教皇ベネディクト十六世の295回目の一般謁見演説 いやしの奇跡とかかわるイエスの祈り

12月14日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の295回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2011年5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第21回として、「いやしの奇跡とかかわるイエスの祈り」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日は皆様とともに、いやしの奇跡のわざと結びついたイエスの祈りについて考えてみたいと思います。福音書の中には、父である神が祝福し、いやしを与えてくださる前にイエスが祈る、さまざまな状況が見られます。父である神はイエスを通して働くからです。このような祈りは、イエスが御父を知り、御父と交わる、独自の関係をあらためて示します。その際イエスは、自分の友の困難に深くかかわります。たとえば、ラザロとその家族、あるいはイエスが具体的に助けようと望んだ多くの貧しい人、病気の人です。
 一つの意味深い例は、耳が聞こえず舌の回らない人のいやしです(マルコ7・32-37参照)。たった今朗読された、マルコ福音書記者の記事は、イエスのいやしのわざが、彼の隣人(病気の人)また御父との深い関係と結びついていたことを示します。奇跡の行われた状況は次のように注意深く述べられます。「そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』といわれた。これは、『開け』という意味である」(マルコ7・33-34)。イエスは、いやしがこの人を「群衆の中から連れ出し」てから行われることを望みます。これはふさわしいことだと思われます。それは単に、イエスというかたについて限定された、ゆがんだ解釈が行われるのを避けるために、奇跡を群衆から隠さなければならなかったからだけではありません。病気の人を連れ出すことにより、いやしのときにイエスと耳が聞こえず舌の回らない人は二人だけになり、特別に親しい関係をもつことができたのです。主はある動作をもって病気の人の耳と舌、つまり病気にかかった特定の部位に触れます。イエスの関心の深さは、いやしの普通でない性格にも示されます。イエスは自分の指と、唾まで用います。福音書記者が、主の発した原語――「エッファタ」、すなわち「開け」――を記していることも、この状況の特別な性格を強調します。
 しかし、この出来事の中心はこれです。イエスは、いやしのわざを行う際、直接、御父との関係を求めます。実際、この記事は述べます。「天を仰いで深く息をつき」(マルコ7・34)。病気の人への関心と、イエスのこの人への手当ては、神への深い祈りの態度と結ばれています。そして、深い息を表すのに、新約聖書が、まだ欠けているよいものを望むことを表すことばが用いられます(ローマ8・23参照)。ですから、この記事は次のことを示します。病気の人への人間的なかかわりは、イエスを祈りへと導きます。ここでもイエスの御父との独自の関係、すなわち、イエスの独り子としてのあり方が再び現れます。神のいやしと救いのわざは、イエスのうちに、イエスを通して現されます。奇跡の後、群衆が最後に述べた感想が、創世記の冒頭の創造のわざへの賛美を思い起こさせるのは、偶然ではありません。「このかたのなさったことはすべて、すばらしい」(マルコ7・37)。祈りは、天に向けたまなざしをもって、イエスのいやしのわざの中にはっきりと組み込まれています。確かに、耳が聞こえず舌の回らない人をいやした力は、この人に対するあわれみが生み出したものです。しかし、この力は、御父により頼むことに由来します。二つの関係が出会います。人間へのあわれみという人間的な関係は、神との関係に歩み入ることによって、いやしとなるのです。
 ラザロの復活についてのヨハネの記事の中でも、これと同じ動きがさらにはっきりとあかしされます(ヨハネ11・1-44参照)。ここでも、イエスの友とその苦しみとの絆と、イエスが御父との間にもつ子としての関係とが、より合わされます。イエスのラザロの人生との人間的なかかわり方は、特別な性格をもっています。記事の全体を通して、ラザロとその姉妹であるマルタとマリアとの友情が繰り返し語られます。イエス自身もいいます。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」(ヨハネ11・11)。イエスが友に対して心から愛情を抱いていたことは、ラザロの姉妹とユダヤ人たちも強調します(ヨハネ11・3、11・36参照)。このことは、マルタとマリア、またラザロのすべての友人の悲しみを目にして、イエスが深く心を動かされ、墓に近づいたとき(きわめて人間的なしかたで)涙を流されたことにも示されます。「イエスは、彼女(マルタ)が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、いわれた。『どこに葬ったのか』。彼らは、『主よ、来て、ご覧ください』といった。イエスは涙を流された」(ヨハネ11・33-35)。
