教皇ベネディクト十六世の296回目の一般謁見演説 降誕祭の神秘

12月21日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の296回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、間近に迫った「降誕祭の神秘」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 主の降誕を間近にしながら、皆様を一般謁見にお迎えできたことをうれしく思います。この数日間、すべての人があいさつし合います。「クリスマスおめでとうございます。よい降誕祭をお過ごしください」。わたしたちは、現代社会においても、このあいさつがその深い宗教的意味を失わず、降誕祭が、心をときめかせる外的な側面に飲み込まれないようにしたいと思います。確かに、外的なしるしもすばらしく、重要です。ただしそれは、わたしたちの気を散らすことなく、むしろ降誕祭の真の意味を体験する助けとなる限りにおいてです。すなわち、降誕祭の聖なるキリスト教的な意味が、わたしたちの喜びを、うわべだけのものでなく、深いものとしてくれる限りにおいてです。
 教会は、降誕祭の典礼によって、わたしたちを偉大な受肉の神秘へと導き入れます。実際、降誕祭は単なるイエスの誕生の記念ではありません。確かにそれはイエスの誕生の記念でもありますが、それ以上のものです。それは人間の歴史をかつて特徴づけ、今も特徴づけ続ける神秘を記念します。すなわち、神ご自身が来て、わたしたちの間に宿られたという神秘です(ヨハネ1・14参照)。神ご自身がわたしたちの一人となられたという神秘です。この神秘はわたしたちの信仰と生活にかかわります。わたしたちはこの神秘を、典礼の中で、とくにミサの中で具体的な形で体験します。ある人は問いかけるかもしれません。これほど遠い昔の出来事を、どのようにして今、体験するのでしょうか。どうすれば、二千年以上前に起きた、神の子の誕生に実り豊かなしかたであずかることができるでしょうか。主の降誕の夜半のミサの中で、わたしたちは次の答唱詩編のことばを繰り返して唱えます。「今日、わたしたちのために救い主が生まれた」。この「今日」という時を示す副詞は、降誕節のすべての祭儀の中で繰り返して用いられます。そして、イエスが生まれた出来事と、神の子の受肉がもたらした救いを表します。典礼の中で、この出来事は空間と時間の限界を乗り越え、現実に現存するものとなります。降誕の出来事の効果は、日と年と世紀が流れても継続します。典礼は、イエスが「今日」生まれたと示すことによって、無意味なことばを用いているのではありません。むしろ典礼は次のことを強調します。この誕生は歴史全体を包み、その中に浸透します。それは今の現実であり続けます。わたしたちは典礼の中でこの現実に触れることができます。降誕祭は、わたしたち信者に次のことをあらためて確信させます。神は本当にわたしたちとともにおられます。神は単に遠く離れてではなく、「肉」であり続けます。神は御父とともにおられながら、わたしたちの近くにおられます。神は、ベツレヘムで生まれたこの幼子のうちに、人間の近くに来てくださいました。わたしたちは今、終わることのない「今日」、この神と出会うことができます。
 わたしはこの点を強調したいと思います。なぜなら、「感覚可能なもの」、「経験的に検証可能なもの」を重視する現代人は、目を開いて、神の世界に歩み入るのがますますむずかしくなっているからです。確かに人類のあがないは、歴史のある特定可能な時に、すなわち、ナザレのイエスの出来事によって行われました。しかし、イエスは神の子であり、神ご自身です。神は人間に語りかけ、奇跡を示し、救いの歴史全体を通して人間を導いただけではありません。神は人間となり、人間であり続けます。永遠のかたが、時間と空間に縛られた領域に入って来られました。それは、「今日」、神と出会うことを可能にするためです。降誕祭の式文は、キリストが行った救いの出来事がつねに現実のものであり、すべての人にかかわることを理解するための助けとなります。典礼の中で「今日、わたしたちのために救い主が生まれた」ということばを聞き、また唱えるとき、わたしたちは空虚な慣用句を用いているのではありません。むしろわたしたちはこういおうとしているのです。神は「今日」、今この時、わたしたちに、わたしに、わたしたち一人ひとりに、神を知り、神を受け入れる可能性を与えてくださいます。ベツレヘムの羊飼いたちに起きたのと同じように。こうして神は、わたしたちの人生の中にも生まれ、ご自分の恵みによって、すなわちご自分の現存をもって、それを照らし、造り変えてくださるのです。
 降誕祭は、イエスがおとめマリアから肉をとってお生まれになったことを記念します。多くの典礼の式文は、わたしたちにさまざまな出来事を再体験させてくれます。それゆえ降誕祭は、わたしたちにとって意味のある出来事です。教皇大聖レオ(400頃-461年、教皇在位440-没年)は、降誕祭の深い意味を示しながら、自分の信者を次のように招きます。「親愛なる諸子よ、主において喜ぼう。霊的楽しみをもって喜ぼう。われわれのために新しい救いの日、古くから準備された日、永遠の幸福の日が明けそめたからである。事実、また一年が巡りきて、初めから約束され、ついに与えられ、終わりなく続くわれわれの救いの神秘が再び祝われることとなった」(『説教22――降誕の主日の説教』:Sermo 22, in Nativitate Domini 2, 1, PL 54, 193〔熊谷賢二訳、『キリストの神秘――説教全集――』創文社、1965/1993年、149頁〕)。大聖レオは降誕の主日の別の説教の中でもこう述べます。「今日、世界の創造主が処女の胎内から出て来られた。存在するすべてのものを造られた主が、自分の創造したものの子どもとなられた。今日、神のみことばが肉をまとってお現れになった。そして、それまでは決して人の目に触れなかった神のみことばは、今や手に触れることのできるものとなられた。今日、羊飼いたちは、救い主がわれわれの肉体と霊魂の実体をまとってお生まれになったことを天使たちから学んだ」(『説教26――降誕の主日の説教』:Sermo 26, In Nativitate Domini 6, 1, PL 54, 213〔前掲熊谷賢二訳、366-367頁〕)。 
