教皇ベネディクト十六世の2011年10月30日の「お告げの祈り」のことば 真の教師であるイエス

教皇ベネディクト十六世は年間第31主日の10月30日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリ […]


教皇ベネディクト十六世は年間第31主日の10月30日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「深刻な洪水の被害に遭ったタイ国民の皆様に寄り添うことを表明します。また、最近大雨の被害を受けたイタリアのリグーリア州とトスカーナ州の住民の皆様にも寄り添います。この人々のために祈ることを約束します」。
タイでは7月以来続く大雨のため北部・中部の広域で河川の氾濫が発生し、350人以上の死者が出ています。30日(日)には首都バンコクでも冠水地域が拡大しました。イタリア、リグーリア州とトスカーナ州では10月25日(火)から26日(水)にかけて大雨が降り、30日までに9人が死亡しました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の主日の典礼の中で、使徒パウロはわたしたちに「人のことばとしてではなく、神のことばとして」(一テサロニケ2・13)福音に近づくよう招きます。こうしてわたしたちは、イエスがわたしたちの良心に語りかける忠告を信仰をもって受け入れ、イエスと同じように行動することができます。今日の箇所の中で、イエスは、共同体の中で教師の役割を務めていた律法学者やファリサイ派の人々を非難します。なぜなら、彼らの行いは彼らが他の人々に厳格に示す教えとはっきり対立していたからです。イエスは強調していいます。彼らは「いうだけで、実行しない」(マタイ23・3)。そればかりか、「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(マタイ23・4)。人はよい教えを受け入れなければなりませんが、教えにそぐわない行いによって台なしとなる恐れがあります。そのためイエスはいいます。「彼らがいうことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない」(マタイ23・3)。イエスの態度は正反対です。イエスはすべての人に教えた愛のおきてを自ら実行します。そして、彼はこういうことができます。わたしの荷は軽く、負いやすい。なぜなら、わたしが、あなたがたがわたしとともにそれを担えるように助けるからだ(マタイ11・29-30参照)。
 聖ボナヴェントゥラ(1217/1221-1274年)は、自らの権威の名をもって他の人の自由を抑圧する教師たちのことを念頭に置きながら、真の教師とはいかなる者であるかを示していいます。「神の子がおられなければ、だれも教えることも行うことも、可知的な真理に達することもできない」(『年間説教1――聖霊降臨後第22主日』:Opera omnia, IX, Quaracchi 1901, 442)。「イエスは神との契約を全人類へと広げる、より大いなるモーセとして『教壇』に腰を下ろします」(教皇ベネディクト十六世『ナザレのイエス』:Gesù di Nazaret, Milano 2007, 89〔里野泰昭訳、春秋社、2008年、100頁〕)。イエスこそがまことの唯一の教師です。それゆえわたしたちは、受肉したみことばである神の子に従うよう招かれます。このかたは、御父のみ心に忠実に従い、ご自分をささげることを通して、ご自身の教えが真実であることを示されるからです。福者アントニオ・ロスミニ(1797-1855年)は述べます。「第一の教師は、他のすべての教師を教育する。それは、彼が弟子たちを教育するのと同じである。なぜなら、(弟子にとっても教師にとっても)この教育は、静かでありながらもっとも力強い教えによってのみなされるからである」(Idea della Sapienza, 82, in: Introduzione alla filosofia, vol. II, Roma 1934, 143)。イエスは虚栄をも強く非難していいます。「すべて人に見せるため」(マタイ23・5)の行いは、人間の評価に従うもので、本来の人格の基盤となる価値を損ないます。
 親愛なる友人の皆様。主イエスは世に対してご自分をしもべとして示しました。そのためイエスは、ご自分を完全に捨て、十字架上で、へりくだりと愛に関するもっとも雄弁な教えを示します。イエスの模範から人生の目的が生まれます。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」(マタイ23・11)。至聖なるマリアの執り成しを願いながら、特にキリスト教共同体の中で教職へと招かれた人々のために祈りたいと思います。彼らが、ことばで伝える真理を、常に行いをもってあかしすることができますように。

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