教皇ベネディクト十六世の291回目の一般謁見演説 詩編110

11月16日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の291回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第18回として、「詩編110」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日は、もっとも有名な「王の詩編」の一つを黙想することによって、詩編の祈りについての講話を終えたいと思います。この詩編はイエスご自身が唱えたものです。また新約の著者たちはこれを何度も繰り返して用い、メシア、すなわちキリストの意味で解釈しました。ヘブライ語の伝承では詩編110、ギリシア語・ラテン語の伝承では詩編109がそれです。この詩編は古代教会によって、またすべての時代の信者から深く愛されています。この祈りは元はダビデ王朝の王の即位式と関連したものだったと思われます。しかし、その意味は偶然的な歴史的事実を超えて、もっと広い次元に開かれ、神の右の座に座る勝利と栄光のメシアを賛美するものとなりました。
 詩編は荘厳な宣言をもって始まります。
 「わが主に賜った主のみことば。『わたしの右の座に就くがよい。
 わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう』」(1節)。
 神ご自身が栄光のうちに王を即位させ、ご自分の右の座に座らせます。右の座は、偉大な名誉と絶対的な特権を表すしるしです。こうして王は神の支配にあずかることを許され、民のための仲介者となります。この王の支配は、逆らう者に対する勝利においても具体的に表されます。逆らう者は神ご自身によって王の足元に置かれるからです。敵に対する勝利は主によるものですが、王もこの勝利にあずかり、この勝利は神の力のあかしとしるしとなります。
 詩編の初めに示されたこの王の賛美は、新約によってメシアの預言としてとらえられました。そのためこの節は、直接または暗示的に、新約の著者によってもっともよく用いられた個所の一つです。イエスご自身、メシアがダビデ以上のものであり、ダビデの主であることを示すために、メシアに関するこの節に言及しました(マタイ22・41-45、マルコ12・35-37、ルカ20・41-44参照)。ペトロも聖霊降臨における説教でこの節を引用します。彼は、キリストの復活によってこの王の即位が実現し、これからはキリストが神の右の座に就き、世に対する神の支配にあずかることを告げ知らせました(使徒言行録2・29-35参照)。実際、キリストは王座に就いた主です。神の右に座り、天の雲に乗って来る人の子です。イエスご自身が最高法院での裁判のときにご自身について述べたとおりです(マタイ26・63-64、マルコ14・61-62参照。ルカ22・66-69も参照)。キリストはまことの王です。この王は復活によって栄光のうちに父の右に座り(ローマ8・34、エフェソ2・5、コロサイ3・1、ヘブライ8・1、12・2参照)、天使より優れた者とされ、天においてあらゆる主権を超えたところに座し、あらゆる敵を足下に置き、最後の敵である死も決定的に滅ぼします(一コリント15・24-26、エフェソ1・20-23、ヘブライ1・3-4、13、2・5-8、10・12-13、一ペトロ3・22参照)。ここから次のことがすぐに分かります。神の右にいて、その支配にあずかるこの王は、ダビデの後継者の一人ではなく、唯一の新しいダビデです。死に打ち勝ち、本当に神の栄光にあずかる神の子です。彼は、わたしたちに永遠のいのちを与える、わたしたちの王なのです。
 それゆえ、この詩編で賛美される王と神の間には切り離しえない関係があります。両者はともに唯一の国を治めます。そこで詩編作者はいいます。神ご自身が王杖を伸ばして、自分に逆らう者を支配する任務を王に与えます。2節が述べるとおりです。
 「主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。
 敵のただ中で支配せよ」。
 権力の行使は、王が主から直接与えられた務めです。それは、主にすがり、従順に従いながら果たすべき責任です。そのために王は、民全体に対して、神の力強く摂理に満ちた現存のしるしとならなければなりません。敵に対する支配、栄光と勝利は、与えられたたまものです。このたまものが、王を悪に対する神の勝利の仲介者とします。王は敵を変容させることによって敵を支配します。彼は自らの愛をもって敵に打ち勝つのです。
 それゆえ、続く節で王の偉大さがたたえられます。ところで、3節はやや解釈が困難な箇所です。ヘブライ語原文では、軍隊が招集されることが述べられます。民はこの招きに寛大にこたえ、王の即位の日に自分たちの王の周りに集まります。これに対して、キリスト紀元前3-2世紀にさかのぼる七十人訳のギリシア語伝承は、誕生のとき、あるいは主が彼を産んだときから、王が神の子となることについて述べます。そして、教会の伝統全体はこの解釈を選択しました。この解釈によれば、3節は次のような意味となります。
