教皇ベネディクト十六世の288回目の一般謁見演説 世界平和と正義のための考察、対話、祈りの日を前にして

10月26日(水)午前10時30分から、サンピエトロ大聖堂とパウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の288回目の一般謁見が行われました。教皇はまずサンピエトロ大聖堂で、パウロ六世ホールに入りきれなかった巡礼者との謁見 […]


10月26日(水)午前10時30分から、サンピエトロ大聖堂とパウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の288回目の一般謁見が行われました。教皇はまずサンピエトロ大聖堂で、パウロ六世ホールに入りきれなかった巡礼者との謁見を行いました。その後、教皇はパウロ六世ホールに移動し、そこで、翌日にアッシジで行われる「世界平和と正義のための考察、対話、祈りの日」の準備の祈りの集いを行いました。祈りはみことばの祭儀の形式で行われ、聖書朗読(第1朗読:ゼカリヤ9・9-10、答唱詩編:詩編85、福音:ルカ10・1-11)の後、教皇が講話を行いました。以下は教皇の講話の全訳です(原文イタリア語)。この日の祈りの集いはサンピエトロ広場で行われる予定でしたが、雨のためパウロ六世ホールに会場を変更しました。なお、この日の一般謁見には、菊地功司教に率いられた、新潟教区創立100周年公式巡礼団69名も参加しました。

