教皇ベネディクト十六世の299回目の一般謁見演説 最後の晩餐におけるイエスの祈り

1月11日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の299回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2011年5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第23回として、「最後の晩餐におけるイエスの祈り」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 福音書に示された、イエスの祈りについて考察する歩みを続けています。今日は最後の晩餐におけるイエスの祈りという、特別に荘厳なときについて黙想したいと思います。
 イエスが友に別れを告げる晩餐の、感動的な時間的背景は、イエスの死の切迫です。イエスはすでにそれを間近に感じています。イエスは長時間にわたってご自分の受難について語り始め、弟子たちをもますますこの計画に参加させようと努めました。マルコによる福音書は述べます。エルサレムへの旅に出発するときから、エルサレムから遠く離れたフィリポ・カイサリア地方の村々で、イエスは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」(マルコ8・31)。さらに、弟子に別れを告げる準備をしておられた日に、民の生活は近づきつつある過越祭によって特徴づけられていました。過越祭はイスラエルがエジプトから解放されたことを記念する祭です。過越祭を祝う家庭は、過去に体験し、現在と未来に向けて新たに待望するこの解放を再体験したのです。最後の晩餐はこのような状況の中で行われました。しかしそれは根本的に新しい要素を伴いました。イエスは完全な自覚をもって、ご自分の受難と死と復活に目を向けます。イエスは最後の晩餐を弟子たちとともに行おうと望みました。しかし、この晩餐は、他の晩餐とまったく異なる、特別な性格をもっていました。それはイエスご自身の晩餐です。イエスはこの晩餐の中でまったく新しいものを、すなわちご自身を与えます。こうしてイエスはご自身の過越を祝い、ご自分の十字架と復活を先取ります。
 この新しさは、ヨハネによる福音書の中で、最後の晩餐の日付によって強調されます。ヨハネによる福音書は最後の晩餐を過越の食事として述べません。なぜなら、イエスはある新しいことを開始しようとするからです。すなわち、ご自分の過越を祝おうとされるからです。もちろんこの過越は、出エジプトの出来事と結びついています。ヨハネにとって、イエスは、まさにエルサレム神殿で過越の小羊が屠(ほふ)られるときに、十字架上で死ぬのです。
 それでは、最後の晩餐の中核は何でしょうか。パンを裂き、ご自分の弟子にそれを配り、ぶどう酒の入った杯を分かち合うという行為です。それは、この行為に伴うことばとともに、それを行うための祈りの状況の中で行われました。最後の晩餐は、聖体の制定です。それはイエスと教会の偉大な祈りです。しかし、このことが行われたときをもうすこし詳しく見てみたいと思います。
 まず、聖体の制定に関する新約の伝承(一コリント11・23-25、ルカ22・14―20、マルコ14・22-25、マタイ26・26-29参照)は、パンとぶどう酒に対するイエスのわざとことばを導入する祈りを示す際に、二つの並行し、相補い合うことばを用います。パウロとルカは「エウカリスティア(感謝)」について語ります。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて」(ルカ22・19)。これに対して、マルコとマタイは「エウロギア(祝福)」という側面を強調します。「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて」(マルコ14・22)。ギリシア語の「エウカリステイン」も「エウロゲイン」も、原語はヘブライ語の「ベラカー」です。「ベラカー」は、イスラエルの伝統における、大きな祝宴を始める際の偉大な感謝と祝福の祈りです。二つのギリシア語のことばは、この祈りが本来もつ、相補い合う二つの方向性を示します。実際、「ベラカー」は何よりもまず、与えられたたまもののゆえに神にささげる、感謝と賛美です。イエスの最後の晩餐の中で、たまものとは、神が大地から芽吹かせ、成長させた小麦から作ったパンと、ぶどうの木に実ったぶどうから作ったぶどう酒です。この神にささげられた賛美と感謝の祈りは、神からたまものの上に降り、たまものを豊かにする祝福となります。こうして、神への感謝と賛美は祝福となります。神にささげたささげものは、全能の神に祝福されて人間に返されます。聖体の制定のことばは、このような祈りの意味連関に位置づけられます。聖体の制定のことばにおいて、「ベラカー」の賛美と祝福は、パンとぶどう酒の祝福と、そのイエスのからだと血への変化となるのです。
 制定のことばの前に、動作が来ます。すなわち、パンを裂き、ぶどう酒を与えることです。パンを裂き、杯を与えるのは、何よりも家長です。家長は家族の構成員を食卓に招き入れます。しかし、この動作は、家族に属さない客をもてなし、食事の交わりに迎え入れることでもあります。この動作が、イエスが弟子たちに別れを告げるための晩餐の中で、まったく新しく深い意味を与えられました。イエスは、神がご自身を与える食事に、受け入れることを表す目に見えるしるしを与えたのです。イエスはパンとぶどう酒のうちに、ご自身を与え、また伝えるのです。
