日本二十六聖人殉教者の列聖、および再宣教150周年に当たって

 1597年2月5日(慶長元年12月19日)、長崎・西坂において殉教した「パウロ三木と同志殉教者」と呼ばれた二十六殉教者が、1862(文久2)年6月8日に教皇福者ピオ9世によって列聖されてから、今年でちょうど150年です […]

 1597年2月5日(慶長元年12月19日)、長崎・西坂において殉教した「パウロ三木と同志殉教者」と呼ばれた二十六殉教者が、1862(文久2)年6月8日に教皇福者ピオ9世によって列聖されてから、今年でちょうど150年です(1) 。また、同年1月12日(文久元年12月13日)、横浜に教会(天主堂)が建立され、わが国における福音宣教が再開されてから、150年の節目の年を迎えます。

■日本再宣教の開始

  1. 日本代牧区(使徒座代理区)復活と再宣教の初代教区長フォルカード司教の任命
     キリシタン時代の1588年、教皇シクスト5世は日本で最初の「府内教区」(大分)を設立し、初代司教にモラレスを任命しましたが、実際に司教が日本に着任するのはマルティンス司教の1596年でした。しかし、江戸幕府の厳しい禁教政策によって、日本は鎖国状態になりました。
     19世紀中ごろから、フランスでは日本の宣教再開を望む機運が高まり、日本の宣教に関心を持つ教皇ピオ9世によって、1846(弘化3)年、パリ外国宣教会が日本の宣教を委託されました。同会のフォルカード師は、日本代牧区の初代教区長に任命され日本に向けて派遣されましたが、禁教令に阻まれて入国できず、香港にむなしく年月を送りました(2)

  2. 「横浜天主堂」建立と再宣教開始
     1858(安政5)年、事実上鎖国令が解除されるや、パリ外国宣教会のジラール師は江戸フランス領事館付き司祭として横浜に上陸し(3)、1862年に、横浜に天主堂を建てました。こうして日本での宣教が再開されました。そして、ローマでは同年6月8日に教皇ピオ9世によって、二十六殉教者が列聖されました。

  3. 信徒発見
     1864(元治元)年12月29日、長崎に二十六聖人にささげられる大浦天主堂が完成し、翌1865(慶応元)年2月19日、献堂式が行われ、パリ外国宣教会フューレ師とともに天主堂を完成させたプティジャン師が初代主任司祭となりました。その1か月後の3月17日、浦上村の潜伏キリシタンたちがフランス寺と呼ばれた同天主堂を訪れて信仰を告白し、潜伏キリシタンたちの存在が明らかになりました。このニュースは250年間の迫害を超えたキリシタン発見として世界に大きな驚きをもって伝えられました。翌年、プティジャン師は再宣教後、初の日本の司教となりました。

 

■再宣教150年の意義
 415年前に殉教した二十六聖人殉教者も、禁教下で250年潜伏し脈々と信仰を伝えた数世代の信徒たちも、いずれもいのちをかけてキリスト教信仰をあかししました。そして、再宣教を果たした宣教師を迎えた信徒たちは再び激しい迫害にさらされ、多くの人々が信仰のためにいのちを落としました。その同じ信仰の血が、3年前ペトロ岐部と187殉教者の列福の恵みをいただいた現代のわたしたちに脈々と流れていることを忘れることはできません。前教皇福者ヨハネ・パウロ二世が来日の折、「日本の教会は、殉教者の血を土台としている」と言われたとおりです。

 そこで、まず150年前、世界の片隅、東の島国の日本の教会のために、フランスをはじめ世界の教会が、心を合せて祈ってくれていたことに注目したいと思います。再宣教が開始されたその年、教皇ピオ9世が二十六殉教者を列聖して、日本のキリスト者のために祈るよう、世界に呼びかけたのでした。それにこたえるかのように、パリ外国宣教会の司祭たちや、幼きイエス会(ニコラ・バレ)、ショファイユの幼きイエズス修道会やシャルトル聖パウロ修道女会の若い姉妹たちが、禁教令が解かれたばかりの厳しい日本で福音宣教を開始し、世界各国の宣教師がそれに続きました。

 わたしたち日本の教会はこの記念の年に当たり、神が日本のために備えてくださった驚くべき救いの歴史を振り返りましょう。そして、日本のために祈ってくれていた世界の教会に目を向け、感謝の心を持ちたいと思います。日本の教会は、その初めから世界中の教会と結ばれているのです。

 教皇ベネディクト十六世は、今年の10月から「信仰年」を開催されます。再宣教150年を迎えたわたしたちは、今までの日本の教会の歩みを確認し、これからの福音宣教のあり方について、あらためて考えるときです。第二バチカン公会議(1962~1965)とNICE(福音宣教推進全国会議1987、1993)の精神を継承し、日本の新しい福音化の推進のために、「信仰年」を迎えるふさわしい準備をいたしましょう。

 

2012年2月5日
日本二十六聖人殉教者記念日に

日本カトリック列聖列福特別委員会
委員長 大塚喜直

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  1. 列聖運動が日本人信徒の間から、それも殉教後10年もしないうちに起こっている。 1604年1月26日(慶長8年12月25日)付けで、狩野源助 平渡路(平渡路はペトロの当て字)ら京阪(坂)地方の信徒代表者12名がローマ教皇に二十六殉教者の列聖を請願している文書が、スペイン・パストラナの文書館にある。ヨーロッパでは当時直ちに二十六殉教者の列聖運動が始まるが、宣教師追放など禁教政策によって日本からの情報も途絶え、中断する。その後、長崎二十六殉教者は、1627年、1629年の両年にわたってローマで列福された。
  1. フォルカード師は、サモスの名義司教・日本使徒座代理区長として、ホウコアン使徒座代理区長のリッゾラーティ司教によって、香港で1847年2月21日に司教叙階された。また、1848年、香港使徒座代理区の教区長に任命された。1849年に病気になり、1850年帰国の途に就く。その後、パリ外国宣教会を退会したのち、フランスのグアドループ教区、ヌヴェール教区、エックス大教区の司教を歴任し、1885年9月12日に亡くなる。ローマでの二十六殉教者の列聖式にはフランス政府の反対を押し切って出席した。1876年、日本使徒座代理区が北緯と南緯に分割されるが、北緯使徒座代理区の司教となるオズーフを司教叙階し、日本へ送ったのもフォルカード司教であった。また、ヌヴェール愛徳修道会来日のきっかけを作り、ルルドのベルナデッタに同会入会を勧めた。
  1. 1858(安政5)年、幕府はアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5か国と修好通商条約を締結し、外国人居留地内に限っての教会建設を認めた。

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