なお、祈りの集いの後、教皇は、トルコで起きた地震に関して次の呼びかけをイタリア語で行いました。
「親愛なる兄弟姉妹の皆様。さまざまな言語でごあいさつ申し上げる前に、よびかけをもって始めたいと思います。この時にあたり、わたしの思いは地震の大きな被害を受けたトルコ国民に向かいます。この地震は多数の人命の喪失と、多くの行方不明者、莫大な損害をもたらしました。皆様にお願いします。わたしとともに、いのちを失った人のために祈ってください。そして、厳しい試練にさらされた多くの人々に霊的に寄り添ってください。全能の神が、支援活動を行うすべての人を支えてくださいますように」。
トルコ南東部で10月23日(日)午後1時41分(日本時間同日午後7時41分)にマグニチュード7.2の地震が起き、26日の現地当局者の発表によれば、死者は481人に達しています。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の恒例の一般謁見は特別な形をとります。わたしたちは明日、福者ヨハネ・パウロ二世による歴史的な集会の開催から25年目にあたり、アッシジで行われる「世界平和と正義のための考察、対話、祈りの日」の準備の祈りを行うからです。わたしはこの日を「世界平和と正義のための考察、対話、祈りの日」と名づけました。それは、諸宗教の信者や、信仰をもっていなくても真摯に真理を探求する人々とともに、人類のまことの善益の推進と平和の構築への意志を正式に更新する取り組みを強調するためです。すでにお話ししたとおり、「神に向けて歩む者は平和をのべ伝えずにはいられません。平和を作り出す人は神に近づかずにはいられません」(教皇ベネディクト十六世「2011年1月1日の『お告げの祈り』のことば」)。
 わたしたちはキリスト信者として、自分たちが平和のためにできるもっとも貴重な貢献は、祈りだと確信しています。そのためわたしたちは、ローマ教会として、ローマにおいでくださった巡礼者の皆様とともに、ここに集まりました。それは、神のことばを聞き、信仰をもって平和のたまものを願い求めるためです。主はわたしたちの思いと心を照らし、わたしたちが自分たちの日々の生活と世界の中で正義と和解を築く者となれるように導いてくださいます。
 たった今朗読された預言者ゼカリヤの箇所の中で、希望と光に満ちた知らせが告げられました(ゼカリヤ9・10参照)。神は救いを約束されます。そして、「歓呼の声をあげよ」と招きます。この救いがまさに実現しようとしているからです。一人の王についてこう語られます。「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者」(ゼカリヤ9・9)。しかし、ここで告げられた王は、人間的な権力や、武力を示す王ではありません。彼は政治権力や軍事力をもって支配する王でもありません。彼は柔和な王です。彼は神と人の前で謙遜と従順をもって統治します。彼はこの世の偉大な支配者とは異なる王です。預言者はいいます。彼は「高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って」(同所)。彼は普通の人の、貧しい人の動物に乗って来ます。それは地上の権力者が用いる戦車とは対照的です。そればかりか、彼はこのような戦車をなくします。彼は戦いの弓を断ち、諸国の民に平和を告げるのです(同9・10)。
 しかし、預言者ゼカリヤの語る、この王とはだれでしょうか。しばしベツレヘムに赴き、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちに天使が告げたことばに耳を傾けたいと思います。天使は喜びを告げ知らせます。この喜びは、貧しさのしるしに結ばれたすべての人に訪れます。しるしとは、布にくるんで飼い葉桶に寝ている乳飲み子です(ルカ2・8-12参照)。すると天の大軍が歌います。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人(善意の人)にあれ」(ルカ2・14)。イエスという幼子の誕生は、全世界に平和の知らせをもたらします。しかし、キリストの生涯の最後の時にも赴きたいと思います。キリストはエルサレムに入り、喜び祝う群衆に迎えられました。柔和で謙遜な王の到来について述べた預言者ゼカリヤの予言を、イエスの弟子たちは思い起こしました。特に、受難と死と復活の出来事、すなわち過越の神秘の後になってからです。そのとき弟子たちは信仰の目をもって、師であるかたが聖なる町に喜びをもって入ったことを見つめ直しました。キリストは、借りてきた子ろばに乗りました(マタイ21・2-7参照)。彼は立派な馬車に乗るのでも、偉い人のように馬に乗るのでもありませんでした。エルサレムに入るとき、彼には強大な戦車も兵士も付き従っていませんでした。彼は貧しい王です。神の貧しい者たちの王です。ギリシア語テキストには「プラエイス」ということばが用いられます。このことばは「優しい者、柔和な者」を意味します。イエスは「アナウィン(anawim)」の王です。「アナウィン」とは、権力や物質的な富への望み、他者を支配しようとする望みや意向から心が自由な人です。イエスはこのような内的自由をもつ人々の王です。この内的自由が、この世の貪欲や利己心を乗り越えることを可能にします。彼らは、神だけが自分たちの宝であることを知っているのです。イエスは、貧しい人々の中の貧しい王です。柔和であろうと望む人々の中の、柔和なかたです。だからイエスは、神の力による、平和の王です。神の力は、いつくしみの力、愛の力だからです。イエスは、戦車や兵士を断つ王です。彼は戦いの弓を断ち切ります。この王は十字架上で平和を実現します。天と地を結びつけ、すべての民の間に兄弟愛の橋をかけることによって。十字架は新しい「平和の弓」です。十字架は、和解とゆるしと理解のしるしまた道具です。十字架は、愛がいかなる暴力や抑圧よりも強く、死よりも強いことを示すしるしです。悪はいつくしみと愛によって打ち負かされるのです。