 しかし、このことはどのようにして可能となるのでしょうか。イエスはこのとき、どのようにしてご自身を与えることができるのでしょうか。イエスは知っておられました。自分のいのちが十字架刑により取り去られることを。十字架刑は、自由人でない人間の死刑です。キケロ(Marcus Tullius Cicero 前106-43年)はそれを「十字架のもっとも恥ずべき死(mors turpissima crucis)」と呼びました。イエスは、最後の晩餐で与えたパンとぶどう酒のたまものにより、ご自分の死と復活を先取ります。そして、よい羊飼いについての説教で述べたことを実現します。「わたしはいのちを、再び受けるために、捨てる。・・・・だれもわたしからいのちを奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしはいのちを捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けたおきてである」(ヨハネ10・17-18)。それゆえイエスは、これから取り去られるいのちを前もって与えます。こうしてイエスは、ご自分のむごたらしい死を、自分を他の人のために、他の人に与える自由なわざに造り変えるのです。イエスが受ける暴力は、積極的で、自由で、あがないをもたらすいけにえに変わるのです。
 さらにイエスは、聖書の伝統的な儀式の形に従って始まる祈りの中で、ご自分の本性と決意を示します。すなわち、完全な愛と、御父のみ心への従順という使命を徹底的に果たそうとする決意です。きわめて独自のしかたで、聖体の記念を通してご自分を弟子たちに与えることが、弟子たちに別れを告げる晩餐を特徴づける祈りの頂点です。最後の晩餐の夜のイエスのわざとことばを仰ぎ見るとき、御父との深く絶えることのない関係こそが、イエスが弟子たちとわたしたち一人ひとりに愛の秘跡(Sacramentum caritatis)を残してくださった場であることがはっきりと分かります。二階の広間に、二度、次のことばが響き渡ります。「わたしの記念としてこのように行いなさい」(一コリント11・24、25)。イエスはご自分を与えることによって、ご自分の過越を祝います。こうしてイエスは、いにしえの礼拝全体を完成する、まことの小羊となります。そのため聖パウロは、コリントのキリスト者に向けて語ります。「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、・・・・純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」(一コリント5・7-8)。
 ルカ福音書記者は、最後の晩餐の出来事のもう一つの貴重な要素を伝えてくれました。そこからわたしたちは、最後の晩餐の夜、イエスが弟子たちのためにささげた祈りの感動的な深い意味と、すべての人に対するイエスの気遣いを知ることができます。イエスは感謝と祝福の祈りから出発して、聖体のたまものを、すなわちご自身を与えるまでに至ります。そしてイエスは、決定的な秘跡を与えるとき、ペトロに向かいます。食事の終わりにイエスはペトロにいいます。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22・31-32)。弟子たちに試練が迫ったときも、イエスの祈りは彼らの弱さを支えます。神の道は、パンとぶどう酒のささげものによって先取りされた、死と復活の過越の神秘を通ることを理解しようとする弟子たちの努力を支えます。聖体は旅路の糧です。この糧は、疲れた人、弱った人、道に迷った人にも力を与えます。この祈りはとくにペトロのためにささげられます。再び回心したとき、兄弟の信仰を強めるようにと。福音書記者ルカは、ペトロがまさに三回イエスを否んだとき、イエスのまなざしがペトロの顔を探したと記します。それは、イエスに従う道を再び歩む力をペトロに与えるためです。「まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは・・・・主のことばを思い出した」(ルカ22・60-61)。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちは感謝の祭儀にあずかることによって、イエスがわたしたち一人ひとりのためにささげ、今もささげ続ける祈りを特別なしかたで体験します。あなたがた皆が人生の中で出会う悪が、あなたがたを打ち負かすことがありませんように。キリストの死と復活による、あなたがたを造り変える力が、あなたがたのうちに働きますように。「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22・19。一コリント11・24-26参照)。教会は、感謝の祭儀の中で、このイエスの命令にこたえます。教会は感謝と祝福の祈りを繰り返し唱えます。そして、この祈りとともに、パンとぶどう酒を主のからだと血に変化させることばを唱えます。わたしたちの感謝の祭儀は、イエスの祈りのときに引き寄せられることです。つねに新たにイエスの祈りと一つになることです。教会は初めから、聖別のことばは、イエスとともに行う祈りの一部だと考えてきました。それは感謝に満ちた賛美の中心的な部分です。この祈りを通じて、大地と人間の労働の実りが、イエスのからだと血として、わたしたちを迎え入れる御子の愛による神ご自身の自己贈与として、神から新たに与えられます(教皇ベネディクト十六世『ナザレのイエス』第二巻:Gesù di Nazaret, II, p. 146参照)。わたしたちは、感謝の祭儀にあずかり、神の子のからだと血を糧とすることによって、自分たちの祈りを、最後の晩餐における過越の小羊の祈りと一つに結びつけます。それは、たとえわたしたちが弱く不忠実でも、わたしたちのいのちが失われず、むしろ造り変えられるためです。
 親愛なる友人の皆様。主に願おうではありませんか。聖体はキリスト教的生活に不可欠です。場合によりゆるしの秘跡を通じてふさわしい準備をした後に、感謝の祭儀にあずかることが、つねにわたしたちの祈り全体の頂点となりますように。願おうではありませんか。イエスの御父への自己奉献と深く結ばれて、わたしたちも自分の十字架を、神と兄弟への愛のためにささげる、自由で責任のあるいけにえに変えることができますように。ご清聴ありがとうございます。

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