教皇ベネディクト十六世の303回目の一般謁見演説 死を前にしたイエスの祈り(マルコおよびマタイ参照)

2月8日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の303回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2011年5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第26回として、「死を […]


2月8日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の303回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2011年5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第26回として、「死を前にしたイエスの祈り(マルコおよびマタイ参照)」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

なお、謁見の終わりに、教皇はイタリア語で次の呼びかけを行いました。
「ご存じのとおり、この数週間、寒波がヨーロッパのいくつかの地域を襲い、大きな不自由と甚大な損害をもたらしています。わたしはこの激しい悪天候の被害を受けた人々に寄り添うことを表明したいと思います。そして、犠牲者とそのご家族のために祈ってくださるようお願いします。同時に、この悲惨な出来事に苦しむ人々に寛大な支援が行われるよう、連帯を示してくださるよう促します」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日は皆様とともに、間もなく死のうとしているときのイエスの祈りについて考察したいと思います。その際、聖マルコと聖マタイの記事を取り上げます。二人の福音書記者は、死のうとするイエスの祈りを、記事が書かれた言語のギリシア語によってだけでなく、このことばの重要性のゆえに、ヘブライ語とアラム語の混ざった言語でも伝えます。二人の福音書記者はこのようにして、祈りの内容だけでなく、イエスの口がこの祈りを唱えた声までも伝えたのです。わたしたちは本当にイエスのことばをそのままの形で耳にします。同時に二人の福音書記者は、十字架のもとにいた人々の態度も記しました。彼らはこの祈りを理解せず、あるいは、理解しようともしませんでした。
 たった今朗読されたとおり、聖マルコは述べます。「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』。これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(マルコ15・33-34)。記事の枠組みの中で、イエスの祈りと叫び声は、暗闇の三時間の頂点で上げられます。暗闇は午後の十二時から三時まで全地に降ります。この闇に満ちた三時間は、それに先立つ時を継続します。この先立つ時も、三時間で、イエスが十字架につけられることによって始まります。実際、福音書記者マルコは、わたしたちに告げます。「イエスを十字架につけたのは、午前九時であった」(マルコ15・25参照)。記事の時間的な指示の一致から、イエスの十字架上での六時間は、同じ時間の長さをもつ、二つの部分に分けられます。
 九時から十二時までの最初の三時間には、さまざまなグループの人々の嘲弄が置かれます。この人々は疑いを示し、不信仰を述べます。聖マルコはいいます。「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った」(マルコ15・29)。「同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った」(マルコ15・31)。「一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった」(マルコ15・32)。続く十二時から「三時まで続いた」三時間では、福音書記者は、全地に暗闇が降ったことだけを語ります。人の動きやことばには何も言及されることなしに、闇だけが全情景を支配します。イエスがますます死に近づいたとき、「全地」に降ったのは闇だけでした。全宇宙もこの出来事にあずかります。闇は人とものを包みますが、この闇の時にも、神はそこにおられ、そこを離れ去りません。聖書の伝統の中で、闇は両義的な意味をもちます。闇は悪の現存と働きを示すしるしです。しかし、それは神の不思議な現存と働きを示すしるしでもあります。神はあらゆる暗闇に打ち勝つ力をもつからです。たとえば出エジプト記にはこう書かれています。「主はモーセにいわれた。『見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む』」(出エジプト19・9)。また、こうも書かれています。「民は遠く離れて立ち、モーセだけが神のおられる密雲に近づいて行った」(出エジプト20・21)。申命記の記事の中で、モーセはこう語ります。「山は燃え上がり、火は中天に達し、黒雲と密雲が垂れこめていた」(申命記4・11)。「山は火に包まれて燃え上がり」、あなたたちは「暗闇からとどろく声を聞いた」(申命記5・23)。イエスが十字架につけられた情景の中で、大地を覆った闇は、死の闇です。神の子はこの死の闇に自らを浸します。それは、ご自分の愛のわざによっていのちをもたらすためです。
 聖マルコの記事に戻ります。さまざまな種類の人々の侮辱と、すべてのものに降る闇の中で、死を前にした時に、イエスは祈りの叫び声をもって次のことを示します。神が離れ去り、不在であるかのように思われる、苦しみと死の重荷を担いながら、イエスは御父がそばにおられることを完全に確信していました。他のときのように天からの声は聞こえなくても、御父は、この最高の愛のわざを、ご自分を完全にささげるわざを認めてくださるからです。福音書を読むと、次のことに気づきます。地上の生涯についての他の重要な箇所では、イエスは、御父がともにいて、自らの愛の歩みを認めることに伴うしるしと、また神のはっきりとした声までもご覧になりました。それゆえ、ヨルダン川での洗礼に続く出来事の中では、天が裂けて、御父のことばが聞こえました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1・11)。さらに変容のとき、雲のしるしに、次のことばが伴いました。「これはわたしの愛する子。これに聞け」(マルコ9・7)。しかし、十字架の死が近づいたとき、沈黙が降って来ます。何の声も聞こえません。けれども、御父の愛のまなざしは、御子の愛のたまものの上にとどまり続けます。
