教皇ベネディクト十六世の290回目の一般謁見演説 詩編119

11月9日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の290回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第17回として、「詩編119」 […]


11月9日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の290回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第17回として、「詩編119」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇はイタリア語で次の呼びかけを行いました。
「この時期、ラテンアメリカ(特に中央アメリカ)に始まり、東南アジアに至る、世界のさまざまな地域が洪水、河川の氾濫、土砂崩れの被害に遭っています。そして、多くの死者と行方不明者と住む家を失った人が生じています。わたしはあらためてこれらの自然災害の被災者に寄り添うことを表明するとともに、犠牲者とその遺族のために祈り、連帯してくださるようお願いします。諸機関と善意の人々が、寛大な精神をもって、災害に苦しむ多くの人々を助けるために協力してくださいますように」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 これまでの講話の中で、祈りの類型の模範となるいくつかの詩編を考察してきました。すなわち、嘆き、信頼、賛美です。今日の講話では、ヘブライ語の伝承によれば詩編119、ギリシア語・ラテン語の伝承によれば詩編118を取り上げたいと思います。この詩編は特別で、こうした類型として唯一のものです。第一にこの詩編はその長さにおいて独特です。実際、この詩編は176節から成り、各8節から成る22の詩節に分かれます。さらに、この詩編は「アルファベットの折り句」であるという特徴をもちます。すなわち、この詩編は、22文字から成るヘブライ語のアルファベットに従って構成されます。すべての詩節はアルファベットの1文字に対応しています。そして、詩節の8つの節の最初のことばがそれらの文字で始まるのです。これは独自で労力を要する文学的構成です。この文学的構成によって、詩編作者は自らの熟練した技術を示さなければなりませんでした。
 しかし、わたしたちにとって重要なのは、この詩編の中心テーマです。実際、この詩編は、主の「トーラー(律法)」についての壮大かつ荘厳な賛歌です。「トーラー」は、きわめて広く完全な意味で、教え、教育、生活指針を表します。「トーラー」は啓示であり、神のことばです。この神のことばは人間に問いかけ、信頼をこめた従順と寛大な愛をもってこたえることを求めます。そして、この詩編全体は神のことばへの愛で満たされています。そして、神のことばのすばらしさ、救いの力、喜びといのちをもたらす可能性をたたえます。神の律法は奴隷の重い軛(くびき)ではありません。むしろそれは、解放し、幸福をもたらす恵みのたまものです。「わたしはあなたのおきてを楽しみとし、みことばを決して忘れません」(16節)。さらにこういわれます。「あなたのいましめに従う道にお導きください。わたしはその道を愛しています」(35節)。またこうもいわれます。「わたしはあなたの律法をどれほど愛していることでしょう。わたしは絶え間なくそれに心を砕いています」(97節)。主の律法、すなわち主のことばは、祈る人の生活の中心です。祈る人は、主の律法のうちに慰めを見いだし、それを黙想し、心に保ちます。「わたしは仰せを心に納めています、あなたに対して過ちを犯すことのないように」(11節)。これが詩編作者の幸福の秘訣です。さらにこうもいわれます。「傲慢な者は偽りの薬を塗ろうとしますが、わたしは心を尽くしてあなたの命令を守ります」(69節)。
 詩編作者の忠実は、みことばを聞き、それを心の中で守り、黙想し、愛することから生まれます。マリアと同じようにです。マリアは自分に語りかけられたみことばと不思議なわざを「すべて心に納めて、思い巡らしていた」。神はこの不思議なわざによってご自分を現し、マリアの信仰に基づく同意を求めたからです(ルカ2・19、51参照)。詩編119は最初の節の中で「主の律法に歩む人」(1b節)、「主の定めを守る人」(2a節)は「いかに幸いなことでしょう」と叫びます。そうであれば、おとめマリアは、詩編作者が描いた、信じる人の完全な姿を実現しました。実際マリアは、エリサベトが述べたとおり、本当に「祝福されたかた」です。なぜなら、マリアは「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた」(ルカ1・45)からです。イエスもマリアとその信仰をあかししました。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎は」と叫んだ女に対して、イエスはこうこたえられたからです。「むしろ、幸いなのは神のことばを聞き、それを守る人である」(ルカ11・27-28)。確かにマリアは幸いなかたです。なぜなら、彼女は救い主をその胎に宿したからです。しかし、何よりも彼女が神のお告げを聞き、注意と愛をこめてみことばを守ったからです。
