教皇ベネディクト十六世の300回目の一般謁見演説 キリスト教一致祈祷週間

1月18日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の300回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、1月18日から25日まで行われる「キリスト教一致祈祷週間」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日から「キリスト教一致祈祷週間」が始まります。「キリスト教一致祈祷週間」は、一世紀以上にわたって、毎年、すべての教会・教会共同体のキリスト者によって行われてきました。それは、主イエスご自身が受難の前に最後の晩餐の中で祈られた、特別なたまものを祈り求めるためです。「父よ、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(ヨハネ17・21)。「キリスト教一致祈祷週間」は1908年にポール・ワトソン神父(1863-1940年)によって始められました。ポール・ワトソン神父は、後にカトリック教会に入った、聖公会の修道会の創立者です。ワトソン神父の取り組みは教皇聖ピオ十世(在位1903-1914年)の祝福を受け、さらに教皇ベネディクト十五世(在位1914-1922年)によって推進されました。教皇ベネディクト十五世は小勅書『ロマノールム・ポンティフィクム(1916年2月25日)』をもって、カトリック教会全体で「キリスト教一致祈祷週間」を行うことを推奨しました。
 「八日間の祈り」は1930年代にリヨンのポール・クトゥリール大修道院長(1881-1953年)によって発展させられ、完成しました。クトゥリール大修道院長は「キリストが望まれた教会の一致のための、キリストが望まれた手段による」この祈りを支持したのです。クトゥリール大修道院長は後の著作の中で、「一致祈祷週間」を、キリストの普遍的な祈りが「キリストのからだ全体の中に入り、浸透する」ことを可能にする手段と考えます。「一致祈祷週間」は「神の民全体の大きな一致した叫び声」となるまで成長しなければなりません。この叫び声は、神にキリスト者の一致という偉大なたまものを願い求めるからです。そして毎年、この「キリスト教一致祈祷週間」の中で、第二バチカン公会議が与えた、キリストのすべての弟子の完全な交わりの探求への刺激が、力強く表明されるのです。あらゆる伝統に属するキリスト者が一致して行う、この霊的行事は、わたしたちに次のことをますます自覚させます。わたしたちが目指す一致は、わたしたちの努力がもたらしうるものではなく、むしろ、絶えず祈り求めるべき、天からのたまものです。
 毎年、「一致祈祷週間」のための冊子が、世界のさまざまな地域のエキュメニカルなグループによって作成されます。わたしはこのことについて考察したいと思います。今年のテキストの草案は、ポーランドのカトリック教会の代表者と、ポーランド・エキュメニカル協議会の合同グループが作りました。ポーランド・エキュメニカル協議会は、ポーランドのさまざまな教会・教会共同体によって構成されます。草案はさらに、教皇庁キリスト教一致推進評議会委員と世界教会協議会信仰職制委員会が構成する国際委員会によってまとめられました。二段階を経て行われたこの作業も、キリスト者を促す一致への望みと、祈りが完全な交わりに達するための主要な道であるという自覚を表すしるしの一つです。わたしたちは、主と一致しながら一致に向けて歩むからです。今年の「一致祈祷週間」のテーマは、たった今朗読されたとおり、コリントの信徒への手紙一からとられました。「わたしたちは皆、主イエス・キリストの勝利によって変えられます」(一コリント15・51-58参照)。キリストの勝利がわたしたちを造り変えます。このテーマは、今申し上げたポーランドの広範なエキュメニカル・グループによって提案されました。彼らは、自分たちのポーランド国民としての体験に基づいて、試練と混乱の最中で、キリスト教信仰が力強い支えとなることを強調しようとしたのです。たとえば、ポーランドの歴史を特徴づけた試練と混乱です。幅広い議論を経て、キリストへの信仰がもつ、わたしたちを造り変える力をテーマとすることが決められました。その際とくに、キリストのからだである教会の目に見える一致を求める祈りにとって、信仰がもつ重要な役割が考慮されました。聖パウロのことばはこの考察に霊感を与えてくれます。聖パウロは、コリントの教会に宛てた手紙の中で、わたしたちの地上の生活に属するものが、つかのまのものであることを語ります。地上の生活は、罪と死に対する「敗北」の経験によって特徴づけられるものでもあります。しかしキリストは、過越の神秘によって、罪と死に対する勝利をわたしたちにもたらしたのです。
 ポーランド国民の特別な歴史は、16世紀のような、民主的な共存と信教の自由の時期を体験しながら、最近の数世紀に、侵略と分割によって特徴づけられました。しかし、この歴史はまた、抑圧に対する絶えざる戦いと、自由への渇望によっても特徴づけられます。これらすべてのことに導かれて、エキュメニカル・グループは、「勝利」(「勝利」とは何か)と「敗北」の真の意味をきわめて深く考察しました。勝利主義的な意味での「勝利」に対して、キリストは、武力や権力を用いない、別の道をわたしたちに示します。実際、キリストはいいます。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(マルコ9・35)。キリストは、苦しむ愛による勝利を語ります。互いの愛と、助け合いと、新しい希望と、もっとも小さい人、忘れられた人、拒絶された人に対する具体的な慰めによる勝利を語ります。すべてのキリスト者にとって、このような謙遜な奉仕の最高の表現は、イエス・キリストご自身です。キリストの完全な自己奉献と、十字架による死に対する愛の勝利です。この勝利は復活祭の朝の光の中で輝きます。わたしたちは、この変容をもたらす「勝利」にあずかるために、神に造り変えていただかなければなりません。生活の回心を行わなければなりません。この変容が、回心の形で実現しなければなりません。これが、ポーランドのエキュメニカル・グループが、考察のテーマに聖パウロのことばがとくにふさわしいと考えた理由です。「わたしたちは皆」、わたしたちの主キリストの勝利によって「変えられます」(一コリント15・51-58参照)。