 しかし、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というイエスの祈り、御父に投げかけられた叫び声は、何を意味するのでしょうか。それは自分の使命や、御父がともにいてくださることへの疑いでしょうか。この祈りのうちにあるのは、自分は見捨てられたという自覚ではないでしょうか。イエスが御父に向けて述べたことばは、詩編22の冒頭句です。詩編22の中で、詩編作者は、独りきりにされたという感覚と、神がご自分の民のただ中におられるという確かな自覚との間の緊張を神に示します。詩編作者は祈ります。「わたしの神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。だがあなたは、聖所にいまし、イスラエルの賛美を受けるかた」(3-4節)。詩編作者は「呼び求める」といいます。それは、不在であるかのように思われる神に祈る苦しみを余すところなく表すためです。苦悩のときに、祈りは叫び声となるのです。
 これはわたしたちの主との関係においても起こることです。きわめて困難で苦しい状況の中で、神が自分の声を聞いてくださらないかのように思われるとき、心にのしかかる重荷をすべて神にゆだねることを恐れてはなりません。自分の苦しみについて神に叫び声を上げることを怖がってはなりません。たとえ神が沈黙しておられるかのように思われても、神がそばにいてくださることを確信しなければなりません。
 イエスは、十字架上から、詩編の冒頭句の「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」――「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27・46)ということばを繰り返して述べ、詩編のことばで叫び声を上げながら、人々から徹底的に拒絶され、見捨てられたときに祈ります。しかしイエスは、この詩編によって祈るとき、人間の死の悲劇を感じるこの時も、父である神がともにいてくださることを自覚しておられます。にもかかかわらず、わたしたちのうちに次の問いが生じます。力ある神が、恐ろしい試練にある御子を支えるために手を差し伸べないことが、どうしてありうるのだろうか。次のことを理解することは大切です。イエスの祈りは、死に対する絶望に襲われた人の叫び声でもなければ、自分が見捨てられたと知った人の叫び声でもありません。イエスはこの時、詩編22全体を自分のものとします。詩編22は、苦しむイスラエルの民の詩編です。こうしてイエスは、ご自分の民の苦しみだけでなく、悪に押しつぶされて苦しむすべての人の苦しみをご自分の身に担います。そしてイエスは、これらのすべての苦しみを神のみ心へとささげます。ご自分の叫び声が復活のときに聞き入れられることを確信しているからです。「この上ない苦悩の叫び声は、同時に、神がこたえてくださることへの確信でもあります。救いの確信でもあります。この救いは、イエスご自身だけのためのものではなく、『多くの人』のためのものです」(『ナザレのイエス』第二巻:Gesù di Nazaret, II, 239-240)。このイエスの祈りには、神のみ手に対する徹底的な信頼と委託がこめられています。たとえ、わたしたちに理解しえないご計画に従って、神が不在であり、沈黙を続けておられるかのように思われてもです。『カトリック教会のカテキズム』はいいます。「イエスは・・・・御父とともにつねに抱いていたあがないをもたらす愛によって、罪のために神から離反しているわたしたちの境遇を引き受け、十字架上ではわたしたちの一人として、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』と叫ぶことができたのです」(同603)。イエスの苦しみは、わたしたちとの交わりのうちになされる、わたしたちのための苦しみです。この苦しみは、愛にもとづき、それ自体によって、すでにあがないと愛の勝利をもたらします。
 イエスの十字架のもとにいた人々は、悟ることができず、イエスの叫び声はエリヤに向けた祈願だと考えました。興奮した状況の中で、彼らはイエスの渇きをいやそうとします。それは、イエスのいのちを長引かせ、エリヤが本当にイエスを助けに来るか確かめるためでした。しかし、大きな叫び声をもって、イエスの地上の生涯と、彼らの望みは絶たれました。イエスは最期の時に、心から苦しみを表します。しかし、同時にイエスは、御父がともにいてくださることの感覚と、人類を救おうとする御父のご計画への同意を示します。わたしたちも、「今」の苦しみに、神の不在に、つねに新たに直面します。わたしたちは祈りの中で何度もそのことを言い表します。けれどもわたしたちは、復活の「今」に、神がこたえてくださる「今」の前にも置かれます。神はわたしたちの苦しみをご自分の身に担います。それは、わたしたちとともに苦しみを担い、わたしたちがいつか苦しみに打ち勝つという堅固な希望を与えるためです(教皇ベネディクト十六世回勅『希望による救い』35-40参照)。
 親愛なる友人の皆様。祈るときに、自分の日々の十字架を神にささげようではありませんか。神がともにいてくださり、わたしたちの声を聞いてくださることを確信しながら。イエスの叫び声はわたしたちに次のことを思い起こさせてくれます。わたしたちは祈りの中で、自分の「自我」とさまざまな問題という障壁を乗り越え、他の人の必要と苦しみへと心を開かなければなりません。十字架上で死にゆくイエスの祈りがわたしたちに教えてくれますように。日々の生活の重荷を感じる人、困難の時を過ごす人、苦しみのうちにある人、だれからも慰めのことばをかけてもらえない人――これらの多くの兄弟姉妹のために愛をもって祈ることを。これらすべての人を神のみ心にささげようではありませんか。彼らが神の愛を感じることができますように。神は決してわたしたちをお見捨てにならないからです。ご清聴ありがとうございます。

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