教皇ベネディクト十六世の301回目の一般謁見演説 最後の晩餐におけるイエスの「大祭司の祈り」 (ヨハネ17・1-26参照)

1月25日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の301回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2011年5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第24回として、「最後の晩餐におけるイエスの『大祭司の祈り』(ヨハネ17・1-26参照)」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の講話では、イエスが上げられて栄光を受ける「時」に御父にささげた祈り(ヨハネ17・1-26参照)に注意を集中したいと思います。『カトリック教会のカテキズム』が述べるとおり、「キリスト教の伝統によれば、この祈りにはイエスの『祭司的』祈りという適格な呼称がつけられています。それはわたしたちの大祭司の祈りであって、イエスご自身の犠牲、およびご自分のすべてを御父に『ささげて』御父のもとへお帰りになったこと(「過越」)、とは切り離せないものなのです」(同2747)。
 このイエスの祈りのきわめて豊かな意味を理解するには、何よりもユダヤ教の贖罪の祭り(ヨーム・キップール)という背景の中にこの祈りを位置づけなければなりません。この贖罪の日に、大祭司はまず自分自身のために、次いで祭司階級のために、最後に民の共同体全体のために贖罪を行いました。それは、一年の間、罪を犯したイスラエルの民に、神と和解したという自覚を再び与えるためです。自分たちが、選ばれた民、すなわち他の民の中で「聖なる民」であるという自覚を再び与えるためです。ヨハネによる福音書17章に示されたイエスの祈りは、この祭りの構造を取り入れています。最後の晩餐の夜、イエスは、ご自分をささげる時に、御父に向かいます。祭司であると同時にいけにえであるイエスは、自分と使徒、そしてイエスを信じるすべての人々、あらゆる時代の教会のために祈るのです(ヨハネ17・20参照)。
 イエスがご自分のために行う祈りは、ご自分の「時」に、自分が栄光を受け、「上げられる」ことを願います。実際、この祈りは、願い以上のものです。それは、父である神の計画に、自由に惜しみなく進んで歩み入る準備ができていることの宣言です。父である神の計画は、イエスが引き渡され、死んで復活することによって実現されるからです。この「時」は、ユダの裏切りによって始まり(ヨハネ13・31参照)、復活したイエスが御父のもとに上げられることによって頂点に達します(ヨハネ20・17参照)。ユダが二階の広間から出て行ったことについて、イエスは次のことばで解説します。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」(ヨハネ13・31)。イエスが次のように述べて大祭司の祈りを始めるのは、偶然ではありません。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」(ヨハネ17・1)。イエスが大祭司として自分のために求める栄光は、御父に対する完全な従順へと歩み入ることです。この従順が、イエスをもっとも完全な子としての身分へと導きます。「父よ、今、み前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとでもっていたあの栄光を」(ヨハネ17・5)。このような心構えをもち、このような要求を行うことが、イエスの新しい祭司職の最初のわざです。イエスの新しい祭司職とは、十字架上で自分を完全にささげることです。そしてイエスは、この最高の愛のわざである十字架の上で、栄光を受けます。なぜなら、愛こそがまことの栄光であり、神の栄光だからです。
 大祭司の祈りの第二の要素は、イエスが自分のもとにいる弟子のために行う執り成しです。この弟子たちは、イエスが御父に次のようにいうことができる人々です。「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしはみ名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、みことばを守りました」(ヨハネ17・6)。「神の名を人々に現す」とは、民、すなわち人類のただ中における神の新たな現存の実現です。「現す」とは、単なることばではなく、イエスにおける現実です。神はわたしたちとともにおられます。こうしてみ名――神がわたしたちとともにおられること、神がわたしたちの一人となられること――が「実現」します。それゆえ、神の名を現すことは、みことばの受肉によって実現します。神はイエスにおいて人間の肉のうちに入り、独自の新たなしかたで近づいてくださいます。そして、この神の現存の頂点は、イエスが死と復活の過越によって実現したいけにえです。
