教皇ベネディクト十六世の289回目の一般謁見演説 死者の記念と死について

11月2日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の289回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「死者の日」にあたり、死者の記念と死について考察しました。以下はその全訳です( […]


11月2日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の289回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「死者の日」にあたり、死者の記念と死について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇は11月3日(木)と4日(金)にフランスで行われるG20カンヌサミットに関して、イタリア語で次の呼びかけを行いました。
「今週の明日3日から明後日4日まで、G20国家・政府首脳会議がカンヌで開催され、世界経済に関する主要な問題が討議されます。この会議が、世界レベルで真正で全体的な人間性の発展の推進を阻む困難を乗り越える助けとなることを望みます」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 諸聖人の祭日を祝った後、教会は今日、亡くなったすべての信者を記念し、わたしたちに先立って地上の旅路を終えた多くの人々の顔に目を向けるよう招きます。それゆえ、今日の謁見では、死という現実について簡単な考察を行いたいと思います。死はわたしたちキリスト信者にとって、キリストの復活によって照らされます。そして、わたしたちの永遠のいのちへの信仰を新たにします。
 すでに昨日の「お告げの祈り」の際に申し上げたとおり、この数日間、わたしたちは墓地に赴いて、亡くなった愛する人々のために祈ります。それはあたかも、彼らのところに行って、あらためてわたしたちの愛情を彼らに示し、彼らが今なお近くにいると感じるためです。こうしてわたしたちは信条のことばをも思い起こします。聖徒の交わりの中で、なお地上を歩むわたしたちと、すでに永遠のいのちに到達した多くの兄弟姉妹の間には密接なきずながあるのです。
 人は常に死者を心にとめ、自らの関心と気遣いと愛情を通して、彼らにいわば第二のいのちを与えようと努めます。わたしたちはある意味で彼らの人生経験を残そうと努めます。そして、わたしたちは逆説的にも、彼らがどう生き、何を愛し、何を恐れ、何を望み、何を憎んだかを、まさに墓地に集まって彼らを記念するときに見いだします。墓地はいわば彼らの世界を映し出す鏡です。
 これはなぜでしょうか。理由はこれです。現代社会の中で死はしばしばタブーとされたテーマです。そしてわたしたちは、死について考えることさえも頭から追い払おうと努め続けます。にもかかわらず、死はわたしたち一人ひとりとかかわります。すべての時代と場所の人にかかわります。そして、この死という神秘を前にして、わたしたちは皆、知らず知らずのうちに、わたしたちが希望するよう招かれているものを求めます。この希望は、わたしたちに慰めをもたらすしるしであり、いわばわたしたちに未来を示す視野を開いてくれます。実際、死への道は、希望への道です。墓地を訪れ、そこにしるされた墓碑銘を読むことは、永遠のいのちへの希望によって特徴づけられた歩みとなります。
 しかし、わたしたちは自問します。わたしたちは死を前にしてどうして恐怖を覚えるのでしょうか。どうして多くの人は、死の先には無しかないと信じることをやめないのでしょうか。答えはいくつもあると思います。わたしたちが死を恐れるのは、無が恐いからです。自分が知らないもの、未知のものに向かって旅立つことが恐いからです。また、わたしたちのうちには、死に対する一種の拒絶感があります。自分が人生の中で実現したすべてのすばらしいこと、偉大なことが突然消え去り、無の深淵に陥るのを受け入れられないからです。何よりもわたしたちは、愛は永遠であることを必要とし、求めると考えます。そして、愛が死によって一瞬のうちに破壊されるのを受け入れられません。
 死を恐れるもう一つの理由があります。わたしたちは、人生の終わりが近づくと、審判が行われるだろうと感じます。この審判は、自分の行いや、自分の人生をどのように過ごしたかについて、何よりも人生の汚点について下されます。わたしたちはこれらの汚点を、自分の良心からしばしば上手に除去することができますし、あるいは除去しようと努めます。この審判の問題こそが、すべての時代の人が、死者を気遣い、自分にとって大切だったのに、地上の旅路の中でもはやそばにいない人に関心を寄せる理由でないかと思います。ある意味で、死者を愛情と愛で包むことは、彼らを守る方法です。人々は、死者を愛することが、審判に必ずや影響を及ぼすと確信するからです。わたしたちはこうしたことを、人類史を特徴づける大部分の文化のうちに認めることができます。
 現代世界は、少なくとも見かけ上は、きわめて合理的になりました。もっというならば、次のように考える傾向が広まっています。あらゆる現実は経験科学の基準によって検証されなければならない。死のような重大な問いも、信仰によってではなく、むしろ実験と経験に基づく認識から出発して答えなければならないと。しかし、まさにこのようなしかたを通して、人々がついにはある種の心霊主義に陥ることについて、十分うまく説明することはできません。心霊主義は、死の彼方の世界に何らかの接触を行おうと試み、要するに現世の写しのような現実が存在すると想像するのです。
 親愛なる友人の皆様。諸聖人の祭日と死者の日は、わたしたちに次のことを語ります。死のうちに偉大な希望を見いだすことのできる人だけが、希望に基づいて人生を生きることができます。人間を水平的な次元、すなわち経験的に知覚可能な次元だけに限定するなら、人生はその深い意味を失います。人間は永遠のいのちを必要としています。永遠のいのちへの希望以外の希望はすべて、人間にとって、あまりにも短く、限定されたものでしかありません。空間と時間さえも超える全体性のうちに、死も含めたあらゆる孤独を乗り越えさせる、愛であるかたが存在するとき、初めて人間とは何かを説明することが可能です。神が存在するとき、初めて人間とは何かを説明できます。そのとき初めて、人間は自らの深い意味を見いだします。わたしたちは知っています。神は遠いところを出発して、近くに来てくださいました。神はわたしたちの生活の中に入って来て、こういわれます。「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネ11・25-26)。
 しばし、カルワリオ(されこうべ)の情景に思いを致したいと思います。そして、イエスが十字架上から、イエスの右側で十字架につけられていた犯罪者に語ったことばにあらためて耳を傾けたいと思います。「はっきりいっておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23・43)。エマオへの道を歩む二人の弟子のことを考えてみたいと思います。復活したイエスとともにしばらく道を歩んだ後、彼らはイエスだと分かり、急いでエルサレムに出発して、主の復活を告げました(ルカ24・13-35参照)。わたしたちは師であるかたのことばを、あらためてはっきりと思い起こします。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くといったであろうか」(ヨハネ14・1-2)。神は本当にご自身を現されました。神はわたしたちが近づくことのできるかたとなりました。神は「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである」(ヨハネ3・16)。そして神は十字架上の最高の愛のわざにおいて、死の深淵に身を浸すことによって、死に打ち勝ちました。神は復活して、永遠への門をわたしたちに開いてくださいました。キリストは死の夜の間中、わたしたちを支えます。キリストご自身が死を通られたからです。キリストはよい羊飼いです。わたしたちはこのかたの導きを恐れることなく信頼します。彼は暗闇の中でも、道をよく知っておられるからです。
 わたしたちは主日のたびに、信条を唱えながら、この真理をあらためて確認します。そして、墓地を訪れて、亡くなった愛する人々のために愛情と愛をこめて祈るとき、永遠のいのちへの信仰を勇気と力をもって更新するよう招かれます。そればかりか、この偉大な希望をもって生き、世にこの偉大な希望をあかしするよう招かれます。この世の彼方は無ではありません。永遠のいのちへの信仰こそが、この世をいっそう深く愛し、未来を築き、まことの確かな希望を世に与えるために働く勇気をキリスト信者に与えてくれるのです。ご清聴ありがとうございます。 

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