 「力ある日からあなたには威厳が備わっている
 聖なる者の輝きに包まれて。
 わたしは曙の胎内から、露のように、あなたを生んだ」。
 それゆえ、この王についての神のことばは、輝きと神秘に包まれたしかたで神が王を生むことを述べたものであることになります。この密かな謎めいた誕生は、曙の神秘的な美しさと、早朝の光の中で大地の上で輝き、大地を実らす露の奇跡と結びつけられます。天上の事物と切り離しがたく結ばれた姿で述べられたこの王は、本当に神から来られたメシアです。このメシアは、民に神のいのちをもたらし、聖性と救いを仲介します。ここでも次のことが分かります。これらすべてのことは、ダビデ王朝の王の一人によってではなく、主イエス・キリストによって実現されました。イエス・キリストは本当に神から来られたかたであり、世に神のいのちをもたらす光だからです。
 この意味深く謎めいたイメージをもって、詩編の最初の詩節は終わります。その後に、もう一つの神のことばが続いて述べられます。それは新しい展望を開きます。すなわち、王と結ばれた祭司という次元です。4節はこう述べます。
 「主は誓い、思い返されることはない。
 『わたしのことばに従って
 あなたはとこしえの祭司
 メルキゼデク(わたしの正しい王)』」。
 メルキゼデクはサレムの祭司でした。彼はアブラハムを祝福し、太祖が、捕虜となった甥のロトを敵の手から救い出すための戦争で勝利を収めた後、パンとぶどう酒をささげました(創世記14章参照)。メルキゼデクの姿のうちに、王権と祭司職が一つとなります。そして彼は、主から永遠のいのちを約束すると宣言されます。詩編がたたえる王は、永遠の祭司となります。彼は、自分の民のただ中における神の現存の仲介者、祝福の仲介者となります。この祝福は、神に由来し、祭儀の中で人間の賛美の応答を受けるのです。
 ヘブライ人への手紙はこの節にはっきりと言及し(ヘブライ5・5-6、10、6・19-20参照)、また7章全体がこの節をもっぱら扱います。そこからヘブライ人への手紙は、キリストの祭司職に関する考察を展開します。ヘブライ人への手紙は詩編110に照らして述べます。イエスはまことの決定的な意味での祭司です。この祭司は、メルキゼデクの祭司職の特徴を実現し、完成したからです。
 ヘブライ人への手紙が述べるとおり、メルキゼデクは「父もなく、母もなく、系図もなく」(ヘブライ7・3a)、それゆえ、レビ族の血統を引くという祭司の規則に従わない祭司でした。ですから彼は「永遠に祭司です」(同7・3c)。彼は完全な大祭司であるキリストの前表です。この大祭司は「肉のおきての律法によらず、朽ちることのないいのちの力によって立てられたのです」(同7・16)。復活して昇天し、父の右の座に就いた主イエスにおいて、詩編110の預言は実現し、メルキゼデクの祭司職が完成します。なぜなら、この祭司職は絶対かつ永遠で、変わることのないものとなったからです(同7・24参照)。そして、アブラハムの時代にメルキゼデクが行ったパンとぶどう酒の奉献は、イエスの感謝のわざにおいて成就します。イエスはパンとぶどう酒のうちにご自身をささげて死に打ち勝ち、信じるすべての人にいのちをもたらしたからです。ヘブライ人への手紙はまた述べます。「聖であり、罪なく、汚れない」(同7・26)永遠の祭司であるイエスは、「常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、ご自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」(同7・25)。
 4節の神のことばの後、詩編の情景は荘厳な断言をもって変わり、詩編作者は直接王に向かって叫びます。「主はあなたの右に立つ」(5a節)。1節において、王は最高の名声と名誉のしるしとして神の右に座していたとすれば、今や主は、彼を戦いの中で盾をもって守り、あらゆる危険から救うために、王の右に立ちます。王は安全でいられます。神が彼を保護し、ともに戦って、あらゆる敵に打ち勝つからです。
 こうして詩編の最後の数節は勝利の王の幻をもって始まります。主に支えられた王は、主から力と栄光を与えられて(2節参照)、敵に立ち向かいます。彼は逆らう者を打ち負かし、諸国を裁きます。情景は強烈な色調で描かれます。そして、戦いの激しさと、王の勝利が完全であることを表します。主に守られた王は、あらゆる障害を打ち倒し、勝利に向けて確実に歩みます。王はわたしたちにいいます。たしかに世界には多くの悪が存在します。善と悪の間でいつまでも戦いが続き、悪のほうが強いように思われます。しかし、それは違います。強いのは主です。わたしたちのまことの王であり祭司であるキリストです。なぜなら、キリストは神の力をもってすべてのものと戦うからです。そして、たとえあらゆることが歴史がよい結果となることを疑わせたとしても、勝利を収めるのはキリストであり、善であり、愛であって、憎しみではないからです。
