教皇ベネディクト十六世の298回目の一般謁見演説 降誕節と、神が人となった神秘

1月4日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の298回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「降誕節と、神が人となった神秘」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  新年の最初の一般謁見に皆様をお迎えできたことをうれしく思います。皆様とご家族に心から愛情をこめてごあいさつ申し上げます。御子キリストの誕生によって全世界を喜びで満たしてくださった神が、ご自身の平和のうちに仕事と日々を整えてくださいますように。わたしたちは降誕節を過ごしています。降誕節は12月24日の夜半に始まり、主の洗礼の祝日をもって終わります。降誕節の日数は短いものですが、それは祭儀と神秘で満たされています。降誕節は主の二つの大祭日を中心としています。すなわち、主の降誕と主の公現です。この二つの祭日の名称そのものがそれぞれの特徴を示します。主の降誕は、イエスがベツレヘムに生まれたという歴史的な事実を記念します。これに対して、東方教会の祭日として生まれた、主の公現は、出来事とともに、何よりも神秘の次元を示します。すなわち、神がキリストの人間本性のうちにご自身を現されたということです。これがギリシア語の「エピファニア(公現)」ということばの意味です。「エピファニア」とは、目に見えるようになることです。こうした観点から、主の公現は、主の現れを表すさまざまな出来事を思い起こさせます。すなわち、何よりも、イエスのうちに、人々が待ち望んでいたメシアを認めた、占星術の学者たちの礼拝です。また、ヨルダン川で行われ、神の現れ(天から聞こえた神の声)を伴った主の洗礼と、キリストの行った最初の「しるし」であるカナの婚礼です。聖務日課のもっとも美しい答唱句は、これら三つの出来事を、キリストと教会の婚姻というテーマのもとに結びつけます。「今日、教会は天の花婿と結びつけられた。キリストはヨルダン川でご自身に属する人々の罪を洗った。占星術の学者たちはささげものを携えて王の婚礼に急いで赴いた。そして、客は水がぶどう酒に変わったのを見て喜んだ」(朝の祈りの答唱句)。わたしたちはいわばこういうことができます。主の降誕の祭日で強調されるのは、人間の状態にへりくだったベツレヘムの幼子のうちに、神が隠れておられることです。これに対して、主の公現の祭日で強調されるのは、これと同じ人間性を通じて、神がご自身を示し、現されたことです。
  わたしはこの講話の中で、主の降誕の祭日に固有ないくつかのテーマを簡単に述べたいと思います。それは、わたしたち一人ひとりがこの神秘の汲み尽くすことのできない泉から水を飲み、いのちの実りをもたらすことができるためです。
  まずわたしたちは問いかけます。神が幼子となり、人となるという特別なわざに対する最初の反応はどのようなものでしょうか。わたしは、それは喜び以外のものでありえないと思います。主の降誕の夜半のミサは次のことばで始まります。「わたしたちは皆、主にあって喜ぼうではないか。世に救い主が生まれた」。そして、わたしたちはたった今、羊飼いたちに対する天使のことばを聞きました。「わたしは・・・・大きな喜びを告げる」(ルカ2・10)。喜びは、福音を開始するテーマであり、福音を締めくくるテーマでもあります。復活したイエスが使徒たちをとがめたのは、彼らが悲しんでいたからです(ルカ24・17参照)。悲しむことは、イエスが永遠に人間であり続けることとあいいれません。しかし、もう一歩、歩みを進めたいと思います。この喜びはどこから生まれるのでしょうか。わたしはこういいたいと思います。神がわたしたちに近づいてくださること、神がわたしたちのことを思ってくださること、神が歴史の中で働いてくださること――このことを目の当たりにした心の驚きから、喜びは生まれます。それゆえそれは、へりくだった幼子のみ顔を仰ぎ見ることから生まれる喜びです。なぜなら、わたしたちは、この幼子のみ顔が、わたしたちのために、わたしたちとともに、永遠に人間性のうちにおられる神のみ顔であることを知っているからです。主の降誕は喜びです。なぜなら、わたしたちは見て、最後に確信するからです。神は人間にとっていつくしみであり、いのちであり、真理であることを。