教皇ベネディクト十六世の294回目の一般謁見演説 イエス・キリストのメシアとしての喜びの賛歌

12月7日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の294回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2011年5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第20回として、「イエス・キリストのメシアとしての喜びの賛歌(マタイ11・25-30、ルカ10・21-22)」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 マタイとルカ福音書記者(マタイ11・25-30、ルカ10・21-22参照)はイエスの祈りの「宝石」をわたしたちに伝えてくれています。この祈りはしばしば「喜びの賛歌」ないし「メシアとしての喜びの賛歌」と呼ばれます。たった今朗読されたとおり、それは感謝と賛美の祈りです。福音書のギリシア語原文ではこの賛歌の初めのことば――そしてそれはイエスの御父に向けた態度を表します――は「エクソモログーマイ」です。このことばはしばしば「ほめたたえます」(マタイ11・25、ルカ10・21)と訳されます。しかし、新約の文書の中で、この動詞はおもに二つのことを意味します。第一は「徹底的に認める」です――たとえば、洗礼者ヨハネは、洗礼を受けるために彼のもとに来た人々に対して、自分の罪を徹底的に認めることを求めます(マタイ3・6参照)――。第二は「同意する」です。それゆえ、イエスが祈りを始めたことばは、彼が父である神のわざを完全に「徹底的に認めたこと」、同時に、彼がこのようなわざ、すなわち御父の計画に「完全に、自覚的に、喜びをもって同意したこと」を表します。喜びの賛歌は祈りの歩みの頂点です。この祈りの中で、イエスの聖霊における御父のいのちとの深く親密な交わりがはっきりと現れ、彼が神の子であることが示されます。
 イエスは神を「父」と呼びながら神に呼びかけます。このことばは、御父との深く絶えざる交わりのうちに自分が「子」であるというイエスの自覚と確信を表します。それはイエスの祈りの中心また源泉でもあります。わたしたちはそのことをこの賛歌の最後の部分にはっきりと見いだします。この部分はテキスト全体を照らすものです。イエスはいいます。「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういうかたであるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」(ルカ10・22)。それゆえイエスは、「子」だけが真の意味で父を知るのだと述べています。人間が互いに知り合うこと――わたしたちは皆、人間関係の中でそのことを経験しています――は、参加すること、深さの差はあれ、知る者と知られる者の間にある種の内的なきずながあることを前提します。存在の交わりなしにだれかを知ることはありえません。イエスは、ご自身のすべての祈りと同様に、喜びの賛歌の中で、神を真の意味で知ることは、神との交わりを前提するということを示します。他の人と交わりをもつことによって初めて、わたしはその人を知り始めます。神との場合も同様です。真の意味で神と接触し、交わりをもつことによって初めて、わたしは神を知ることができます。それゆえ、真の意味で父を知ることは「子」に限られています。独り子は永遠に父のふところにおられ(ヨハネ1・18参照)、完全に父と一致しておられるからです。子のみが真の意味で神を知り、存在の深い交わりをもっています。子だけが真の意味で神がどのようなかたであるかを示します。
 「父」という名に続くのが、「天地の主」という二番目の称号です。イエスはこのことばで、創造への信仰を要約し、聖書の最初のことばを響かせます。「初めに、神は天地を創造された」(創世記1・1)。イエスは祈りのうちに、人間に対する神の愛の歴史を述べた聖書の偉大な物語を思い起こします。神の愛の歴史は、創造のわざから始まります。イエスはこの愛の歴史に加わります。イエスこそがこの愛の歴史の頂点であり完成です。イエスの祈りの体験の中で、聖書は照らされ、完全な広がりをもって生き返ります。神の神秘が告げ知らされ、造り変えられた人間がそれにこたえるのです。しかしわたしたちは、「天地の主」ということばのうちに、父を示すかたであるイエスによって、人間が神に近づく可能性が再び開かれたことも見いだすことができます。
 ここでわたしたちは問いかけることができます。子はだれに神の神秘を現そうと望まれるのでしょうか。イエスは賛歌の初めに、ご自分の喜びを表します。御父のみ心は、これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子のような者に示すことだったからです(ルカ10・21参照)。イエスは、自分の祈りのこのことばによって、ご自分が御父の決断と一致していることを示します。御父はご自分の神秘を単純な心をもった人々に示します。御子の望みは、御父のみ心と同じです。神の啓示は地上の論理に従って行われるのではありません。地上の論理では、教養と権力のある者が重要な知識をもち、それを単純な者、幼子のような者に伝えます。神はまったく違うやり方を用います。神が伝えようとする相手は、まさに「幼子のような者」です。これが御父のみ心です。そして御子は喜びをもってこのみ心を共有します。『カトリック教会のカテキズム』はいいます。「『そうです、父よ』という喜びの叫びは、イエスの本心を示し、御父の『おぼしめし』への賛同を表すものであり、聖母が受胎の際にいわれた『おことばどおりになりますように』ということばのこだまのような、ご自身がゲツセマネの苦悩のさ中に御父に対してなされた祈りの前触れのようなものです。イエスの祈りは、すべて御父の『秘められた計画』(エフェソ1・9)に対する人間としての心からあふれる愛に満ちた賛同にほかなりません」(同2603)。わたしたちが主の祈りで神にささげる「み心が天に行われるとおり地にも行われますように」という祈願はここから由来します。わたしたちもキリストとともに、キリストのうちに、御父のみ心と一致できるように願います。そこからわたしたちも、御父の子らとなることができるのです。それゆえ、イエスはこの喜びの賛歌によって、御父がそれにあずからせようと望むすべての人を、ご自身の子としての神の知識にあずからせたいという望みを表します。このたまものを受け入れる人が「幼子のような者」なのです。