 ここで魅力的な比喩が挿入されます。詩編はこの比喩で終わりますが、これは謎めいたことばでもあります。
 「彼はその道にあって、大河から水を飲み
 頭を高く上げる」(7節)。
 戦いの記述のただ中で、休戦と休息のときに、川の水で渇きをいやし、そこから元気と新たな力を得る王の姿が現れます。こうして王は勝利の歩みを再開し、頭を高く上げることができます。頭を高く上げることは、決定的な勝利のしるしです。このきわめて謎めいたことばが、教父にとって難問となったことは明らかです。教父たちは可能なさまざまな解釈を示しているからです。たとえば、聖アウグスティヌス(Aurelius Augustinus 354-430年)はいいます。この川は、人間すなわち人間性のことです。キリストはこの川の水を飲んで人間となりました。こうして彼は人間の人間性の中に歩み入ることによって、頭を高く上げました。今や彼は神秘体の頭です。彼こそがわたしたちの頭であり、決定的な勝利を収めたかたです(『詩編注解』:Enarrationes in Psalmos CIX, 20, PL 36, 1462参照)。
 親愛なる友人の皆様。教会の伝統は、新約の解釈の方向に従いながら、この詩編をメシアについて述べたもっとも重要なテキストとして重視してきました。教父たちはキリスト論的な解釈によって卓越したしかたでこの箇所に言及し続けました。詩編作者がたたえる王は、究極的には、キリスト、すなわち、神の国を創立し、世の力に打ち勝ったメシアです。すべてのものが造られる前、すなわち夜明け前に、御父から生まれたみことばです。受肉し、死んで復活し、天の座に就かれた御子です。パンとぶどう酒の神秘のうちに、罪のゆるしを与え、神との和解をもたらす、永遠の祭司です。復活によって死に打ち勝ち、頭を上げる王です。この詩編についての聖アウグスティヌスの注解の一節をもう一度思い起こせば十分です。聖アウグスティヌスはいいます。「神の独り子が、人間のところに来て、人間を受け入れ、人間本性をとることによって人間となるはずであると知ることは必要であった。彼は死んで復活し、天に上った。そして御父の右に座り、約束したことを人々の間で果たされた。・・・・それゆえ、これらすべてのことが起こるべく定められていることが預言され、あらかじめ告げられ、示されなければならなかった。なぜなら、突然起きれば驚かすことになるが、あらかじめ告げることによって信仰と喜びと期待をもって受け入れさせることができるからである。この詩編もこのような約束の部類に入るものである。それはきわめて確実にかつ公然と、われらの主であり救い主であるキリストを預言する。そのためわれわれはこの詩編の中でキリストが本当に告知されていることを少しも疑うことができないのである」(『詩編注解』:Enarrationes in Psalmos CIX, 3, PL 36, 1447参照)。
 それゆえこの詩編は、キリストの過越の出来事に目を向けるように招きます。キリストに目を向けるように招きます。それは、まことの王の支配の意味を悟るためです。王はその支配を、仕えることによって、自分をささげることによって、従順と、「この上ない」(ヨハネ13・1、19・30参照)愛の道を歩むことによって行わなければなりません。それゆえ、この詩編を祈りながら、主に願いたいと思います。わたしたちも、メシア、王であるキリストに従って、主の道を歩ませてください。キリストとともに進んで十字架の丘に上り、キリストとともに栄光に入らせてください。そして、御父の右に座す勝利の王、すべての人にゆるしと救いを与える、あわれみ深い祭司を仰ぎ見させてください。わたしたちも、神の恵みによって、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民」(一ペトロ2・9参照)とならせてください。そして、喜びをもって救いの泉から水をくみ(イザヤ12・3参照)、全世界に「暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださったかた」(一ペトロ2・9参照)の驚くべきわざを告げ知らせることができますように。
 親愛なる友人の皆様。これまでの講話の中でいくつかの詩編を皆様にご紹介しようとしました。聖書に収められたこの貴い祈りは、さまざまな生活状況と、わたしたちが神に対してもちうるさまざまな心の状態を反映しています。そこでわたしはすべての人にあらためてお願いたいと思います。できれば教会の時課の典礼、すなわち朝の祈りと晩の祈りと読書を唱える習慣を身に着けながら、詩編を祈ってください。わたしたちの神との関係は、日々神に向かって歩むことによって初めて豊かなものとなり、深い喜びと信頼をもって実現されるのです。ご清聴ありがとうございます。

略号
PL Patrologia Latina

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