教皇ベネディクト十六世の2011年11月13日の「お告げの祈り」のことば タラントンのたとえ

教皇ベネディクト十六世は年間第33主日の11月13日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリ […]


教皇ベネディクト十六世は年間第33主日の11月13日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「今日は『世界糖尿病デー』です。糖尿病は、若者も含む多くの人を苦しめている慢性病です。糖尿病を患うすべての兄弟姉妹と、日々、彼らと労苦をともにする人々のために、また、彼らを支える保健従事者とボランティアの人々のために祈ります」。
「世界糖尿病デー」は、2006年12月20日、国連が総会議で「糖尿病の全世界的脅威を認知する決議」を可決した際、11月14日に行うことが定められました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 典礼暦年の最後から二番目の主日である、今日の主日の神のことばは、地上の生活がつかのまのものであることに関してわたしたちに警告します。そして、目的に目を注ぎながら、この生活を旅路として過ごすよう招きます。この目的に向けて神はわたしたちを造られたからです。そして、神はわたしたちをご自身に向けて造られたので(聖アウグスティヌス『告白』:Confessiones 1, 1参照)、神こそがわたしたちの究極目的であり、生きる意味です。わたしたちはこの決定的な現実に到達するために、死を通り、その後、最後の審判を受けなければなりません。使徒パウロは「盗人が夜やって来るように」すなわち何の予告もなしに「主の日は来る」(一テサロニケ5・2)ことを思い起こさせます。主イエスが栄光のうちに再臨することを意識することにより、わたしたちが、イエスの最初の到来を常に思い起こし、イエスの来臨を待ち望みながら、目覚めた態度をもって生きるよう促されますように。
 福音書記者マタイが述べる(マタイ25・14-30参照)、有名なタラントンのたとえの中で、イエスは三人のしもべについて語ります。主人は長い旅に出かける前に、この三人に自分の財産を預けます。三人のうちの二人はよく振る舞いました。彼らは与えられたものから二倍のもうけを得たからです。しかし、三人目のしもべは、受け取った財産を穴の中に隠しました。主人は家に帰ると、預けた財産についてしもべたちに清算を求めます。そして主人は、初めの二人をほめましたが、三人目については失望しました。実際、タラントンを生かさずに隠しておいたこのしもべは、よい清算をしませんでした。彼は、主人がもう帰ってこないかのように、すなわち、自分の行いについて報告を求められる日が来ないかのように、振る舞ったのです。イエスはこのたとえ話によって、自分たちに与えられたたまものをよく用いるようにと、弟子たちに教えようと望みます。神はすべての人をいのちへと招いて、彼らにタレント(才能)を与えると同時に、果たすべき使命をゆだねます。このたまものは当然のものであると考えるなら、それは愚かなことです。それは、たまものを用いるのを拒むなら、自分の人生の目的を実現できないのと同じです。大聖グレゴリウス(540頃-604年、教皇在位590-没年)はこの福音書の箇所を解説していいます。主はご自身の愛のわざ、愛によって、だれにでも惜しみなくたまものを与えられます。グレゴリウスはいいます。「それで兄弟たちよ、あなたがたは何ごとをなすにあたっても心に愛を保つように警戒しなければならない」(『福音書講話』:Homiliae XL in Evangelia 9, 6〔熊谷賢二訳、創文社、1995年、328頁〕)。そしてグレゴリウスは、まことの愛は友をも敵をも愛することであることを明らかにした後で、付け加えて述べます。「このような愛をもたない人は、自分のもっているすべての善を失い、受けたタラントンさえ奪われ、主の判決に従って外の闇に投げ出される」(同)。
 親愛なる兄弟の皆様。聖書が何度もわたしたちに呼びかけている、目覚めていなさいという招きを受け入れようではありませんか。目覚めているとは、主が帰って来て、わたしたちのうちにご自身の愛の実りを見いだそうと望まれることを知っている人のとる態度です。愛は根本的な善です。すべての人は愛から実りを生まなければなりません。愛がなければ、他のたまものは空しいのです(一コリント13・3参照)。イエスはわたしたちのためにいのちをささげるほどにわたしたちを愛してくださいました(一ヨハネ3・16参照)。そうであれば、どうして自分のすべてをもって神を愛し、心から互いに愛し合わずにいられるでしょうか(一ヨハネ4・11参照)。愛を実践することによって初めて、わたしたちも、わたしたちの主の喜びにあずかることができます。おとめマリアが、勤勉に、喜びをもって目を覚ましながら、神との出会いに向けて歩むことを教えてくださいますように。

PAGE TOP