 それゆえ詩編119全体は、いのちと幸いをもたらすみことばを中心として構成されています。詩編の中心テーマは主の「みことば」と「律法」です。そして、この二つのことばと並んで、ほとんどあらゆる節の中で、「おきて」、「定め」、「いましめ」、「教え」、「約束」、「裁き」といった同義語が繰り返し用いられます。また、これらのことばと関連する、守る、保つ、悟る、知る、愛する、思い巡らす、生きるといった多くの動詞も用いられます。この詩編の22の詩節を、すべてのアルファベットの文字と、信じる者の信頼をこめた神との関係を表すすべてのことばが貫きます。わたしたちはこの詩編のうちに賛美と感謝と信頼とともに、嘆願と嘆きも見いだします。しかしこの嘆きは、神の恵みと神のことばの力に対する確信で常に満たされています。苦しみと暗闇の感覚によってはっきりと特徴づけられる詩節も、希望に開かれ、信仰に満たされています。「わたしの魂は塵に着いています。みことばによって、いのちを得させてください」(25節)。詩編作者は信頼をこめて祈ります。「わたしは煙にすすけた革袋のようになっても、あなたのおきてを決して忘れません」(83節)。信じる者はこのように叫びます。たとえ試練にさらされても、忠実な信じる者は、主のことばのうちに力を見いだします。彼は落ち着いていいます。「わたしを辱めた者に答えさせてください。わたしはみことばに依り頼んでいます」(42節)。死の苦しみを前にしても、主のおきてが彼の基準であり、勝利の希望です。「この地で人々はわたしを絶え果てさせようとしています。どうかわたしがあなたの命令を捨て去ることがありませんように」(87節)。
 詩編作者とすべての信じる者が情熱をこめて愛する神の律法は、いのちの泉です。神の律法を悟り、守り、自分のすべてをそれに向けて方向づけたいという望みが、正しく、主に忠実な人の特徴です。詩編1がいうとおり、彼は「主の教えを昼も夜も口ずさむ人」(2節)です。この律法は神の律法です。だから、申命記の有名な「シェマ」のことばがいうとおり、彼はこれを「心に」とめなければなりません。
「聞け、イスラエルよ。・・・・今日わたしが命じるこれらのことばを心にとめ、子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」(申命記6・4、6-7)。
 生活の中心である、神の律法は、人がそれを心の中で聞くことを求めます。聞くことは従順によって行われます。しかしこの従順は、奴隷の従順ではなく、子としての、信頼をこめた、自覚的な従順です。みことばを聞くとは、いのちの主と個人的に出会うことです。この出会いは、具体的な決断として表され、主に従う歩みとならなければなりません。永遠のいのちを得るために何をしなければならないか問われたとき、イエスは、律法を守る道を示しましたが、その際、これを完全なものとするために、次のように述べました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(マルコ10・21並行)。律法の完成は、イエスに従い、イエスとともに、イエスの道を歩むことです。
 それゆえ詩編119は、主との出会いへとわたしたちを導きます。そして、福音へとわたしたちを方向づけます。ここでわたしたちが考察したい節があります。それは57節です。「主はわたしに与えられた分です。みことばを守ることを約束します」。他の詩編でも、祈る人は、主が自分の「分」であり、嗣業だといいます。詩編16は述べます。「主はわたしに与えられた分、わたしの杯」(5a節)。詩編73(23b節)の信じる者も同じことを宣言します。詩編142でも詩編作者は主に向かって叫んでいいます。「あなたはわたしの避けどころ、いのちあるものの地でわたしの分となってくださるかた」(6b節)。