 しかし、「幼子のような者」、単純な者とはどういう意味でしょうか。人間を子としての神との親しい関係へと開き、み心を受け入れる者とする、「幼子であること」とはいかなることなのでしょうか。わたしたちの祈りの根本的な姿勢はいかなるものであるべきでしょうか。「山上の説教」に目を向けたいと思います。そこでイエスはいいます。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」(マタイ5・8)。イエス・キリストのうちに神のみ顔を見いだすことを可能にするのは、心の清さです。清い心とは、幼子のように単純な心です。自分のうちに閉じこもり、だれも、神さえも必要としないと考える、高慢さをもたない心です。
 イエスが御父にこの賛歌をささげるきっかけとなった状況に注目すると、興味深いことが分かります。マタイによる福音書の記事では、それは喜びです。さまざまな反対や拒絶を受けたにもかかわらず、「幼子のような者」がイエスのことばを受け入れ、イエスを信じる恵みに心を開いたからです。実際、この喜びの賛歌の前に、対照的なしかたで、洗礼者ヨハネに対する称賛(マタイ11・2-19参照)とガリラヤ湖畔の町の不信仰への非難(マタイ11・20-24参照)が行われます。洗礼者ヨハネは、キリスト・イエスのうちに神のわざを認めた「幼子のような者」の一人です。ガリラヤ湖畔の町は「数多くの奇跡の行われた」地でした。それゆえマタイは、喜びを、イエスがご自分のことばとわざの力を認めた、次のことばとの関連で考えています。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」(マタイ11・4-6)。
 聖ルカもこの喜びの賛歌を、福音の宣教を展開する出来事とのつながりで示します。イエスは「七十二人」(ルカ10・1)の弟子を派遣しました。この七十二人は、自分たちの宣教が失敗するのではないかという恐れを感じながら出発しました。ルカも、主が説教し、奇跡を行った町で拒絶に遭遇することを強調します。しかし、七十二人の弟子は喜びに満ちて帰って来ます。彼らの宣教が成功したからです。彼らは、イエスのことばの力によって人間のさまざまな悪が敗れるのを目の当たりにしました。イエスも彼らと満足を分かち合います。「そのとき」、すなわちまさにこのとき、イエスは喜びの叫びを上げたのです。 
 わたしが強調したい点があと二つあります。福音書記者ルカはこの祈りを紹介する際、次の注記を加えます。「イエスは聖霊によって喜びにあふれていわれた」(ルカ10・21)。イエスは、ご自分のもっとも深いところでもっているものを、心の奥底から喜ばれます。すなわち、知り、愛することによる御父との独自の交わりであり、聖霊に満たされていることです。イエスはわたしたちをご自分の子の身分にあずからせることにより、わたしたちも聖霊の光に心を開くよう招きます。それは、使徒聖パウロがいうとおり、「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、〝霊〟自らが、神のみ心に従って、ことばに表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(ローマ8・26-27)。そして、御父の愛を示してくださるからです。マタイによる福音書では、喜びの賛歌の後、イエスの心からの呼びかけが行われます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11・28)。イエスはご自分のところに来るように求めます。彼こそが真の知恵だからです。彼こそが「柔和で謙遜な者」だからです。イエスは「わたしの軛(くびき)」を示します。「わたしの軛(くびき)」とは、福音の知恵の道です。それは学ぶべき教えでも、定められた倫理でもありません。むしろ、従うべきかたそのものです。すなわち、御父との完全な交わりのうちにある独り子、イエスご自身です。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちはしばしの間、イエスの豊かな祈りを味わいました。わたしたちも、霊のたまものによって、祈りのうちに、子としての信頼をもって神に向かうことができます。そして、「アッバ」という御父の名をもって神に呼びかけることができます。しかしわたしたちは、幼子のような者の心、「心の貧しい者」(マタイ5・3)の心をもたなければなりません。それは、わたしたちは自分を満たすことができないこと、自分だけの力で人生を築けないこと、むしろわたしたちは神を必要としていること、神と出会い、神に耳を傾け、神に語ることを必要としていることを認めるためです。祈りは、神のたまもの、神の知恵、すなわちイエスご自身を受け入れられるように、わたしたちの心を開いてくれます。それは、自分の人生の中で御父のみ心を行い、そこから、自分たちの辛い歩みの中にも安息を見いだすためです。ご清聴ありがとうございます。

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