教皇ベネディクト十六世の2011年12月11日の「お告げの祈り」のことば 主においてつねに喜びなさい

教皇ベネディクト十六世は待降節第3主日の12月11日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリ […]


教皇ベネディクト十六世は待降節第3主日の12月11日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「親愛なる兄弟姉妹の皆様。今日の最初のあいさつを、ローマの子どもたちに申し上げます。皆様はローマのチェントロ・オラトーリ・ロマーニの呼びかけで、『幼子イエス』を祝福してもらうために来てくださったからです。皆様、ありがとうございます。親愛なる子どもたち。馬小屋の前で祈るとき、わたしのことも思い出してください。わたしも皆さんのことを思い出します。ありがとうございます。よいクリスマスをお迎えください」。
この日の午前、教皇はローマ教区の北地区にあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ・カサル・ボッコーネ小教区を訪問し、9時30分からミサを司式しました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の待降節第三主日の朗読箇所は、わたしたちをあらためてこう招きます。イエスを待ち望みなさい。イエスの到来を待つことをやめてはなりません。そこから、イエスとの出会いに心を開き、準備を整える態度をもって暮らしなさい。キリスト信者はつねに、毎日の生活の中で、目覚めた心をもつよう招かれます。目覚めた心は特に待降節を特徴づけます。待降節の間、わたしたちは喜びのうちに降誕の神秘に備えるからです(「叙唱 待降節二」参照)。わたしたちの周りは、経済危機のために抑え気味とはいえ、いつもの商業主義的なメッセージを示しています。キリスト信者は、光から目をそらさず、むしろ、ものごとを正しく評価し、内的な目をキリストにいつも向けながら、待降節を過ごさなければなりません。実際、もし「絶えず目覚めて祈り、賛美しながら主を喜び迎える」(同)なら、わたしたちのまなざしはキリストのうちにまことの世の光を見いだすことができます。この光は、わたしたちの暗闇を照らすために来られたのです。
 特に「喜び(Gaudete)の主日」と呼ばれる今日の主日は、わたしたちを招きます。喜びなさい。悲しみではなく、喜びをもって目覚めていなさい。聖パウロはいいます。「主においてつねに喜びなさい(Gaudete in Domino semper)」(フィリピ4・4)。まことの喜びは、気晴らしからは生まれません。「気晴らし」とは、人生の務めや責任から逃れる(di-vertere)という語源的な意味でいっています。真の喜びはもっとも深いことがらと結ばれています。確かに、しばしば激しい日常のリズムの中で、休み、くつろぐための余裕を見いだすことは大切です。しかし、まことの喜びは神との関係と結ばれています。自分の人生の中でキリストと出会った人は、だれも、またいかなる状況も奪うことができない落ち着きと喜びを心の中で味わいます。聖アウグスティヌスはそのことをよく理解していました。彼は真理と平和と喜びを探求し、さまざまな事物を空しく探した後、有名なことばでこう結論づけます。人間の心は、神のうちに憩うまで、落ち着かず、安らぎと平和を得ることはできません(『告白』:Confessiones I, 1, 1参照)。まことの喜びは、単なるつかのまの魂の状態ではありません。それは自分の努力で到達できるものでもありません。むしろそれは、たまものです。このたまものは、イエスという生きたかたと出会うことから生まれます。わたしたちの中でイエスのために場所を空けることから生まれます。わたしたちの人生を導く聖霊を受け入れることから生まれます。これが使徒パウロの招きです。パウロはいいます。「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂もからだも何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように」(一テサロニケ5・23)。待降節の間、主がわたしたちのただ中に来られ、新たに慰めと愛と喜びをもってともにい続けてくださるという確信を強くもとうではありませんか。主に信頼しようではありませんか。自らの経験に照らして、再び聖アウグスティヌスがいうとおりに。主は「わたしのもっとも内なるところよりもっと内にましまし、わたしのもっとも高きところよりもっと高きにいられました(interior intimo meo et superior summo meo)」(『告白』:Confessiones III, 6, 11〔山田晶訳、『世界の名著14 アウグスティヌス』中央公論社、1968年、116-117頁〕)。
 わたしたちの歩みを無原罪のおとめにゆだねようではありませんか。無原罪のおとめの霊は救い主である神を喜びたたえました。無原罪のおとめが、喜びのうちに、多くの祈りとよいわざをもってイエスの到来を待ち望むわたしたちの心を導いてくださいますように。

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