神が、人間をご自身のところにまで高く上げるために、人間へとへりくだられたことを。神が、わたしたちが見て、触れることができるほど近くに来られたことを。教会はこの言い表しがたい神秘を観想します。そのため、降誕節の典礼の式文は驚きと喜びで満たされます。降誕の賛歌は皆、この喜びを表現します。主の降誕は、天と地が一致する地点です。この数日間、わたしたちが耳にするさまざまなことばは、この出来事の偉大さを強調します。遠くにおられたかた(神は遠く離れたところにおられるように思われます)が近くに来られました。大聖レオ(400頃-461年、教皇在位440-没年)は大声で叫んでいいます。「主が・・・・把握できない高さをもっておられながら把握されることを許し、時間を超えたおかたでありながら時間のうちに生き始め、万物の主でありながらご自分の尊厳と威光を覆ってしもべの姿をとられた」(『主の降誕の祝日の説教2』:Sermo 2 in Nativitate Domini 2, 1〔熊谷賢二訳、『キリストの神秘――説教全集――』創文社、1965/1993年、150頁〕)。あらゆる幼子が必要とするすべてのものを必要とする、この幼子こそが、神のあり方です。永遠、力、聖性、いのち、喜びは、わたしたちのあり方である、弱さ、罪、苦しみ、死と結びつけられるのです。
  降誕についての神学と霊性は、このことを述べるために、「驚くべき交換(admirabile commercium)」ということばを用います。すなわち、神性と人性の驚くべき交換です。アレクサンドレイアの聖アタナシオス(295頃-373年)はいいます。「実に、このかた(言〔ロゴス〕)が人となられたのは、われわれを神とするためである」(『言(ロゴス)の受肉』:De incarnationeVerbi 54, 3, PG 25, 192〔小高毅訳、『中世思想原典集成2 盛期ギリシア教父』平凡社、1992年、134頁〕)。しかし、何よりも大聖レオとその有名な『主の降誕の祝日の説教』によって、この現実は深く黙想されました。実際、教皇聖レオはいいます。「事実、人間の創造主が人間となられたのは、神のあわれみの名状しがたいへりくだりからであって、もしわれわれがこのへりくだりに頼るならば、われわれは、われわれの人間性を受け取られたおかたを礼拝するであろう」(『主の降誕の祝日の説教8』:Sermo 8 in Nativitate Domini, CCL 138, 139〔前掲熊谷賢二訳、459頁〕)。この驚くべき交換の最初のわざは、キリストの人間性そのもののうちに行われました。みことばはわたしたちの人間性を取り、代わりに、人間本性は神の尊厳にまで上げられたのです。この交換の第二のわざは、わたしたちがみことばの神的本性に現実に深くあずかることです。聖パウロはいいます。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者をあがない出して、わたしたちを神の子となさるためでした」(ガラテヤ4・4-5)。それゆえ、主の降誕の祭日において、神は、ご自身が生まれるというわざにあずかるほど、人間に近づいて来られます。それは、人間のもっとも深い尊厳を人間に示すためです。すなわち、神の子であるという尊厳です。こうして、人類が楽園で夢見始めたこと(神のような者になりたいという望み)は、予期せぬしかたで実現しました。それは人間の偉大さによってではなく、神のへりくだりによってです。人間は自らを神とすることができません。むしろ、神が降って来られます。そして、このへりくだりのうちにわたしたちの間に入って来られ、わたしたちを神の存在のまことの偉大さへと高く上げてくださるのです。このことに関連して、第二バチカン公会議は述べます。「実際、人間の神秘は肉となられたみことばの神秘においてでなければ本当に明らかにはならない」(『現代世界憲章』22)。みことばの神秘においてでなければ、この人間という被造物の意味とは何かという、人間の神秘は謎であり続けます。わたしたちは、神がわたしたちとともにおられることを見いだすことによって初めて、わたしたちの存在にとっての光を見いだすことができます。人間であることの幸福を見いだし、信頼と喜びをもって生きることができるのです。ところで、この驚くべき交換はどこに現実に存在し、わたしたちの人生の中で働き、わたしたちの人生をまことの神の子としての人生としてくれるのでしょうか。それがもっとも具体的なものとなるのは、聖体においてです。わたしたちは、ミサにあずかるとき、わたしたちのものを神にささげます。すなわち、大地の実りであるパンとぶどう酒です。それは、神がそれを受け入れ、造り変えることによって、わたしたちにご自身を与え、わたしたちの糧としてくださるためです。こうしてわたしたちは、神の御からだと御血をいただくことによって、神のいのちにあずかります。
