教皇ベネディクト十六世の2011年11月6日の「お告げの祈り」のことば 十人のおとめのたとえ

教皇ベネディクト十六世は年間第32主日の11月6日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア […]


教皇ベネディクト十六世は年間第32主日の11月6日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「数日前にナイジェリアで起きた悲惨な事件を懸念をもって見守っています。わたしは犠牲者のために祈るとともに、あらゆる暴力を中止するよう願います。暴力は問題を解決せず、むしろ問題を悪化させ、宗教者の間にも憎しみと分裂の種を蒔くからです」。
アフリカのナイジェリアでは、11月4日(金)から5日(土)にかけて北東部ヨベ州ダマトゥルで警察署や教会が次々と武装集団により襲撃され、6日、地元の救急当局者は死者が150人に上ったと述べました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の主日の聖書朗読は、わたしたちが死者の日にあたって始めた、永遠のいのちに関する考察を延長するように招きます。この点に関して、信仰者と非信仰者の間の、あるいは、一律にいえば、希望する者と希望しない者の間の違いは明らかです。実際、聖パウロはテサロニケの信徒への手紙で述べます。「すでに眠りについた人たちについては、希望をもたないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」(一テサロニケ4・13)。イエスの死と復活への信仰は、この領域においても、決定的な分かれ目を示します。聖パウロはエフェソのキリスト者に常に思い起こさせます。あなたがたは福音を受け入れる前は「この世の中で希望をもたず、神を知らずに生きていました」(エフェソ2・12)。実際、ギリシア宗教を初め、異教の宗教や神話は、死の神秘に光を当てることができませんでした。古代の碑文が述べるとおりです。「わたしたちはどれほど早く無から無へと帰ることか(In nihil ab nihilo quam cito recidimus)」。神とキリストを取り去るなら、世は再び無と暗闇のうちに陥ります。これは現代のニヒリズムの表現とも一致します。しばしば自覚されることのない現代のニヒリズムは、残念ながら多くの若者に影響を及ぼしています。
 今日の福音は有名なたとえ話です。このたとえ話は、婚宴に招かれた十人のおとめについて語ります。婚宴は天の国、すなわち永遠のいのちの象徴です(マタイ25・1-13)。これは幸いな比喩ですが、イエスはこの比喩によってわたしたちを裁きます。実際、十人のおとめのうち、五人は婚宴の席に入ります。彼女たちは、花婿が着いたとき、ともし火をつけるための油をもっていたからです。しかし、後の五人は外に残りました。この愚かなおとめたちは油をもっていなかったからです。婚宴に迎え入れられるために不可欠なこの「油」とは、何を表しているのでしょうか。聖アウグスティヌス(354-430年)や(『説教93』:Sermones 93, 4参照)、他の古代の著作家は、これを愛の象徴と解釈します。人は愛を買い求めることはできません。むしろ、それをたまものとして受け入れ、心の中に保ち、行いをもって実践します。真の知恵とは、死すべきいのちを、あわれみのわざを行うために用いることです。なぜなら、死後、あわれみのわざを行うことは不可能だからです。復活して最後の審判を受けるとき、この審判は、地上の生涯の間に行った愛に基づいて行われます(マタイ25・31-46参照)。この愛は、聖霊によってわたしたちに注がれる、キリストのたまものです。愛である神を信じる人は、何ものもこれに打ち勝つことのできない希望を自らのうちに携えます。この希望は、死の先の暗闇を通って、偉大ないのちの宴に達するためのともし火のようなものです。
 「知恵の座(Sedes Sapientiae)」であるマリアに祈り願おうではありませんか。わたしたちにまことの知恵を教えてください。イエスのうちに肉となった知恵を。イエスは、この世から神へと、永遠のいのちへとわたしたちを導く道です。イエスはわたしたちに父のみ顔を知らせてくださいました。こうしてわたしたちに愛に満ちた希望が与えられました。だから教会は主の母に向かって祈ります。「われらのいのち、喜び、希望(Vita, dulcedo, et spes nostra)」(「元后あわれみの母」)。失望させることのない希望のうちに生き、死ぬことを、マリアから学ぼうではありませんか。

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