第46回「世界広報の日(2012年5月13日)」教皇メッセージ

第46回「世界広報の日(2012年5月13日)」教皇メッセージ 「沈黙とことば、福音化の歩み」 親愛なる兄弟姉妹の皆様  2012年「世界広報の日」を間近に控え、わたしは、人間のコミュニケーションのあり方に関するいくつか […]

第46回「世界広報の日(2012年5月13日)」教皇メッセージ
「沈黙とことば、福音化の歩み」

親愛なる兄弟姉妹の皆様

 2012年「世界広報の日」を間近に控え、わたしは、人間のコミュニケーションのあり方に関するいくつかの考えを皆様と分かち合いたいと思います。それは、重要でありながら見過ごされがちで、今日、とりわけ思い起こす必要があるように思われる、沈黙とことばの関係についてです。人々の間に真の対話と深い親交を実現させるには、コミュニケーションにおけるこれら二つの側面が均衡を保ち、交互に入れ替ったり補い合ったりする必要があります。ことばと沈黙が相いれなければ、混乱や冷たい雰囲気が生じ、コミュニケーションの質が低下します。しかし、互いに補い合うならば、コミュニケーションに価値と意味が生じます。
 沈黙はコミュニケーションに欠かせない要素です。沈黙がなければ、豊かで内容を伴うことばは存在しえません。沈黙のうちに、わたしたちはよりいっそう自らに耳を傾け、自分自身のことを理解できます。考えがひらめき、深まります。また、自分が何をいいたいのか、他者に何を求めているのかをより明確に認識し、どのように自分自身を表現するかを選びます。わたしたちは沈黙することにより、相手に自分のことを話したり表現したりする機会を与えることができます。また、よく考えずに自分のことばや観念のみにとらわれることも避けられます。こうして、互いに耳を傾ける余地が生まれ、人間関係を深めることができるのです。たとえば、愛し合う人々の間の真のコミュニケーションは、しばしば沈黙のうちに行われます。手ぶり、表情、身ぶりが、互いに自己表現するためのしるしとなります。喜び、不安、苦しみは皆、無言で伝えることができます。まさに沈黙のうちに、それらはとりわけ強く表現されるのです。沈黙に感性と傾聴力が伴うとき、さらに積極的なコミュニケーションが生まれ、かかわり合いの真の基準と本質がしばしば明らかにされます。メッセージや情報が氾濫する中、あまり意味のない二次的なものから大切なものを識別する場合に、沈黙は不可欠です。考察を深めることは、一見、無関係と思える出来事の間につながりを見いだし、評価し、意味を分析する助けとなります。こうして、考え抜かれた適切な意見が交換されるようになり、真正な知識の共有が実現するのです。それには、沈黙、ことば、映像、音声の間の均衡が正しく保たれた適切な環境、ある種の「生態系」をはぐくむ必要があります。
 今日のコミュニケーションは、おもに答えを求める問いから力を得ています。検索エンジンとソーシャル・ネットワークが、助言、アイディア、情報、答えを求める多くの人々の、コミュニケーションにおける起点となっているのです。現在、インターネットは、問いと答えが行き交う場にさらになりつつあります。現代社会の人々は実に、これまで受けたこともない質問や気づいていなかった要求にこたえたりするよう頻繁に迫られます。真に重要な問いを認め、それに焦点を当てる際に、沈黙は貴重なものとなります。わたしたちは沈黙することにより、過剰な刺激や情報を受けても、それらを適切に識別することができるからです。コミュニケーションの世界がますます複雑化、多様化する中、多くの人が人間存在に関する究極的な問いに直面します。わたしは何者なのか。何を知りうるのか。何をすべきか。何を望みうるのか。このように問う人を迎え入れ、ことばと交流による深遠な対話への可能性を開くことが重要です。さらに、静かに黙想するよう勧めることも大切です。黙想は、しばしば、性急な回答よりも多くを語ります。そして、答えを求める人々を自らの存在の深みへと導き、神によって人間の心の中に刻まれた真理への道を受け入れられるようにするのです。
 この絶え間ない問いの流れは、究極的には、人生に意味と希望を与える真理をさまざまな形で求めずにはいられない人間の本質を表します。人間は、懐疑的見解や人生経験を表面的、盲目的にやりとりすることには満足できません。わたしたちは皆、真理を求めます。そして今日、この心底からの願いをこれまで以上に共有しているのです。「情報を交換するとき、人はすでに自分自身、自分の世界観、希望、理想を共有しています」(教皇ベネディクト十六世、2011年「世界広報の日」メッセージ)。
