教皇ベネディクト十六世の302回目の一般謁見演説 ゲツセマネの園におけるイエスの祈り (マルコ14・32-42参照)

2月1日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の302回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2011年5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第25回として、「ゲツセマネの園におけるイエスの祈り(マルコ14・32-42参照)」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日はイエスのゲツセマネ、すなわちオリーブの園における祈りについてお話ししたいと思います。この祈りに関する福音書の記述の舞台は特別に重要です。イエスは最後の晩餐の後、弟子たちとともに祈りながら、オリーブ山に赴きます。マルコ福音書記者はこう述べます。「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」(マルコ14・26)。賛美の歌をうたうとは、おそらくハレル詩編の数編を歌ったことを指していると思われます。ハレル詩編は、民が奴隷状態から解放されたことを神に感謝し、今、つねに新たに襲いかかる困難と脅威のために神の助けを願います。ゲツセマネに至る歩みには、イエスのことばがちりばめられています。イエスのことばは、彼の死の定めが切迫していることを感じさせ、弟子たちが間もなく散り散りになることを告げます。
 この夜も、オリーブ山の果樹園に着くと、イエスは個人で祈る準備を行います。しかし、この場合には、ある新しいことが起こります。イエスは独りきりでいることを望まないように思われます。イエスはかつて何度も群衆や弟子たちとも離れて退き、「人里離れた所」(マルコ1・35参照)にとどまったり、聖マルコが述べるとおり、「山」に上りました(マルコ6・46参照)。しかし、ゲツセマネでは、イエスはペトロとヤコブとヨハネに、自分のすぐそばにとどまるよう願います。この三人は、主の変容の山でイエスとともにいるよう招かれた弟子たちです(マルコ9・2-13参照)。ゲツセマネの祈りの間、三人がこのように近くにいたことは重要です。イエスはこの夜も、「一人で」御父に祈ります。それは、イエスの御父との関係がまったく唯一、独自のものだからです。それは独り子としての関係です。そればかりか、こういうこともできます。何よりもこの夜、だれも真の意味で御子に近づくことはできません。御子は、絶対的な意味で唯一、彼のみがもつ本性をもって、御父のみ前に立つのです。しかしイエスは、そこにとどまって祈る場所に「一人で」行ったにもかかわらず、少なくとも三人の弟子が、自分との密接な関係のうちに、近くにいてくれることを望みます。それは場所的に近くにいることを意味します。イエスは、死が近づいたことを感じたときに、彼らが自分と連帯することを求めます。しかし、これは何よりもまず、祈りにおいて近くにいることを意味します。それは、いわばある意味で、イエスが御父のみ心を徹底的に果たす用意をするときに、イエスと一致することを表します。それは、イエスに従って十字架の道を歩むようにとの、すべての弟子に対する招きです。福音書記者マルコは語ります。「そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らにいわれた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい』」(マルコ14・33-34)。
 イエスは、三人の弟子に向けて述べたことばの中で、あらためて詩編のことばを用いて自分について語ります。「わたしは・・・・悲しい」は、詩編43のことばです(詩編43・5参照)。さらに、「死ぬばかりに」辛い決断は、旧約の中で神によって遣わされた多くの人が体験し、祈りの中で表現した状況を思い起こさせます。実際、ゆだねられた使命を果たすことが、敵意と拒絶と迫害に遭うことを意味することは、珍しくありませんでした。モーセは荒れ野の中で民を導いたときに劇的な試練を体験して、神にいいます。「わたし一人では、とてもこの民すべてを負うことはできません。わたしには重すぎます。どうしてもこのようになさりたいなら、どうかむしろ、殺してください。あなたの恵みを得ているのであれば、どうかわたしを苦しみに遭わせないでください」(民数記11・14-15)。預言者エリヤにとっても、神と神の民に奉仕することはたやすいことではありませんでした。列王記上にはこう書かれています。「彼自身は荒れ野に入り、さらに一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分のいのちが絶えるのを願っていった。『主よ、もう十分です。わたしのいのちを取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません』」(列王記上19・4)。
 イエスが三人の弟子に述べた、ゲツセマネでの祈りの間そばにいてほしいということばは、この「時」、彼がどれほどの恐れと苦悩を感じたかを示します。イエスは、神の計画が実現されるまさにそのとき、究極的な深い孤独を体験したのです。そして、このイエスの恐れと苦悩のうちに、自分の死を前にした人間の恐怖と、死の容赦ない性格への確信と、わたしたちの生涯にのしかかる悪の重荷の感覚が余すところなく要約されます。
 祈っている間、そこにいて目を覚ましていてほしいと三人に願った後、イエスは「一人で」御父に向かいます。マルコ福音書記者は述べます。イエスは「少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈られた」(マルコ14・35)。イエスは地面に顔を伏せます。それは、御父のみ心に対する従順を表す祈りの姿勢です。御父に対する完全な信頼をもって身をゆだねることです。このひれ伏すという動作は、聖金曜日の主の受難の祭儀の初めと、修道誓願式と、助祭、司祭、司教叙階式でも繰り返されます。それは、祈りの中で、身体的な形においても、神への完全な委託と信頼を表すためです。それからイエスは御父に願います。できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと。それは単なる人間の死に対する恐れと苦悩ではありません。神の子としての驚愕です。神の子は、彼がそれを克服し、それから力を奪うために、自分の身に負わなければならない、恐るべき悪の塊を目の当たりにしたからです。