 わたしたちが願う、キリスト者の完全な目に見える一致は、わたしたちがますます完全なしかたでキリストの似姿に従って造り変えられ、形づくられることを必要とします。わたしたちが祈る一致は、わたしたちが共同体としても個人としても内的に回心することを求めます。単に思いやり、協力すればよいだけではありません。何よりもまず、わたしたちの神への信仰を、イエス・キリストの神への信仰を強めなければなりません。イエス・キリストはわたしたちに語りかけ、わたしたちの一人となられたからです。わたしたちはキリストと結ばれた新しい生活を始めなければなりません。このような生活こそが、わたしたちの真の決定的な勝利だからです。わたしたちは互いに心を開き、神がこれまでわたしたちのために与えてくださり、これからもつねに新たに与えてくださる一致の諸要素をすべて深めなければなりません。わたしたちは、現代の人々に生きている神をあかしする緊急の必要性を感じなければなりません。神はキリストのうちにご自身を知らせてくださったからです。
 第二バチカン公会議は、エキュメニズムの探求を教会生活と活動の中心に置きました。「この聖なる公会議はすべてのカトリック信者に対し、時のしるしを認めて、エキュメニズムの仕事に賢明に参加するよう勧告する」(『エキュメニズムに関する教令』4)。福者ヨハネ・パウロ二世はこの取り組みの本質的な性格を強調して、次のように述べます。「この一致は、主がご自分の教会に授けたものであり、またこれによって、主はすべての民を受け入れることを望んでいます。それは、何か付け足しといったものではなく、キリストの使命の中心となるものです。弟子たちの共同体に付随する特徴にすぎないものではなく、まさに本質に属しているものなのです」(教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『キリスト者の一致』9)。それゆえ、エキュメニズムの任務は、全教会と、洗礼を受けたすべての人の責務です。わたしたちは、キリスト者の間にすでに存在する部分的な交わりを、真理と愛における完全な交わりへと成長させなければなりません。ですから、一致のための祈りはこの「キリスト教一致祈祷週間」に限られず、むしろ、わたしたちの祈りの、すべてのキリスト者の祈りの生活の、不可欠な部分とならなければなりません。この祈りは、あらゆる場所で、あらゆる時に、とくにさまざまな伝統に属する人々が集まり、あらゆる罪と悪と不正と人間の尊厳の侵害に対するキリストにおける勝利のために働くときに行われるべきものです。
 エキュメニカル運動が一世紀以上前に生まれたときから、つねにはっきりと自覚されてきたことがあります。それは、キリスト者の間に一致が欠けていれば、福音をより力強く告げ知らせるための妨げとなるということです。なぜなら、キリスト者の一致の欠如は、わたしたちの信頼性を危険にさらすからです。自分たちが分裂しながら、どうして説得力のあるあかしを行うことができるでしょうか。信仰の基本的な真理に関して、分裂している点よりも一致している点のほうが多いのは確かです。しかし、分裂は依然として残っています。そして、それはさまざまな実践的・倫理的問題にもかかわります。こうした分裂は、混乱と不信を生み、わたしたちがキリストの救いのことばを伝える力を弱めます。その意味で、わたしたちは福者ヨハネ・パウロ二世のことばを思い起こさなければなりません。ヨハネ・パウロ二世は回勅『キリスト者の一致』の中で、一致の欠如が、キリスト者のあかしと福音の告知を損なうと述べています(同98、99参照)。これは新しい福音宣教にとっての大きな課題です。すべてのキリスト者がともにイエス・キリストの福音の真理を告げ知らせ、現代の霊的な渇きに共同でこたえるとき、新しい福音宣教はいっそう実り豊かなものとなることができるからです。
 教会の歩みも、人々の歩みも、復活したキリストのみ手のうちにあります。キリストは死と不正に対して勝利を収めます。キリストはこれらの死と不正を担い、すべての人の代わりに苦しまれたからです。キリストだけが、わたしたちを造り変え、弱く優柔不断なわたしたちを、力強く勇気をもって善を行う者としてくださることが可能です。キリストだけが、分裂のもたらす悪い結果からわたしたちを救うことが可能です。親愛なる兄弟姉妹の皆様。皆様にお願いします。この「一致祈祷週間」の間、一つになって、ますます深く祈ってください。キリスト者の共同のあかしと連帯と協力が深まりますように。わたしたちは栄光に輝く日の訪れを待ち望みます。その日わたしたちは、使徒たちによって伝えられた信仰をともに告白し、キリストにおいてわたしたちが造り変えられる秘跡をともに祝うことができるのです。ご清聴ありがとうございます。

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