 わたしが簡単に強調したい二番目の点はこれです。わたしたちはベツレヘムの出来事を過越の神秘に照らして考察しなければなりません。降誕と過越は、ともにキリストの唯一のあがないのわざの一部だからです。すでにイエスの受肉と誕生は、イエスの死と復活に目を向けるようにわたしたちを招きます。降誕祭と過越祭はともにあがないの祭日です。過越祭は、あがないを、罪と死に対する勝利として記念します。過越祭は、人であり神であるかたの栄光が、日の光のように輝く、最後の時を示します。降誕祭は、あがないを、神が歴史の中に入り、人となり、人間を神へと導くこととして記念します。降誕祭は、いわば、わたしたちが夜明けの光を見る最初の時です。しかし、夜明けが先に来て、日の光を予告するのと同じように、降誕祭もすでに十字架と復活の栄光を告げます。少なくとも世界の一部の地域において、この二つの大きな祭日が置かれた一年の二つの時期が、今述べたことを理解する助けとなるかもしれません。実際、過越祭は春の初めに行われます。この頃、太陽は濃く冷たい霧に打ち勝ち、地の面を新たにします。これに対して、降誕祭は冬の初めに行われます。この頃、日の光と温かさは、寒さに包まれた自然を目覚めさせることができません。しかし、この寒さの覆いの下でも、いのちは脈打ち、日と温かさの勝利が再び始まります。
 教父はつねに、キリストの誕生を、あがないのわざ全体に照らして解釈しました。あがないのわざは、過越の神秘において頂点に達します。神の子の受肉は、救いの始まり、また条件としてのみ現れたのではありません。むしろそれは、わたしたちの救いの神秘の現れそのものです。神は、死と罪に打ち勝つために、人となり、わたしたちと同じように幼子として生まれ、わたしたちの肉をとりました。聖バシレイオス(330頃-379年)の二つの意味深いテキストがこのことをよく示してくれます。聖バシレイオスは信者に向けていいます。「神は、まさに肉のうちに隠れた死を滅ぼすために、肉をとられた。一度飲んだ解毒剤は、毒の効果を打ち消す。また、家の中の闇は日の光に照らされて消える。それと同じように、人間本性を支配していた死は、神の現存によって滅ぼされた。また、水の中の氷は、夜が続き、闇が支配している間は固いままだが、太陽の熱によってすぐに解ける。それと同じように、キリストの到来まで支配していた死は、救い主である神が現れ、正義の太陽が昇るやいなや、いのちと共存することができず、『勝利にのみ込まれた』(一コリント15・54)」(『キリストの誕生についての説教』:In sanctam Christi generationem 2, PG 31, 1461)。聖バシレイオスは別の箇所で、次のように招きます。「世の救いを、人間の誕生を祝おうではないか。今日、アダムの罪はゆるされた。もはや『塵にすぎないお前は塵に返る』(創世記3・19)という必要はない。むしろあなたは、天から来られたかたと結ばれて、天に入ることを許されるであろう」(同:ibid. 6, PG 31, 1473)。
 わたしたちは降誕祭に、神の優しさと愛に出会います。神はわたしたちの限界と弱さと罪に身をかがめ、わたしたちのところにまで身を低くして来られるからです。聖パウロはいいます。イエス・キリストは「神の身分でありながら・・・・自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2・6-7)。ベツレヘムの馬小屋を仰ぎ見ようではありませんか。神は、飼い葉桶に寝かされるまでに、身を低くされました。それはすでに受難の時のへりくだりの前奏です。神と人間の愛の物語の頂点は、ベツレヘムの飼い葉桶と、エルサレムの聖墳墓を通るのです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。近づきつつある降誕祭を喜びをもって体験しようではありませんか。この驚くべき出来事を体験しようではありませんか。神の子は「今日」もお生まれになります。神は本当にわたしたち一人ひとりに近づき、わたしたちと出会おうと望まれます。わたしたちをご自身へと導こうと望まれます。神はまことの光です。この光は、わたしたちの生活と人類を覆う闇を薄め、打ち消します。神の深い愛の歩みを仰ぎ見ながら、主の降誕を体験しようではありませんか。神は、御子の受肉、受難、死と復活の神秘を通して、わたしたちをご自身のところまで高く上げてくださいました。それは、聖アウグスティヌス(354-430年)がいうとおり、「(キリスト)において独り子の神性がわたしたちの死すべき性格にあずかり、それによって、わたしたちがキリストの不死性にあずかるためです」(『書簡187』:Epistola 187, 6, 20, PL 33, 839-840)。何よりもこの神秘を感謝の祭儀の中で仰ぎ見、体験しようではありませんか。聖体は聖なる降誕の中心だからです。聖体のうちに、天から降ったまことのパンであり、わたしたちの救いのために犠牲となられたまことの小羊であるイエスが、現実に現存されるからです。
 どうか皆様とご家族が、真にキリスト教的な降誕祭を祝うことができますように。そして、この季節のあいさつが、神が近くに来てくださり、わたしたちと人生の歩みをともにすることを望んでおられることを知った喜びを表しますように。ご清聴ありがとうございます。

略号
PG Patrologia Graeca
PL Patrologia Latina

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