 親愛なる友人の皆様。わたしたちも祈るとき、神に示すことができなければなりません。自分の労苦を。ある状況、ある期間に味わう苦しみを。日々、神に従い、キリスト信者であることの責任を。また、わたしたちが自分たちのうちに、また自分たちの周りで目にする悪の重荷を。それは、神がわたしたちに希望を与え、ご自身が近くにおられることを感じさせ、いのちの道を歩むためのわずかな光を与えてくださるためです。
 イエスは続けて祈ります。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、み心に適うことが行われますように」(マルコ14・36)。この祈願の中で、わたしたちに啓示を与える三つのことばが示されます。まず、イエスが神に向けて述べたことばが繰り返されます。「アッバ、父よ」(マルコ14・36a)。よく知られているとおり、アラム語の「アッバ」ということばは、幼児が父親に語りかけるために用いることばです。それゆえそれは、イエスの父である神との関係を表します。それは、優しさと愛情と信頼と委託に満ちた関係です。祈願の中心部分に、第二の要素があります。御父の全能に対する自覚です――「あなたは何でもおできになります」――。この自覚が一つの願いを導き出します。この願いの中に、あらためて、死と悪を前にしたイエスの人間的意志のドラマが現れます。「この杯をわたしから取りのけてください」。しかし、イエスの祈りの第三の、決定的なことばが来ます。このことばの中で、人間的意志は、神のみ心に完全に一致します。実際、イエスは終わりに力強くこう述べます。「しかし、わたしが願うことではなく、み心に適うことが行われますように」(マルコ14・36c)。御子の神的なペルソナの一致の中で、彼が「アッバ」と呼ぶ御父――「あなた」――に「わたし」を完全にゆだねることによって、人間的意志は実現します。証聖者聖マクシモス(Maximos Homologetes; Maximus Confessor 580-662年)はいいます。男と女が造られたとき、人間的意志は神的意志に向かっていました。そして、まさに神に対して「はい」ということのうちに、人間的意志は完全に自由であり、自らを実現しました。残念ながら、罪の結果、この神に対する「はい」は、反抗に変わりました。アダムとエバは、神に対して「否」ということが自由の頂点であり、完全な意味で自分自身であることではないかと考えたのです。イエスはオリーブ山で、人間的意志を、神への完全な「はい」へと戻します。イエスにおいて、自然本性的な意志は、神的なペルソナがこの意志に与える方向づけと一致します。イエスは、神の子であることという、ご自分のペルソナの中心に従って生涯を過ごします。イエスの人間的意志は、御子の「わたし」のうちへと引き寄せられます。御子は御父に完全に身をゆだねるからです。こうしてイエスはわたしたちに語ります。自分の意志を神のみ心と一致させることによって初めて、人間は自らの真の高みに到達します。「神的」なものとなります。自分から出て、神に「はい」ということによって初めて、完全に自由になりたいというアダムの望み、すなわちわたしたち皆の望みはかなえられます。イエスがゲツセマネで成し遂げたことはこれです。人間的意志を神のみ心に移し入れることにより、真の人間が生まれます。こうしてわたしたちはあがなわれたのです。
 『カトリック教会のカテキズム要約』は、まとめてこう教えます。「ゲツセマネの園でのもだえ苦しみながらのイエスの祈りと十字架上での最後のことばは、イエスの子としての祈りの深さを表しています。イエスは御父の愛の計画を完成させ、人類のすべての悲嘆と、救いの歴史におけるあらゆる願いや執り成しの祈りをご自身に引き受けます。イエスがそれを御父に示すと、御父はそれを受け止め、イエスを死者の中から復活させることによって、あらゆる期待を超えた形でお聞き入れになります」(同543)。まことに「聖書の中で、オリーブ山での祈りほど、わたしたちがイエスの内的な神秘を深く目の当たりにする箇所はほかにありません」(『ナザレのイエス』第二巻:Gesù di Nazaret, II, 177)。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちは毎日、主の祈りの中で、主に願います。「み心が行われますように、天におけるように地の上にも」(マタイ6・10)。すなわちわたしたちはこう認めます。神はわたしたちとともに、わたしたちのために、み心を抱いておられます。神はわたしたちが生きるために、み心を抱いておられます。このみ心が、日々ますます、わたしたちの望みと存在の基準とならなければなりません。さらにわたしたちは認めます。「天」において神のみ心が行われます。そして「地」は「天」となります。神の愛といつくしみと真理と美が現存する場となります。そのために、地上で神のみ心が行われなければなりません。あのゲツセマネの恐ろしい、驚くべき夜、イエスが御父にささげた祈りの中で、「地」は「天」になりました。恐れと苦悩に揺さぶられた、人間的意志の「地」は、神のみ心に受け入れられました。こうして神のみ心が地上で実現したのです。これはわたしたちの祈りにおいても大切なことです。わたしたちはますます神の摂理に身をゆだねることを学ばなければなりません。自分から脱け出る力を与えてくださるように、神に願わなければなりません。そこから、神にあらためて「はい」といい、「み心が行われますように」と神に繰り返して唱え、自分の意志を神のみ心と一致させなければなりません。わたしたちはこの祈りを日々、ささげなければなりません。神のみ心に身をゆだね、イエスとマリアの述べた「はい」を繰り返していうことは、つねに容易なことではないからです。ゲツセマネについての福音の記事は悲しみをもって示します。イエスが自分の近くにいるようにと選んだ三人の弟子は、イエスとともに目を覚まし、イエスの祈りと御父との一致にあずかることができず、眠気に打ち負かされました。親愛なる友人の皆様。主に願おうではありませんか。あなたとともに目覚めて祈ることができますように。あなたが十字架について語るときも、神のみ心に従うことができますように。主とますます深く一致して生きることができますように。そして、神の「天」を少しでも「地上に」もたらすことができますように。ご清聴ありがとうございます。

PAGE TOP