教皇ベネディクト十六世の304回目の一般謁見演説 死を前にしたイエスの祈り(ルカ23・34参照)

2月15日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の304回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2011年5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第27回として、「死を前にしたイエスの祈り(ルカ23・34参照)」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 先週の祈りの学びやで、詩編22からとられた十字架上でのイエスの祈りについてお話ししました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。今回もわたしは、死を間近にした十字架上でのイエスの祈りについての考察を続けたいと思います。今日は聖ルカによる福音書に見られる記事について考えてみたいと思います。福音書記者ルカは、十字架上でのイエスの三つのことばを伝えてくれました。そのうちの二つ――第一のことばと第三のことば――は、はっきりと御父に向けられた祈りです。これに対して、第二のことばは、イエスとともに十字架につけられた、いわゆるよい盗賊に対してなされた約束です。実際、イエスは盗賊の祈りにこたえて、彼にこう約束します。「はっきりいっておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23・43)。それゆえルカの記事の中で、御父に向けた死ぬ前のイエスの二つの祈りと、悔い改めた罪人がイエスに行った祈願を受け入れたことは、意味深いしかたでより合わされています。イエスは御父に祈り求めると同時に、しばしば「悔い改めた盗賊(latro poenitens)」と呼ばれるこの男の祈りを聞き入れるのです。
 この三つのイエスの祈りについて考えてみたいと思います。第一の祈りは、イエスが十字架に釘づけにされた直後に唱えられました。その間、兵士たちは、自分たちの奉仕の惨めな報いとして、イエスの服を分け合いました。ある意味で兵士たちのこの行為は、十字架刑の過程をしめくくるものです。聖ルカは述べます。「『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスはいわれた。『父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです』。人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った」(ルカ23・33-34)。イエスが御父に向けて述べた第一の祈りは、執り成しです。イエスは自らの死刑執行人に対するゆるしを願います。このことによって、イエスは山上の説教の中で教えたことを自ら実現します。山上の説教の中でイエスはこう述べました。「しかし、わたしのことばを聞いているあなたがたにいっておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(ルカ6・27)。そしてイエスは、ゆるすことのできる人々に約束も与えました。「そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高きかたの子となる」(35節)。今やイエスは十字架上で、自分の死刑執行人をゆるすだけでなく、直接御父に向かって、彼らのために執り成すのです。
 このようなイエスの態度の感動的な「倣(まな)び」が、最初の殉教者である聖ステファノの石打ちに関する記事に見いだされます。実際、ステファノは、最期が近づいたとき、「ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこういって、眠りについた」(使徒言行録7・60)。これがステファノの最後のことばでした。イエスのゆるしの祈りと、最初の殉教者ステファノのゆるしの祈りを比較すると、意味深いことが分かります。聖ステファノは復活した主に向かい、自分を殺害すること――それは、「この罪」ということばではっきりと定義づけられた行為です――の責任を、自分に石を投げる人々に負わせないようにと願います。十字架上のイエスは御父に向かい、自分を十字架につけた人々へのゆるしを願うだけでなく、そこで行われていることについての解釈も示します。実際、イエスのことばによれば、彼を十字架につけた人々は「自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23・34)。すなわちイエスは、この「知らない」という無知を、御父にゆるしを願う理由として提示します。なぜなら、この無知は、回心へと開かれた道を残すからです。イエスの死に対して百人隊長が述べたことばに見られるとおりです。「本当に、この人は正しい人――すなわち神の子――だった」(47節)。「本当に知らなかった人――死刑執行人――の場合にも、知りながらイエスを非難した人の場合にも、主は無知を、ゆるしを願う理由として示しました。このことはすべての時代、すべての人にとって慰めであり続けます。イエスは、無知を、わたしたちの心を回心へと開くことができる扉とみなすのです」(『ナザレのイエス』第二巻:Gesù di Nazaret, II, 233)。
 聖ルカが記録した、十字架上でのイエスの第二のことばは、希望のことばです。それは、イエスとともに十字架につけられた二人の男のうちの一人の祈りに対するこたえです。このよい盗賊は、イエスの前で自分に立ち帰って、悔い改めます。彼は自分が神の子のみ前にいることに気づきます。神の子は、神のみ顔そのものを目に見えるようにしてくださいます。そこで彼はイエスに祈ります。「イエスよ、あなたのみ国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)。この祈りに対する主のこたえは、願い以上のものでした。「はっきりいっておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)。イエスは、自分が御父との交わりにただちに入り、神の楽園への道を再び開くことを自覚しておられました。それゆえイエスは、このこたえを通して、堅固な希望を与えてくれます。神のいつくしみは、生涯の最後の瞬間においてもわたしたちに触れることが可能です。心からの祈りは、たとえ間違った生活の後であっても、息子の帰還を待ち望むいつくしみ深い御父の開かれた腕に迎え入れられるのです。