 これが、新しい平和の国です。この国の王は、キリストです。そして、その支配は全地に及びます。預言者ゼカリヤは告げます。この柔和で平和な王「の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」(ゼカリヤ9・10)。キリストが立てた国は、世界に広がります。この貧しく、柔和な王の目指すのは、領土でも国家でもなく、地の果てです。キリストは、人種と言語と文化によるあらゆる境界を超えて、交わりと一致を造り出します。ところでわたしたちは、現代において、この知らせが実現しているのをどこに見いだすことができるでしょうか。ゼカリヤの預言は、全地に広がる聖体に生かされた共同体の偉大なネットワークにおいて、輝きを放っています。このネットワークは偉大な共同体のモザイク画を作り出します。これらの共同体において、柔和で平和をもたらす王の愛のいけにえが現在化するからです。この偉大なモザイク画が、海から海へ、地の果てに至るまで、イエスの「平和の国」を築きます。それは平和を輝かす、「平和の島」の群れです。あらゆる場所で、いかなる状況や文化においても、宮殿のある大都市にも、簡素な家々から成る小さな村にも、壮大なカテドラルにも小さな礼拝堂にも、この王は来て、ご自身を現存させます。そして人々は、このかたとの交わりに入ることによって、分裂と競争と恨みを乗り越えて、互いに一つに結ばれ、一つのからだになります。主は聖体の中に来られて、相互排除を生み出すわたしたちの個人主義と個別主義を取り去ります。そして、分裂した世界の中で、わたしたちを一つのからだ、一つの平和の国にしてくださるのです。
 しかし、どうすれば、キリストを王として戴く、このような平和の国を築くことができるでしょうか。キリストは使徒たちに、そして使徒たちを通してわたしたち皆に、次の命令を与えられました。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。・・・・わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(マタイ28・19-20)。イエスと同じように、み国の平和の使者は、道を歩み、イエスの招きにこたえなければなりません。彼らは行かなければなりません。しかしそれは、武力や政治権力を携えてではありません。今朗読された福音書の箇所の中で、イエスは七十二人を、世という大きな収穫に向けて遣わします。その際イエスは彼らに命じます。収穫のために働き手を送ってくださるように収穫の主に祈りなさい(ルカ10・1-3参照)。しかしイエスは、強力な手段とともに彼らを遣わしたのではありません。むしろイエスは、「狼の群れに小羊を送り込む」(ルカ10・3)のです。彼らには財布も袋も履物もありません(同10・4参照)。聖ヨアンネス・クリュソストモス(340/350-407年)は、ある説教の中で解説していいます。「われわれは小羊であるかぎり、勝利を得る。たとえ多くの狼に取り囲まれていても、われわれは狼に打ち勝つことができる。しかし、もしわれわれが狼になるなら、敗北するだろう。羊飼いの助けを得られなくなるからだ」(『マタイ福音書講話』:In Matthaeum homiliae 33, 1, PG 57, 389)。キリスト信者は、狼の間にあって、狼となる誘惑に負けてはなりません。キリストの平和の国を広げるのは、権力や力や暴力ではありません。むしろそれは、自らを与えること、敵をも愛するような、限界のない愛です。イエスは、武力によってではなく、十字架の力によって世に打ち勝ちます。十字架の力こそが、勝利のまことの保証です。したがって、主の弟子になりたい者は、次の招きを受けます。進んで受難と殉教を受けなさい。主のために自分のいのちを失いなさい。それは、世において善と愛と平和が勝利を収めるためです。「この家に平和があるように」(ルカ10・5)。これが、いわばあらゆる状況に足を踏み入れるための条件です。
 サンピエトロ大聖堂の正面には聖ペトロとパウロの二つの大きな像が立っています。二人は簡単に見分けることができます。聖ペトロは二本の鍵を手にもっているのに対して、聖パウロは剣を手にしているからです。聖パウロの生涯を知らない人は、次のように考えるかもしれません。パウロは偉大な指揮官で、強力な軍隊を指揮しており、剣で諸民族・諸国民を従わせた。そして、他の人々の血によって名誉と富を手に入れたと。しかし、事実はまさにその反対です。パウロが手にしている剣は、パウロを死に至らしめるための道具です。パウロはこの剣によって殉教し、自分の血を流したのです。パウロの戦いは、暴力と戦争による戦いではなく、キリストのために殉教する戦いでした。パウロの唯一の武器は「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト」(一コリント2・2)を告げ知らせることでした。パウロの宣教は「知恵にあふれたことばによらず、〝霊〟と力の証明によるものでした」(同2・4)。パウロは福音の和解と平和のメッセージを伝えることに生涯をささげました。そのため彼は、地の果てに至るまでこのメッセージを響き渡らせるために力を注いだのです。パウロの力はこれです。パウロは、困難や災いとは無縁の、静かで快適な生活を求めませんでした。むしろ彼は、福音のために自らを使い果たしました。彼は自分のすべてを、制限なしにささげました。このようにして彼は、キリストの平和と和解の偉大な使者となったのです。聖パウロが手にしている剣は真理の力も思い起こさせます。真理はしばしば人を傷つけることがあります。使徒パウロは最後までこの真理に忠実にとどまりました。彼は真理に仕え、真理のために苦しみ、真理のために自分のいのちを引き渡しました。預言者ゼカリヤが告げ、キリストが実現した平和の国をもたらす者となることを望むなら、同じことがわたしたちにもいえます。わたしたちは、自ら代償を払い、自ら誤解と拒絶と迫害を受ける用意ができていなければなりません。平和を築くのは、征服者の剣ではなく、苦しむ者の剣です。自分のいのちをささげる者の剣です。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちはキリスト信者として、神が平和というたまものを与えてくださるよう祈り求めたいと思います。憎しみと分裂と利己主義によって引き裂かれた世界の中で、神がわたしたちをご自身の平和の道具としてくださるように祈りたいと思います。祈り求めたいと思います。明日のアッシジでの集会が、宗教を異にする人々の間の対話を深め、すべての人の思いと心を照らすことのできる光をもたらしてくれますように。こうして、恨みがゆるしに、分裂が和解に、憎しみが愛に、暴力が柔和に変わり、世界を平和が支配しますように。アーメン。

略号
PG Patrologia Graeca

PAGE TOP