 このような友愛の絆、ラザロの親族と友人の悲しみを前にしたイエスの共感と興奮は、記事全体を通して、御父との絶えざる深い関係と結びつけられます。イエスは初めからこの出来事を、自分の本性と使命、またご自分が待ち望んでいる、栄光を受けることとの関係の中で解釈します。実際イエスは、ラザロが病気であることを聞いて、それについてこういいます。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」(ヨハネ11・4)。イエスは友が死んだという知らせを聞いて、深い人間的な悲しみも覚えますが、つねに神と、神が自分にゆだねた使命との関係をはっきり述べ続けます。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである」(ヨハネ11・14-15)。イエスが墓の前で御父にはっきりと祈った瞬間は、ラザロとの友愛と、神との子としての関係という二つの音域が混ざり合った、この出来事全体の当然の帰結です。ここでも二つの関係は一つになります。「イエスは天を仰いでいわれた。『父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します』」(ヨハネ11・41)。それはいわば感謝の祭儀です。このことばは、イエスが一瞬たりともラザロが生きることを願う祈りをやめなかったことを示します。この祈りは継続します。そればかりか、祈りは友との絆を強めます。それと同時に、この祈りは、御父のみ心、すなわち御父の愛の計画との一致にとどまるというイエスの決心を堅固にします。御父の愛の計画の中で、ラザロの病気と死は、神の栄光が示される場とみなされるのです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。この物語を読むとき、わたしたちは皆、次のことを悟るよう招かれます。わたしたちは、主に願い求める祈りの中で、自分たちが願うこと、すなわちわたしたちの望みがすぐに実現されると期待してはなりません。むしろわたしたちは、御父のみ心に自分をゆだねなければなりません。そして、あらゆる出来事を、御父の栄光、すなわち御父の愛の計画から解釈しなければなりません。御父の愛の計画は、わたしたちの目から見るとしばしば謎めいたものだからです。だからわたしたちは、祈りの中で、願いと賛美と感謝を一つにしなければなりません。たとえ神がわたしたちの具体的な期待にこたえてくださらないように見えたとしてもです。神の愛はつねにわたしたちに先立ち、わたしたちに同伴します。この神の愛に身をゆだねることが、わたしたちの神との対話の基盤となる態度の一つです。『カトリック教会のカテキズム』は、ラザロの復活の物語におけるイエスの祈りについて次のように解説します。「このように、感謝のことばによって始まるイエスの祈りは、わたしたちにどう祈り求めるべきかを明らかにしてくれます。イエスはたまものが与えられる前に、お与えくださるかた、たまものと一緒にご自身をお与えくださるかたと一体となられるのです。お与えくださるかたのほうが与えられるたまものよりもありがたいのです。そのかたこそが『富』であって、このかたがおられるところには御子の心があり、たまものは『加えて』与えられるのです(マタイ6・21、6・33参照)」(同2604)。たまものが与えられる前に、お与えくださるかたと一体となること。お与えになるかたのほうが与えられるたまものよりもありがたいこと。わたしは、これはとても大切なことだと思います。それゆえ、わたしたちにとっても、わたしたちが願い求めて神がお与えくださるもの以上に、神がわたしたちに与えることのできるもっとも偉大なたまもの、それは、神との友愛、神がともにいてくださること、神の愛です。神こそが、わたしたちがつねに願い求め、守るべき貴い宝です。
 ラザロの墓の入り口から石が取りのけられたときにイエスが唱えた祈りはまた、特別で、思いもかけないことを示します。実際、イエスは、父である神に感謝してから、付け加えていいます。「わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこういうのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」(ヨハネ11・42)。イエスはご自分の祈りをもって、人々を、神とそのみ心を信じ、完全に信頼するように導くことを望みます。そしてイエスはこう示そうと望みます。神はその独り子を遣わされたほどに、人間と世を深く愛されました(ヨハネ3・16参照)。この神はいのちの神です。希望をもたらし、人間的には不可能な状況を変えることのできる神です。それゆえ、信じる者の信頼をこめた祈りは、世において神がともにいてくださること、神が人間を心にかけてくださること、神が救いの計画を実現するために働かれることの、生きたあかしとなります。
 今、わたしたちが考察したイエスの二つの祈り(それは、耳が聞こえず舌の回らない人のいやしと、ラザロの復活に伴うものでした)は、次のことを示します。わたしたちの祈りの中にも、神への愛と隣人への愛の深いつながりが入って来なければなりません。真の神であり真の人であるイエスにおいても、他者、とくに貧しい人、苦しむ人を心にとめ、愛する家族の悲しみに心を動かされたことが、彼を御父へと、すなわち、イエスの全生涯を導いた根本的な関係へと向かわせました。しかし、逆もまた真実です。御父と交わり、御父とたえず対話することが、人間の具体的な状況に独自のしかたで目を向け、神の慰めと愛をもたらすようイエスを促しました。人間との関係がわたしたちを神との関係へと導き、神との関係がわたしたちを新たに隣人へと導くのです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちの祈りは神への門を開きます。神はわたしたちに教えます。つねに自分自身を出なさい。それは、とくに試練のうちにある他の人々に近づき、慰めと希望と光をもたらすことができるようになるためです。主の恵みによって、わたしたちがますます深く祈ることができますように。そして、自分の神との個人的な関係を強めることができますように。わたしたちの近くにいる人が必要とすることに心を開き、多くの兄弟とともに「御子と結ばれた子」であることのすばらしさを感じることができますように。ご清聴ありがとうございます。

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