教皇ベネディクト十六世の297回目の一般謁見演説 ナザレの聖家族の生活における祈りの重要性

12月28日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の297回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2011年5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第22回として、「ナザレの聖家族の生活における祈りの重要性」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の謁見は、主の誕生に対する深い喜びに満たされた、ご降誕の雰囲気の中で行われています。わたしたちは降誕の神秘を祝ったばかりです。降誕の神秘の響きは、この数日間のすべての典礼の中に広がっています。降誕の神秘は、光の神秘です。すべての時代の人は信仰と祈りによってこの光をあらためて体験することができます。わたしたちはまさに祈りを通じて、親しく、また深く神に近づくことができるようになるのです。それゆえ今日は、最近の講話の中で考察している祈りというテーマを念頭に置きながら、祈りがナザレの聖家族の生活の中にどのように位置づけられていたかを考察することへと皆様を招きたいと思います。実際、ナザレの家は祈りの学びやです。人はそこで、マリアとヨセフとイエスの模範に従いながら、神の子の現れの深い意味を聞き、黙想し、悟ることを学びます。
 神のしもべパウロ六世がナザレ訪問の際に行った講話は、今でも記念すべきものです。教皇はいいました。わたしたちは聖家族の学びやで、「福音の教えに従い、キリストの弟子となりたいなら、霊的な規律を守らなければならないことを悟ります」。教皇は続けていいます。「聖家族の学びやは、第一に、沈黙を教えます。ああ、沈黙の評価がわたしたちの間で復興しますように。沈黙は霊魂にとってすばらしい、不可欠の雰囲気です。これに対して、わたしたちは、現代のあわただしく混乱した生活の中で、多くのざわめきと騒々しい物音や声によって耳が聞こえなくなっています。ああ、ナザレの沈黙よ。わたしたちに教えてください。よい考えを堅固に持ち続けることを。内的生活に注意を向けることを。神からのひそかな霊感とまことの教師たちの勧告に進んでよく耳を傾けることを」(「ナザレでの講話(1964年1月5日)」)。
 わたしたちはイエスの幼年期に関する福音書の記事で述べられた聖家族から、祈りについて、神との関係についていくつかのヒントを得ることができます。イエスの神殿への奉献の話から出発したいと思います。聖ルカは語ります。「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき」、マリアとヨセフは「その子を主にささげるため、エルサレムに連れて行った」(ルカ2・22)。律法を守るすべてのユダヤ人の家族と同じように、イエスの両親は初めて生まれた子を神に奉献し、いけにえをささげるために、神殿に行きました。おきてに対する忠実に促されて、二人は生まれて40日を過ぎたばかりのイエスとともに、ベツレヘムを発ち、エルサレムに向かいました。二人は、当歳の小羊の代わりに、質素な家族のささげものである、鳩一つがいをささげました。聖家族の巡礼は、信仰に基づいて、祈りの象徴であるささげものをささげ、主と出会うための巡礼でした。この主をマリアとヨセフはすでに御子イエスのうちに見いだしていました。
 マリアはキリストの観想の比類のない模範です。御子のみ顔はマリアに特別なかたちで属しています。なぜなら、御子はマリアの胎内で形づくられ、人間として似たところもマリアから受け取ったからです。マリアほど熱心にイエスの観想に身をささげたかたはいません。マリアの心のまなざしは、すでにお告げのときからイエスだけに向いていました。お告げのとき、マリアは聖霊のわざによってイエスをみごもったからです。その後の誕生の日に至るまでの数か月間、マリアはイエスがともにいることに少しずつ気づいていきました。誕生のとき、マリアは御子を布にくるんで飼い葉桶に寝かせ、母の優しさをもって御子のみ顔に目を注ぐことができました。