教皇ベネディクト十六世の293回目の一般謁見演説 イエスの生涯における祈り

11月30日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の293回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2011年5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第19回として、「イエスの生涯における祈り」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 これまでの講話の中で旧約におけるいくつかの祈りの模範について考察してきました。今日からイエスとその祈りに目を向け始めたいと思います。イエスの祈りはその生涯を貫いています。それは隠れた水路のように、イエスの生涯と人とのかかわりと行いを潤します。そして、父である神の愛の計画に従う完全な自己奉献へとますます強くイエスを導きます。イエスはわたしたちの祈りの師でもあります。そればかりか、彼は、わたしたちが御父に向かうたびごとに、いつも力強く兄弟として支えてくださいます。まことに『カトリック教会のカテキズム要約』の標題が要約するとおり、「祈りはイエスにおいて完全に啓示され、実現される」(同541-547)のです。これからの講話の中で、わたしたちはイエスに目を向けたいと思います。
 このイエスの歩みの中で特に重要な時は、イエスがヨルダン川で受けた洗礼に伴う祈りです。福音書記者ルカはこう記します。イエスは、すべての民衆とともに洗礼者ヨハネの手から洗礼を受けた後、長いきわめて個人的な祈りに入られました。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」(ルカ3・21-22)。この「祈っておられ」たこと、すなわち御父との対話が、ヨルダン川のほとりに集まった多くのご自分の民とともに彼が実現したわざを照らします。イエスは祈ることによって、洗礼を受けるというご自分のわざに、彼だけの個人的な性格を与えるのです。
 洗礼者ヨハネは、真の意味で「アブラハムの子」として生き、そのために回心して善を行い、この転換にふさわしい実を結べと強く呼びかけました(ルカ3・7-9参照)。多くのイスラエル人が心を動かされました。福音書記者マルコが述べるとおりです。「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(マルコ1・5)。洗礼者ヨハネはある意味で真に新しい要素をもたらしました。洗礼を受けることは、決定的な転換を特徴とするものでなければなりませんでした。人々は罪と結びついた行いを捨て、新しい生活を始めなければなりませんでした。イエスもこの招きを受け入れ、ヨルダン川のほとりで待つ暗い罪人の群れに加わりました。しかし、初期キリスト教徒と同じように、わたしたちにも次の問いが浮かびます。なぜイエスは進んでこのような悔い改めと回心の洗礼を受けたのでしょうか。イエスは罪を告白する必要がありませんでした。彼は罪を犯していませんでした。それゆえ回心する必要もありませんでした。それでは、なぜイエスはこのようなことをなさったのでしょうか。福音書記者マタイは洗礼者ヨハネの驚きについて述べます。ヨハネはいいます。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(マタイ3・14)。するとイエスは答えていわれます。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、われわれにふさわしいことです」(マタイ3・15)。聖書の世界で「正しいこと」ということばは、神のみ心を完全に受け入れることを意味します。イエスは、ご自分がご自分の民の中のこれらの人々に寄り添うことを示しました。民は洗礼者ヨハネに従い、自分たちがアブラハムの子だと考えるだけでは不十分であることを認め、むしろ神のみ心を果たすことを望みます。自分の行いが、神からアブラハムに与えられた契約に忠実にこたえるものとなるよう努力したいと望みます。ところで、イエスは、罪がないにもかかわらず、ヨルダン川に降ることにより、自分の罪を認め、回心して生活を改めようと決心した人々との連帯を目に見える形で示しました。彼は、神の民に属する者となるとは、新しい生活、すなわち神に従う生き方を始めることだということを悟らせてくださるのです。
 イエスはこの洗礼のわざによって、十字架を先取ります。イエスは、罪人のいるところに身を置き、全人類の罪の重荷を自分の肩に背負い、御父のみ心を果たすことを通じて、公生活を始められたのです。イエスは祈りに専念することによって、天におられる御父との深いきずなを示します。彼は御父の気遣いを体験し、御父の愛の厳しさとすばらしさを悟ります。そして、御父との語らいのうちにご自分の使命を確認されます。天から聞こえたことばは(ルカ3・22参照)、過越の神秘、すなわち十字架と復活の先取りを示します。神の声はイエスを「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼びます。このことばは、父アブラハムが神の命令に従っていけにえとしてささげようとした、最愛の子イサクを思い起こさせます(創世記22・1-14参照)。イエスは、単に王またメシアの血統である「ダビデの子」あるいは神に喜ばれる「しもべ」であるだけでなく、イサクと同様に「独り子、心に適う者」でもあります。父である神は彼を世の救いのためにささげるからです。祈りの中で、イエスがご自分の父に対する子としての関係と、父である神の気遣いを体験しておられたとき(ルカ3・22b参照)、聖霊が降って来ます(ルカ3・22a参照)。聖霊は使命を果たすイエスを導きます。そして、イエスは十字架に上げられた後、聖霊を注ぎます(ヨハネ1・32-34、7・37-39参照)。それは、教会のわざを照らすためです。イエスは祈りの中で、御父と絶えず触れ合います。それは、人類に対する愛の計画を完全に実現するためです。