 あらゆる種類のウェブサイト、アプリケーション、ソーシャル・ネットワークに注意を払うべきです。それらは、現代人が考え、真の問いを発する時間を得るのに役立つだけでなく、沈黙するための余地や、祈り、黙想、神のことばの分かち合いのための機会を生み出すのを助けるからです。対話する者どうしが自分の内面を深めることを怠らなければ、深遠な思想も聖書の一節ほどの短い表現で伝えることができます。さまざまな宗教において、孤独と沈黙が、自分自身を再認識し、すべてのものに意味を与える真理を再発見するのに役立つ特別な状態と考えられているのも当然です。聖書においてご自分を啓示される神は、ことばを通さずにも語られます。「キリストの十字架が示すとおり、神はご自身の沈黙を通しても語ります。神の沈黙、すなわち、全能の父と引き離された体験は、受肉したみことばである神の子が歩んだ、地上の旅路の決定的な時です。……神の沈黙はそれまでに語られた神のことばの延長です。神はこれらの暗闇の時の中で、ご自身の沈黙の神秘を通して語られます」(教皇ベネディクト十六世使徒的勧告『主のことば』21)。最高のたまものに至るまで実践された神の愛が、十字架の沈黙を通して豊かに語られます。キリストの死後、地上は大いなる沈黙に包まれました。そして聖土曜日には、「王が眠り、神が肉体において眠りにつかれ、世々の昔から眠りについていた人々を立ち上がらせたのです」(教会の祈り「聖土曜日の読書課、第二朗読」参照)。人間への愛に満ちて、神の声が響き渡ります。
 神は沈黙のうちにもわたしたちに語りかけておられるのですから、わたしたちも、沈黙のうちに神と対話したり、神について語ったりすることができます。「この沈黙は観想となります。それはわたしたちを神の沈黙へと導き、そして、みことばが、すなわちわたしたちをあがなうみことばが生まれたところへとわたしたちを伴います」(教皇ベネディクト十六世、「国際神学委員会総会閉会ミサ説教」、2006年10月6日)。わたしたちのことばは、いかなる場合も、神の偉大さを語るには不十分です。したがって、静かな観想の時を設ける必要があります。観想は、その内に秘めたすべての力によって、すぐにでも福音を告げ知らせたいという思いを湧き上がらせます。すべての人が神と一致するために「わたしたちが見、また聞いたことを伝える」(一ヨハネ1・3参照)という義務が切実なものとなるのです。わたしたちは、観想によって、愛であるかた、わたしたちの心を他者に向けるかたの源に浸されます。こうして、わたしたちは、他者の苦しみを感じ、キリストの光、キリストのいのちのことば、キリストの愛に満ちた救いのたまものを隣人に知らせることができるのです。
 静かに観想するとき、世界を創造された永遠のみことばが、よりいっそう力強く現存します。そして、わたしたちは、神が歴史を通してことばと行いによって実現しておられる救いの計画に気づくのです。第二バチカン公会議は伝えます。神の啓示は「互いに密接に関連したわざとことばをもってなされた。そのため救いの歴史において神から遂行されたわざは、教えとことばの意味を明らかに証明した。そして、ことばはわざを表示し、その中に含まれている秘義を明らかにする」(第二バチカン公会議『神の啓示に関する教義憲章』2)。この救いの計画は、仲介者であり、全啓示の充満であるナザレのイエスにおいて頂点に達します。イエスは父なる神の真の姿をわたしたちに伝え、十字架と復活によって、わたしたちを、罪と死の奴隷状態から解放し、神の子としての自由をもたらしてくださいました。人間存在の意味に関する根本的な問いは、キリストの神秘の内にその答えを見いだします。それは、満たされることのない人間の心に平和をもたらすことのできる答えです。教会の使命はこの神秘から生じます。キリスト者は、まさにこの神秘により、希望と救いの使者となるよう、また、人間の尊厳を促進し、正義と平和を築く愛のあかし人となるよう駆り立てられるのです。
 ことばと沈黙。コミュニケーションのあり方を学ぶとは、話すことだけでなく、聞き、考えることを学ぶことです。このことは、福音化のために働く人にとってとりわけ重要です。沈黙とことばは両者とも、現代社会にキリストを新たに告げ知らせるための教会の広報活動にとって欠かせない非常に重要な要素なのです。わたしは、沈黙によって「みことばに耳を傾け、みことばを花開かせた」(教皇ベネディクト十六世、巡礼地ロレトでの祈り、2007年9月1日)マリアに、広報手段を通して教会が行う福音化のためのすべての活動を委ねます。

バチカンにて
2012年1月24日
聖フランシスコ・サレジオの祝日
教皇ベネディクト十六世

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