マリアの思いと心に刻まれたイエスの記憶は、マリアの生涯のあらゆる瞬間を特徴づけました。聖ルカはいいます。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2・19)。聖ルカは、受肉の神秘に対するマリアの態度をこのようなしかたで述べたのです。出来事をすべて心に納めて、思い巡らす態度は、マリアの全生涯に及びました。ルカ福音書記者は、マリアの心、信仰(ルカ1・45参照)、希望と従順(同1・38参照)、何よりもその内面性と祈り(同1・46-56参照)、キリストとの自由な一致(同1・55参照)をわたしたちに知らせてくれます。これらすべてのことは、聖霊のたまものに由来します。聖霊は、後にキリストの約束に従って使徒たちの上に降ったのと同じように(使徒言行録1・8参照)、マリアの上に降りました(ルカ1・35参照)。聖ルカがわたしたちに示す、このようなマリアの姿は、聖母をあらゆる信じる者の模範として提示します。信じる者は、イエスのことばと行いを保ち、吟味します。この吟味は、イエスを知ることによりつねに深まります。福者教皇ヨハネ・パウロ二世に従って(使徒的書簡『おとめマリアのロザリオ』参照)、わたしたちはこういうことができます。ロザリオの祈りはマリアを模範としています。なぜなら、ロザリオは、主の母との霊的な一致のうちにキリストの神秘を観想するものだからです。神のまなざしを生きるマリアの力は、いわば伝染します。このことを最初に体験したのは聖ヨセフです。自分の婚約者に対する謙遜で真実な愛、自分の人生をマリアの人生と一致させようとする決断から、すでに「正しい人」(マタイ1・19)であったヨセフも、神との特別に親しい関係へと引き寄せ、導き入れられました。実際ヨセフは、マリアと、そして何よりもイエスとともに、神との新たな関係をもち始めました。彼は神を自分の人生に受け入れ、神の救いの計画に歩み入り、み心を果たしたからです。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」(マタイ1・20)という天使の指示に信頼をもって従ったヨセフは、マリアを妻として受け入れ、マリアと人生を共有しました。ヨセフは真の意味で自分のすべてをマリアとイエスにささげました。このことが、与えられた召命へのこたえを完成するよう彼を導いたのです。ご存じのように、福音書はヨセフのことばをまったく記していません。ヨセフのことばは、沈黙のうちに、しかし忠実に、絶えることなく、忍耐強く、ともにいることでした。わたしたちは想像することができます。ヨセフも、妻マリアと同じように、またマリアと深く協調しつつ、イエスの幼年・青年時代を過ごしました。そして、いわば家族におけるイエスの現存を味わいました。ヨセフは自分の父としての役割をあらゆる点で完全に果たしました。ヨセフがマリアとともにイエスに祈りを教えたことは確実です。とくにヨセフはイエスを、会堂(シナゴーグ)の安息日の典礼や、イスラエル民族の大きな祭りのためにエルサレムに連れて行きました。ヨセフはユダヤ教の伝統に従い、毎日の(朝と晩と食事のときの)、また主要なユダヤ教の祭日の家庭の祈りを司式したに違いありません。こうしてイエスは、ナザレで過ごした日々のリズムを通して、質素な家とヨセフの仕事場で、祈りかつ働き、家族が必要とするパンを得るための労働をも神にささげることを学びました。
 最後に、ナザレの聖家族が祈りの行事のためにともに集まる姿を示す、もう一つの話があります。たった今朗読されたとおり、イエスは十二歳になったとき、両親とともにエルサレムの神殿に行きました。聖ルカが強調するように、この話は巡礼という状況に位置づけられます。「さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った」(ルカ2・41-42)。巡礼は一つの宗教表現です。この宗教表現は、祈りによって深まるとともに、祈りを深めます。ここで語られるのは過越祭の巡礼です。そして福音書記者は、聖なる都の典礼にあずかるために、イエスの家族が毎年この巡礼を行っていたことに気づかせてくれます。ユダヤ人の家族は、キリスト教徒の家族と同じように、親しい家族とともに祈るとともに、共同体ともともに祈ります。自分たちが旅する神の民の一員であることを感謝するためです。そして、巡礼はまさに神の民が旅していることを表します。過越祭はこれらすべてのことの中心また頂点であり、家庭的な側面と、儀礼的・公的礼拝としての側面の両方を含みます。