 この特別な祈りの背景にあるのは、イスラエル民族の宗教的伝統と深く結ばれた家族の中でイエスが体験した、生活全体です。福音書に見いだされるさまざまな言及がこのことを示します。すなわち、イエスが割礼を受けられたこと(ルカ2・21参照)、神殿でささげられたこと(ルカ2・22-24参照)、ナザレの聖なる家で教育と養成を受けたことです(ルカ2・39-40、2・51-52参照)。この生活は「およそ三十年」(ルカ3・23)に及びました。それは、エルサレムへの巡礼のような、共同体として信仰を表す行事に参加する体験を含むとはいえ(ルカ2・41参照)、長く隠れた、子としての生活でした。福音書記者ルカは、十二歳のイエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座っていたという出来事を語ります(ルカ2・42-52参照)。そこからルカは、ヨルダン川での洗礼の後に祈ったイエスが、父である神と親しく祈る習慣を長くもち続けていたことを垣間見させてくれます。この祈りは、伝統と、家族の生き方と、イエスが行った決定的な体験に根ざしていました。十二歳のイエスのマリアとヨセフへの答えは、すでに、洗礼の後に天からの声が現した、彼の神の子としてのあり方を示しています。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(ルカ2・49)。イエスはヨルダン川から上がったとき、初めて祈りを始めたのではありません。むしろ彼は、御父との絶えることのないいつもの関係をもち続けました。そして、この御父との深い一致のうちに、イエスはナザレの隠れた生活から公生活への移行を行ったのです。
 確かに、イエスの祈りについての教えは、家庭の中で身に着けた祈り方に由来します。しかし、その深く本質的な起源は、彼が神の子であること、彼の父である神との独自の関係のうちにあります。『カトリック教会のカテキズム要約』は、「イエスはだれから祈ることを学ばれましたか」という問いに次のように答えます。「イエスは、人間の心で、母親とユダヤ教の伝統から祈ることを学ばれました。しかし、イエスの祈りは、より秘められた源からほとばしるものでした。なぜならイエスは、その聖なる人性のうちに子としての完全な祈りを御父にささげる、永遠の神の子だからです」(同541)。
 福音書の記事の中で、イエスが祈る場面は、いつも彼が属するご自分の民の伝統と、新しい神との独自の個人的な関係の交差するところに位置づけられます。イエスがしばしば退いた「人里離れたところ」(マルコ1・35、ルカ5・16参照)、祈るために登った「山」(ルカ6・12、9・28参照)、一人になることができた「夜」(マルコ1・35、6・46-47、ルカ6・12参照)は、旧約における神の啓示の歩みにおけるさまざまな出来事を思い起こさせます。そして、神の救いの計画の継続性を示します。しかし同時にそれらは、イエスにとって特に重要な意味をもつ出来事をも示します。イエスは、御父のみ心に完全に忠実に従いながら、意識的にこの神の計画のうちに自分を組み入れたのです。
 わたしたちも祈るとき、イエスを頂点とする、この救いの歴史に歩み入ることをますます学ばなければなりません。自分の心を神のみ心に開こうとする個人的な決心を、神のみ前で新たにしなければなりません。生涯全体をもって、わたしたちに対する神の愛の計画に忠実に従いながら、自分の望みを神のみ心と一致させる力を与えてくださるよう、神に願わなければなりません。
 イエスの祈りは、その奉仕職のさまざまな状況と、日々の全体にかかわります。疲れはイエスの祈りの妨げとなりません。むしろ福音書は、イエスが夜通し祈りながら過ごすのが習慣だったことを明らかにします。福音書記者マルコは、パンを増やした辛い一日の後の、こうした夜の一つについて記しています。こう書かれています。「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間にご自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた」(マルコ6・45-47)。切迫した複雑な決定を行うとき、イエスはより長く熱心に祈りをささげました。たとえば、十二人の使徒の選定が迫っていたとき、ルカは、イエスが準備のために夜中、祈ったことを強調します。「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名づけられた」(ルカ6・12-13)。
 イエスの祈りに目を向けるとき、わたしたちは自らに問いかけなければなりません。わたしはどのように祈っているでしょうか。わたしたちはどのように祈っているでしょうか。わたしはどれほどの時間を神との関係のために用いているでしょうか。今日、祈りについての教育と養成が十分なされているでしょうか。だれが祈りを教えることができるでしょうか。わたしは使徒的勧告『主のことば』の中で、祈りを込めて聖書を読むことの大切さについて述べました。わたしはシノドス総会で出された意見をまとめながら、特に霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)という特別な祈り方を強調しました。語りかける主のみ前で耳を傾け、黙想し、沈黙する方法を、絶えず実践することを学ばなければなりません。いうまでもなく、祈りはたまものです。しかし、このたまものは、それを人が受け入れることを求めます。祈りは神のわざです。しかし、わたしたちも祈ろうと努力し、祈り続けることが必要です。何よりもまず、絶えず祈り続けることが大切です。模範となるイエスの体験が示すことはこれです。神の父としての愛と、聖霊の交わりによって力づけられたイエスの祈りは、オリーブの園と十字架に至るまで、長く忠実に祈りを実践することによって深められました。現代のキリスト信者は、祈りをあかしするよう招かれています。なぜなら、現代世界はしばしば、神の地平と、神との出会いをもたらす希望に対して閉ざされているからです。イエスとの深い友愛に結ばれ、イエスのうちに、イエスとともに御父との子としての関係を生きることによって、わたしたちの忠実で絶えざる祈りを通して、わたしたちは神のおられる天へと窓を開くことができます。そればかりか、人を気にしないで祈りの道を歩むことにより、わたしたちは他の人々が祈りの道を歩む助けとなることができます。キリスト教の祈りにとっても、本当に、歩むことによって道は開かれるのです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。神との深い関係を学ぼうではありませんか。時々ではなく、絶えず、信頼に満たされながら、祈ることを学ぼうではありませんか。祈りは人生を照らすことができます。イエスが教えてくださったとおりです。そして、主に願おうではありませんか。近くにいる人、道で出会う人に、主と出会う喜びを伝えることができるようにしてください。主はわたしたちの人生の光だからです。ご清聴ありがとうございます。

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