教皇ベネディクト十六世の2011年11月27日の「お告げの祈り」のことば 目を覚ましていなさい

教皇ベネディクト十六世は待降節第1主日の11月27日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリ […]


教皇ベネディクト十六世は待降節第1主日の11月27日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「明日から南アフリカのダーバンで、京都議定書に関する国連気候変動枠組条約(第17回)締約国会議が開催されます。国際社会のすべてのメンバーが、最貧者と未来の世代の必要を考慮しながら、この懸念すべき複雑な現象に対して責任と信頼と連帯に基づく応答を一致して行うことを願います」。
国連気候変動枠組条約第17回締約国会議(COP17)は、11月28日(月)から2週間にわたって開催される予定です。会議では2012年末に期限を迎える京都議定書の次の枠組み作りなどが話し合われます。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日から全教会で新しい典礼暦年が始まります。新しい典礼暦年は、新しい信仰の歩みです。わたしたちはキリスト教共同体の中でそれをともに過ごさなければなりません。しかし、いつもと同じように、わたしたちはこれを世界の歴史の中で歩まなければなりません。それは、世を神の神秘へと、神の愛がもたらす救いへと開くためです。典礼暦年は待降節から始まります。待降節は、キリストの再臨への期待と、キリストの最初の到来の記憶が心の中で再び目覚める、すばらしい季節です。キリストは最初の到来のとき、わたしたちの死すべき肉をまとうために、ご自身の栄光を捨てたのです。
 「目を覚ましていなさい」。これが、今日の福音におけるイエスの呼びかけです。「目を覚ましていなさい」(マルコ13・37)。この呼びかけは、弟子たちだけでなく、すべての人に向けられています。それは、いのちは地上の次元だけでなく、地上を「超えた」ところに向かうことを思い起こすようにという、救いの招きです。地上から芽を出して、天に向かって開く若木と同じようにです。人間は、自由と責任を与えられた、考える葦です。ですから、わたしたちは皆、いつか、自分がどう生きてきたか、自分の能力をどのように用いてきたかを報告するよう求められます。わたしは自分の能力を自分のためだけに用いたでしょうか。それとも、そこから兄弟の善のためにも成果を上げたでしょうか。
 待降節の預言者であるイザヤも、今日、民を代表して神にささげた悲しみの祈りをもって、わたしたちに反省を促します。イザヤは自分の民の咎(とが)を認めます。そしてこう述べます。「あなたのみ名を呼ぶ者はなくなり、奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。あなたはわたしたちからみ顔を隠し、わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた」(イザヤ64・6)。このことばに心を打たれずにいられるでしょうか。それはポスト・モダンの世界の一部の状況を反映しているように思われます。都市では、生活が匿名化し、水平化しています。神はおらず、人間が唯一の主人となり、万物の創造者また監督となったかのように思われます。建築、労働、経済、輸送、科学、技術――すべては人間だけによるもののように思われます。時として、この見かけ上はほとんど完全に思われる世界の自然や社会で、恐ろしい出来事が起こります。そのためわたしたちは、神が退き、いわばわたしたちを見捨てたかのように考えます。
 実際には、世界の真の「主人」は、人間ではなく神です。福音はいいます。「だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない」(マルコ13・35-36)。待降節は毎年、このことを思い起こさせてくれます。それは、わたしたちの人生が、神のみ顔へと向かう正しい方向性を回復するためです。このみ顔は「主人」ではなく、御父の、友であるかたのみ顔です。わたしたちの待降節の歩みを導いてくださるおとめマリアとともに、預言者のことばを自分のものとしようではありませんか。「主よ、あなたはわれらの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたのみ手のわざ」(イザヤ64・7)。

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