 十二歳のイエスの話の中では、イエスの最初のことばも記録されています。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(ルカ2・49)。両親は三日間探した後に、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしているのを見つけました(同2・46参照)。なぜこのようなことをしたのかと問うた父と母に対して、イエスはこたえていいます。わたしは、御子がすべきこと、すなわち、御父のもとにいるということをしただけです。こうしてイエスは、まことの父とはだれか、本当の家とは何か、また、自分は変わったことや不従順なことをしたのではないことを示します。イエスは御子がいるべきところ、すなわち御父のもとにとどまりました。そして、自分の父がだれであるかを強調したのです。それゆえ、「父」ということばが、この答えのいわんとすることの中心です。それはキリストの神秘のすべてを現します。それゆえ、このことばは神秘を開示します。それは、キリストの神秘へと通じる鍵です。キリストは子だからです。それはわたしたちキリスト者の神秘へと通じる鍵でもあります。キリスト者は、御子と結ばれた子らだからです。同時にイエスは、祈りのうちに御父とともにいることによって、子であるとはどういうことかをわたしたちに教えます。キリストの神秘、キリスト者であることの神秘は、祈りと深く結ばれており、祈りを基盤としています。イエスはあるとき弟子たちに祈ることを教えていわれました。祈るときには、「父よ」といいなさい。いうまでもなく、ことばでそういうだけではなく、あなたがたの生涯をもってそういいなさい。あなたがたの生涯をもって「父よ」ということをますます学びなさい。そうすれば、あなたがたは、御子と結ばれたまことの子ら、まことのキリスト者となるであろう。
 イエスがナザレの家庭生活にまだ完全に結ばれていた、このときにおいて、次のことに注目することが重要です。すなわち、イエスの口から「父」ということばを聞いたとき、マリアとヨセフの心が抱いたに違いない反応です。イエスは、御父とはだれかを現し、強調します。イエスは、独り子としての自覚をもってこのことばを語ります。独り子は、まさに独り子であるがゆえに、三日間、神殿にとどまろうとしました。神殿は「父の家」だからです。わたしたちは、このときから、聖家族の生活がいっそう祈りに満たされたと想像することができます。なぜなら、少年としての――そして後に青年、若者としての――イエスの心から、父である神との関係の深い意味が、マリアとヨセフの心に広がり、反映し続けたに違いないからです。この話は、御父とともにいるまことの状況、雰囲気をわたしたちに示します。ですから、ナザレの家族は教会の最初の模範です。教会の中では、すべての人が、イエスの現存を囲んで、そしてイエスの仲介を通じて、父である神との子としての関係を生きるからです。この関係はまた、人と人との間の人間的な関係をも造り変えます。
 親愛なる友人の皆様。福音に照らされて、わたしが簡単に述べたこれらのさまざまな点のゆえに、聖家族は、ともに祈るよう招かれた家庭教会のかたどり(イコン)です。家庭は家庭教会であり、祈りの最初の学びやとならなければなりません。家庭の中で、子どもは幼いときから、両親の教えと模範のおかげで、神とはいかなるかたかを感じることを学ぶことができます。神の現存によって特徴づけられた環境の中で過ごすことができます。真のキリスト教的教育には、祈りの体験が欠かせません。家庭の中で祈ることを学ばなければ、後からこの空白を埋めることは困難です。それゆえ、皆様にお願いしたいと思います。ナザレの聖家族の学びやで、家族でともに祈ることのすばらしさを再発見してください。そうすれば、本当に心と思いを一つにした、まことの家族となることができるでしょう。ご清聴ありがとうございます。

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