスラエルが思い起こすからです。イスラエルは主のいつくしみと力を記念しました。主のあわれみは永遠だからです。主のいつくしみを記念することは、わたしたちにとっても大切です。記念することは、希望する力となります。わたしたちは記念します。神が存在することを。神がいつくしみ深く、そのあわれみが永遠であることを。こうして記念することは、日々の暗闇、時代の暗闇の中でも、未来への道を開きます。記念することは、わたしたちを導く光であり、星です。わたしたちも、神のいつくしみを、その永遠のあわれみ深い愛を記念したいと思います。すでにイスラエルの歴史もわたしたちの記念の一部です。それは、神がどのようにご自身を示され、民をご自身の民となさったかを記念するからです。さらに神は人となりました。わたしたちの一人となりました。神はわたしたちとともに過ごし、わたしたちとともに苦しみ、わたしたちのために死なれました。神は秘跡とみことばのうちにわたしたちとともにとどまってくださいます。神のいつくしみの歴史、その記念は、神のいつくしみをわたしたちに約束します。神の愛は永遠だからです。また、二千年の教会の歴史の中でも、主のいつくしみは常に新たに存在します。ナチスと共産主義の迫害による暗闇の時代の後、神はわたしたちを解放し、わたしたちに示してくださいました。神はいつくしみ深く、力強く、そのあわれみは永遠であることを。共通の集団の歴史の中で、神のいつくしみは記念され、この記念がわたしたちを助け、希望の星となります。それと同じように、すべての人にも各人の個人的な救いの歴史があります。それゆえ、この救いの歴史を心から大切にしなければなりません。自分の人生の中でも行われた大きなみわざを心に留めなければなりません。それは、神のあわれみが永遠であると信頼するためです。ですから、今日、暗夜の中にいても、明日は神がわたしを解放してくださいます。なぜなら、神のあわれみは永遠だからです。
 詩編に戻りたいと思います。詩編は最後に被造物に戻るからです。こう書かれています。「すべて肉なるものに糧を与えるかた(主)に感謝せよ。いつくしみはとこしえに」(25節)。詩編は賛美への招きによって結ばれます。「天にいます神に感謝せよ。いつくしみはとこしえに」(26節)。主はいつくしみ深く、摂理をもって計らわれる父です。父は子に嗣業を継がせ、生きるための糧を豊かに与えられます。神は天と地と天の大きな光を造られ、人間の歴史の中に入ってすべての子らに救いをもたらします。この神は、全宇宙をご自分のいつくしみ深い現存で満たし、そのいのちを養い、糧を与えられます。詩編の中で歌われる造り主である主の目に見えない力は、小さな目に見えるパンのうちに示されます。わたしたちに与えられたこのパンが、わたしたちを生かします。こうして、この日ごとのパンは、父である神の愛を象徴し、要約します。それは新約の完成へとわたしたちの心を開きます。すなわち、「いのちのパン」である聖体です。聖体は、信じる者の生活の中でわたしたちに同伴し、天におけるメシアの宴の決定的な喜びを先取ります。
 兄弟姉妹の皆様。詩編136の祝福に満ちた賛歌は、過越の神秘に至る、救いの歴史のきわめて重要な段階をたどらせてくれます。この過越の神秘において、神の救いのわざは頂点に達します。それゆえ、感謝と喜びをもって、造り主であり、救い主であり、忠実な御父であるかたをたたえようではありませんか。このかたは「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである」(ヨハネ3・16)。時が満ちて、神の子は、いのちを与え、わたしたち一人ひとりを救うために、人となりました。そして、聖体の神秘のうちに、ご自身をパンとして与えてくださいます。それは、わたしたちを子とする契約を結ぶためです。神のあわれみ深いいつくしみと、その限りない「とこしえの愛」は、それほど深いものだったのです。
 それゆえ、聖ヨハネがその第一の手紙に書いたことばを自分のものとしながら、この講話を終えたいと思います。わたしたちはこのことばを祈りの中でいつも心に留めなければなりません。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」(一ヨハネ3・1)。ご清聴ありがとうございます。

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