教皇ベネディクト十六世の2011年12月18日の「お告げの祈り」のことば マリアの処女性

教皇ベネディクト十六世は待降節第4主日の12月18日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリ […]


教皇ベネディクト十六世は待降節第4主日の12月18日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「昨日マドリードで、ただ福音を熱心にあかししたことだけで1936年に殺害されたオブレート会の22人の宣教者と1人の信徒が列福されました。この人々の列福を喜ぶとともに、彼らの犠牲が多くの回心と和解をももたらすよう希望したいと思います。
 激しい熱帯性の暴風雨の被害を受けたフィリピン南部の人々に寄り添うことを約束したいと思います。犠牲者(その大部分は子どもです)と家を失った人、そして多くの行方不明者のために祈ります」。
12月17日(土)にかけてフィリピン南部ミンダナオ島を直撃した台風12号により、18日までに650人余りが死亡しました。
この日教皇は、午前10時にローマのレビッビア刑務所を訪問しました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の待降節の最後の主日である待降節第四主日の典礼は、今年、天使のマリアへのお告げの記事を示します。聖なるおとめが神の知らせを受け、それにこたえたときの驚くべき姿を仰ぎ見ながら、わたしたちの心は真理の光に照らされます。この光はこの神秘からつねに新たに発します。とくにわたしはマリアの処女性、すなわち、マリアがおとめであり続けながらイエスをみごもったことの重要性について簡単に考察したいと思います。
 ナザレでの出来事の背景となっているのは、イザヤの預言です。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7・14)。この古来の約束が、神の子の受肉によって満ちあふれるほどに実現しました。実際、おとめマリアは単にみごもっただけではありません。彼女は、聖霊、すなわち神ご自身のわざによってみごもったのです。マリアの胎内で生き始めた人は、マリアから肉を受けました。しかし、その存在は完全に神に由来しました。聖書の象徴表現を用いるなら、彼は、地から造られた完全な人でしたが、いと高きところ、すなわち天から来られました。それゆえ、マリアがおとめであり続けながら身ごもったことは、イエスを知ることにとって、またわたしたちの信仰にとって本質的です。なぜなら、このことは、それが神からの働きかけだったことをあかしするとともに、何よりも、みごもられたかたがどなたであるかを現すからです。福音書がいうとおりです。「だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1・35)。その意味で、マリアの処女性とイエスの神性は互いを保障し合うのです。
 だから、マリアが発した唯一の問いかけはたいへん重要です。マリアは「戸惑い」をもって天使に問いかけます。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(ルカ1・34)。マリアはその単純さのうちに、もっとも知恵あるかたです。マリアは神の力を疑いません。むしろ、神のみ心をもっとよく理解したいと望みます。それは、このみ心に完全に一致するためです。マリアはこの神秘に限りなく圧倒されます。しかし彼女は、中心に割り当てられた自分の位置に完全に座を占めます。マリアの心と思いは完全に謙遜です。そして、マリアの特別なへりくだりのゆえに、神はご自分の計画を実現するために、この少女が「はい」というのを期待します。神はマリアの尊厳と自由を尊重します。マリアの「はい」は母性と処女性をともに意味します。そしてマリアは、自分のすべてが神の栄光となり、自分から生まれる御子がすべての人のための恵みのたまものとなることを望みます。
 親愛なる友人の皆様。マリアの処女性は唯一、かけがえのないものです。しかし、その霊的な意味はすべてのキリスト信者にかかわります。マリアの処女性は、本質的に信仰と結ばれています。実際、神の愛を深く信頼する人は、聖霊のわざを通して、自分のうちにイエスとその神的ないのちを受け入れます。これが降誕祭の神秘です。皆様が深い喜びをもってこの神秘を体験することができますように。

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