  最後に、主の降誕のもう一つの側面を考察したいと思います。イエスが生まれた夜、主の天使が羊飼いたちに現れたとき、福音書記者は注記していいます。「主の栄光が周りを照らした」(ルカ2・9)。ヨハネによる福音書の序文は、肉となったみことばは、世に来たまことの光であり、この光はすべての人を照らすことができると語ります(ヨハネ1・9参照)。主の降誕の典礼は光に満ちています。キリストの到来は、世の闇を打ち払います。聖なる夜を天の輝きで満たします。人々の顔を父である神の輝きで照らします。それは現代においても同じです。わたしたちはキリストの光に包まれながら、主の降誕の典礼に心をこめてあずかり、み顔の光を示してくださった神によって思いと心を照らしていただくよう招かれます。主の降誕の祭日の第一の叙唱は叫んでいいます。「人となられたみことばの神秘によって、わたしたちの心の目にあなたの栄光の光が注がれ、見えるものとなられた神を認めることによって、見えないものへの愛に強く引かれます」。神は、歴史の中でさまざまな使者としるしを通して語り、わざを行われた後に、神の受肉の神秘によって「現れました」。神はご自分の目に見えない光から出て、世を照らされたのです。
  わたしたちが間もなく祝う、1月6日の主の公現の祭日に、教会は預言者イザヤのきわめて意味深い箇所を示します。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」(イザヤ60・1-3)。これは、キリストの共同体である教会に向けられた招きです。しかしそれはまた、わたしたち一人ひとりに向けられた招きでもあります。世に福音の新たな光をあかしし、もたらす使命と責任をますますはっきりと自覚しなさい。わたしたちは第二バチカン公会議の『教会憲章』の冒頭に次のことばを見いだします。「キリストは諸民族の光であるから、聖霊において参集したこの聖なる教会会議は、すべての造られたものに福音を告げることによって、教会の面上に輝くキリストの光をもってすべての人を照らすことを切に望む」(同1)。福音の光を隠してはならず、燭台の上に置かなければなりません。教会は光ではなく、むしろキリストの光を受けるものです。教会は、この光を迎え入れて、照らされ、その輝きを余すところなく広めます。わたしたちはこれを個人の生活の中でも行わなければなりません。もう一度、聖なる夜について述べた大聖レオのことばを引用します。「キリスト信者よ、あなたの身分をわきまえよ。あなたは『神の本質にあずかる』者となったのだから、卑しい振る舞いにより、昔の卑賤な姿に戻ってはならない。あなたの頭(かしら)がだれでありあなたがだれのからだの肢体であるかを忘れてはならない。神があなたを『闇の権威から救い出し、神の光と神の国に移された』ことを思い起こせ」(『主の降誕の祝日の説教1』:Sermo 1 in Nativitate Domini 3, 2, CCL 138, 88〔前掲熊谷賢二訳、47頁〕)。
  親愛なる兄弟姉妹の皆様。降誕祭は、立ち止まって、あの幼子を、へりくだりと貧しさのうちに人となられた神の神秘を仰ぎ見ることです。しかし降誕祭は何よりも、幼子である主キリストを自分自身のうちにあらためて受け入れることです。それは、キリストご自身の生活を生き、キリストの心と思いとわざを自分の心と思いとわざにするためです。それゆえ、降誕祭は、ご降誕がわたしたちの生活全体にもたらした喜びと新しさと光を現すことです。それは、わたしたちも、他の人々に神の喜びとまことの新しさと光をもたらす者となるためです。あらためて皆様が、神の現存によって祝福された降誕祭を過ごされますようお祈り申し上げます。

略号
CCL  Corpus Christianorum Series Latina
PG  Patrologia Graeca

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