 さて、死にゆくイエスの最後のことばを考えてみたいと思います。福音書記者ルカは語ります。「すでに昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます』。こういって息を引き取られた」(44-46節)。この記事はいくつかの点で、マルコとマタイにおいて示される場面と異なります。マルコにおいては、三時間の暗闇のことは詳しく記述されません。これに対してマタイにおいては、三時間の暗闇は終末のさまざまな出来事と結びつけられます。すなわち、地震、墓が開くこと、死者が生き返ることです(マタイ27・51-53参照)。ルカにおいて、三時間の暗闇の原因は、日食です。しかし、このとき神殿の垂れ幕も引き裂かれます。こうしてルカの記事は二つのしるしを示します。この二つのしるしは、ある意味で、天上と神殿で並行します。天は光を失い、地上は沈みます。一方、神の現存の場である神殿では、至聖所を守っていた垂れ幕が引き裂かれます。イエスの死は、宇宙的かつ典礼的な出来事としてはっきりと特徴づけられます。とくにそれは、新しい礼拝の始まりを告げます。この新しい礼拝は、人間の築いた神殿で行われるのではありません。なぜなら、死んで復活したイエスのからだそのものが、民を集め、御からだと御血の秘跡のうちに一致させるからです。
 「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」という、苦しみの最中でのイエスの祈りは、きわみまで完全に神に身をゆだねる力強い叫び声です。この祈りは、自分が見捨てられたのではないことへの完全な自覚を表します。最初の呼びかけ――「父よ」――は、イエスが十二歳のときに行った最初の宣言を思い起こさせます。そのときイエスは、エルサレム神殿に三日間とどまりました。今やこの神殿の垂れ幕が引き裂かれます。さらに、両親が自分たちが心配していたことを告げると、イエスはこたえていいました。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(ルカ2・49)。初めから終わりまで、イエスの思い、ことば、行いを完全に規定しているのは、御父との独自の関係です。イエスは十字架上でも、愛のうちに、この神との子としての関係を完全に生きます。そしてこの関係が、彼の祈りを促すのです。
 「父よ」と呼びかけた後、イエスが発したことばは、詩編31のことばを繰り返します。「み手にわたしの霊をゆだねます」(詩編31・6)。しかしこのことばは、単なる引用ではありません。それはむしろ固い決意を表します。イエスは完全な委託のわざをもって、御父に自分を「ゆだねます」。このことばは、神の愛への信頼に満ちた「委託」の祈りです。死を前にしたイエスの祈りは、すべての人にとってそうであるのと同じように、悲劇的です。しかし、同時にそれは深い落ち着きに満ちています。この落ち着きは、御父への信頼と、自分を完全に御父にゆだねようとする意志から生まれます。ゲツセマネで、最後の戦いと、もっとも激しい祈りのうちに入り、「人々の手に引き渡されようとして」(ルカ9・44)いたとき、イエスの汗は「血の滴るように地面に落ち」(ルカ22・44)ました。しかし、彼の心は完全に御父のみ心に忠実でした。だから、「天使が天から現れて、イエスを力づけた」(ルカ22・42-43参照)のです。今や最期の瞬間に、イエスは御父に向かっていいます。まことに、あなたのみ手にわたしは全生涯をゆだねますと。イエスは、エルサレムに向かって旅立つ前に、弟子たちに強調していわれました。「このことばをよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている」(ルカ9・44)。今や、いのちが自分から離れ去ろうとするときにあたって、イエスは祈りのうちに自分の究極的な決意を封印で固めます。イエスの身は「人々の手に引き渡され」ます。しかしイエスは、自分の霊を御父のみ手にゆだねます。福音書記者ヨハネがいうとおり、こうしてすべてが成し遂げられました。最高の愛のわざが、この上のないものとなりました。それは限界にまで、そればかりか、限界を超えたところにまで達したのです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。地上の生涯の最後の瞬間における十字架上でのイエスのことばは、わたしたちの祈りに大切な教えを示します。それはまたわたしたちの祈りを、落ち着いた信頼と、堅固な希望へと開くものでもあります。自分を十字架につけた人々をゆるしてくださるよう御父に願われたイエスは、わたしたちを招きます。あなたがたに不正を行う人、あなたがたを傷つける人のために祈るという困難なわざを行いなさい。つねにゆるすことができるようになりなさい。それは、神の光がこれらの人々の心を照らすことができるようにするためです。イエスはわたしたちを招きます。あなたがたが祈るとき、神があなたがたに対して示すのと同じ、あわれみと愛の態度を実践しなさい。わたしたちは「主の祈り」の中で毎日こう唱えます。「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」。同時に、死ぬぎりぎりのときまで、父である神のみ手にご自分を完全にゆだねられたイエスは、わたしたちに次の確信を与えてくださいます。たとえどれほど辛い試練、困難な問題、深い苦しみのうちにあっても、わたしたちが神のみ手の外に落ちることはありません。わたしたちを造られた神のみ手は、わたしたちを支え、わたしたちの生涯の歩みをともに歩んでくださいます。わたしたちの生涯の歩みは、限りない、忠実な愛によって導かれるからです。ご清聴ありがとうございます。

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