 この「分」ということばは、イスラエルの諸部族の間で約束の地が分配された出来事を思い起こさせます。このときレビ族にはこの地のいかなる部分も割り当てられませんでした。なぜなら、彼らの「分」は主ご自身だったからです。これはモーセ五書の二つの箇所で、「分」ということばを用いてはっきり述べられています。民数記は次のように宣言します。「主はアロンにいわれた。『あなたはイスラエルの人々の土地のうちに嗣業の土地を持ってはならない。彼らの間にあなたの割り当てはない。わたしが、イスラエルの人々の中であなたの受けるべき割り当てであり、嗣業である』」(民数記18・20)。申命記も繰り返していいます。「それゆえレビ人には、兄弟たちと同じ嗣業の割り当てがない。あなたの神、主がいわれたとおり、主ご自身がその嗣業である」(申命記10・9。申命記18・2、ヨシュア記13・33、エゼキエル44・28参照)。
 神はご自分の民にイスラエルを嗣業として与え、アブラハムに対する約束を果たしました(創世記12・1-7参照)。しかし、レビ族に属する祭司はこの土地を所有することができませんでした。安定と、生存を可能とするための根本的な要素である土地所有は、祝福のしるしでした。土地所有は、家を建て、子孫を増やし、畑を耕し、大地の実りによって生きることができることを意味したからです。ところで、聖性と神の祝福の仲介者であるレビ人は、他のイスラエルの部族と同じように、この祝福の外的なしるしと生存の源を所有できません。主にすべてささげられた者であるレビ人は、主のみによって生きなければなりません。そのために彼らは、嗣業をもたずに、主の摂理に満ちた愛と、兄弟の寛大な心に身をゆだねます。なぜなら、神こそが、彼らが受け継ぐ分であり、彼らがそれによって完全に生きるための土地だからです。
 さて、詩編119の祈る人は、このことを自分自身に当てはめていいます。「主はわたしに与えられた分」。神と神のことばに対する愛によって、祈る人は、主を唯一の財産としてもち、主のことばを貴いたまものとして守る徹底的な決断を行うよう導かれます。主のことばは、あらゆる嗣業、あらゆる地上の財産の中でもっとも高価なものだからです。実際、この節は二通りに翻訳することができます。そこで、次のように訳すことも可能です。「わたしはいいます。主よ、わたしの分は、あなたのことばを守ることです」。二つの翻訳は矛盾せず、むしろ互いに補い合います。詩編作者は、自分の分は主だというと同時に、神のことばを守ることが自分の嗣業だというのです。後に111節でいうとおりです。「あなたの定めはとこしえにわたしの嗣業です。それはわたしの心の喜びです」。これが詩編作者の幸福です。レビ人と同じように、彼は神のことばを嗣業として与えられているからです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。詩編119のこのことばは現代のわたしたち皆にとってもきわめて重要です。第一に、司祭にとってこのことがいえます。司祭は、他の保障をもたずに、主とそのことばだけで生き、主を唯一の財産、唯一のまことのいのちの源としてもつよう招かれているからです。この光のもとで、天の国のために自由に独身を選ぶことも理解できます。独身制のすばらしさと力を再発見しなければなりません。しかし、このことばは、すべての信者にとっても重要です。すべての信者は、神のみに属する神の民、主のための「王の系統を引く祭司」(一ペトロ2・9、黙示録1・6、5・10参照)であり、福音を徹底的に生き、新しい決定的な「大祭司」であるキリストによってもたらされたいのちをあかしするよう招かれているからです。この「大祭司」は、世の救いのために自らをいけにえとしてささげました(ヘブライ2・17、4・14-16、5・5-10、9・11以下参照)。主とそのことば――これこそが、わたしたちがそこで交わりと喜びのうちに生きる、わたしたちの「土地」なのです。
 それゆえ、主にこのみことばへの愛を心に抱かせていただこうではありませんか。主とその聖なるみ心を常に生活の中心に据えていただこうではありませんか。祈り願いたいと思います。わたしたちの祈りと生活全体が、神のことばによって照らされますように。神のことばはわたしたちの道の灯、わたしたちの歩みを照らす光です。詩編119(105節参照)がいうとおりです。こうして、わたしたちの歩みが人々の地の中で守られますように。みことばを受け入れ、産んだかたであるマリアが、わたしたちを導き、強め、幸福の道を示す導きの星となってくださいますように。
 そうすれば、わたしたちも、詩編16の祈る人と同じように、主の思いがけない恵みと、わたしたちに与えられた分を超えた嗣業を、祈りのうちに喜ぶことができるでしょう。
「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。・・・・
測り縄は麗しい地を示し
わたしは輝かしい嗣業を受けました」(詩編16・5、6)。

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