 弟子たちのための執り成しと贖罪の祈りの中心にあるのは、聖別してくださいという願いです。イエスは御父にいいます。「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたのみことばは真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」(ヨハネ17・16-19)。ここで問いが生じます。この場合、「聖なる者とする」とは何を意味するのでしょうか。まず次のことをいわなければなりません。固有の意味で「聖別された者」あるいは「聖なる者」といえるのは、神だけです。それゆえ、聖別するとは、あるもの(人または事物)を神の所有物に移行させることです。ここでは二つの側面が補い合います。一方で、聖別するとは、普通のものから取り分け、引き離し、人間の個人生活の領域から「区別」します。それは、完全に神にささげられたものとするためです。他方で、この隔離と、神の領域への移管は、「遣わすこと」、すなわち派遣の意味をもちます。神にささげられたからこそ、聖別されたものも人も、他の人「のために」存在し、他の人にささげられるのです。神にささげるとは、自分のためではなくすべての人のために存在することです。イエスと同じように、聖別された者は、世から引き離され、ある任務のために神のために取り分けられます。そのためにその人は、完全にすべての人に自由にゆだねられるのです。弟子たちにとって、聖別されるとは、イエスの使命を引き継ぎ、神にささげられ、そこから、すべての人のために遣わされることです。復活の夜、復活したキリストは、弟子たちに現れていわれます。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ20・21)。
 大祭司の祈りの第三のわざは、世の終わりにまでまなざしを向けます。イエスは祈りの中で、御父に呼びかけます。それは、使徒が開始し、歴史の中で継続される宣教を通じて信じるようになったすべての人のために執り成すためです。「また、彼らのためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」。イエスはあらゆる時代の教会のために祈るのです。わたしたちのためにも祈るのです(ヨハネ17・20)。『カトリック教会のカテキズム』は解説していいます。「イエスが御父のわざをすべて成就されたので、その祈りも、その犠牲も、時が完成するまでずっと影響力を持ち続けることになります。イエスの『時』の祈りは最終の時を満たし、それを完成に導きます」(同2749)。
 イエスの大祭司の祈りの中心的な祈願は、すべての時代の弟子と、イエスを信じる者の将来の一致のためにささげられます。この一致は、世が作り出せるものではありません。一致は、神の一致からのみ生まれます。そして、子と聖霊を通して父からわたしたちにもたらされます。イエスはたまものを祈り求めます。このたまものは、天からもたらされますが、地上で、現実の、目に見える結果を生み出します。イエスは祈ります。「父よ、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(ヨハネ17・21)。キリスト者の一致は、一方では、信じる者の心の中にある、隠れた現実です。しかし、同時にそれは、歴史の中ではっきりと目に見えるものとならなければなりません。世が信じるために、目に見えるものとならなければなりません。キリスト者の一致は実践的かつ具体的な目的をもっています。それは、すべての人が本当に一つになるために、目に見えるものとならなければならないのです。将来の弟子は、御父が世に遣わしたイエスと一つに結ばれています。この一致は、世におけるキリスト信者の宣教が効果的になるための、本来の源泉でもあります。
 こういうことができます。教会の設立は、イエスの大祭司の祈りの中で行われました。・・・・まさにこの、最後の晩餐のわざによって、イエスは教会を造りました。なぜなら、イエス・キリストが御父から遣わされたと信じ、この信仰を通じて一致を与えられ、世を救うイエスの使命にあずかり、世を神を知るように導く、弟子たちの共同体――これこそが教会だからです。わたしたちはここに教会の真の定義を見いだします。教会はイエスの祈りから生まれます。この祈りは単なることばではありません。それは、イエスがご自分を「聖別し」、世のいのちのために「いけにえとする」わざなのです(『ナザレのイエス』第二巻:Gesù di Nazaret, II, 117-118参照)。
 イエスは弟子たちが一つになるように祈ります。教会は、この自らに与えられ、自らが守る一致の力により、「世に属するもの」となることなしに、「世のうちを」歩みます(ヨハネ17・16参照)。そして、ゆだねられた使命を果たします。それは、世が、御子と、御子を遣わした御父を信じるためです。そこから教会は、キリストご自身の使命を継続する場となります。キリストの使命とは、人間が神と自分自身から疎外されることから、すなわち罪から「世」を導き出し、神のものとしての世に戻すことです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちは、イエスの大祭司の祈りのきわめて深い意味のいくつかの要素を学びました。この祈りは、これを読んで、黙想するようにわたしたちを招きます。それは、わたしたちが主との対話へ導かれ、祈りを学ぶためです。こうしてわたしたちも、祈りの中で神に願うことができますように。わたしたちが、わたしたち一人ひとりに対する神のご計画に、より完全に参加できるよう助けてください。神に願おうではありませんか。あなたに向けてわたしたちを「聖なる者としてください」。わたしたちをますますあなたに属するものとしてください。近くにいる人も、遠くにいる人も含めた、他の人々をますます愛することができますように。神に願おうではありませんか。わたしたちの祈りをいつも世のさまざまな次元に開くことができますように。自分の問題のための助けを願うだけでなく、主のみ前で隣人を思い起こすことができますように。他の人のために執り成すことのすばらしさを学ぶことができますように。キリストを信じるすべての人の目に見える一致のたまものを、神に願おうではありませんか。「キリスト教一致祈祷週間」にあたり、わたしたちはこのことを強く願いました。祈ろうではありませんか。わたしたちの抱いている希望について説明を要求する人に、いつでも弁明できるように備えていることができますように(一ペトロ3・15参照)。ご清聴ありがとうございます。

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