教皇ベネディクト十六世の305回目の一般謁見演説 四旬節の意味

2月22日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の305回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、この日の灰の水曜日から始まる「四旬節の意味」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の講話では、今日の灰の水曜日の典礼から始まる四旬節について簡単に考えてみたいと思います。四旬節は聖なる過越の三日間へとわたしたちを導く、四十日間の旅路です。聖なる過越の三日間は、わたしたちの救いの神秘の中心である、主の受難と死と復活を記念します。教会生活の初期の時代、四旬節は、キリストについての知らせを聞いて受け入れた人が、洗礼の秘跡を受けるための信仰と回心の道を少しずつ歩み始める期間でした。それは生ける神に近づくことであり、入信の過程でした。入信の過程は、洗礼志願者の内的な変容を通じて、少しずつ行われます。洗礼志願者とは、キリスト信者となり、キリストと教会に組み入れられることを望む者のことです。
 その後、回心者と、さらにすべての信者も、この霊的刷新の歩みを体験するよう招かれました。それは、自分の生き方をますますキリストの生き方に似たものとするためです。共同体全体が四旬節の歩みのさまざまな段階に参加することは、キリスト教的霊性の重要な側面を強調します。すなわち、あがないは、キリストの死と復活のおかげで、一部の人だけでなく、すべての人に与えられることが可能だということです。それゆえ、洗礼を受けるために洗礼志願者として信仰の道を歩む者も、神と信仰共同体から離れた後に和解を求める者も、教会との完全な交わりのうちに信仰を生きる者も、皆、次のことを知っていました。すなわち、復活祭に先立つ期間は、回心(メタノイア)、つまり内的変容と悔い改めの時期であるということです。それは、人間生活と歴史全体は、回心の過程であることを示す時期です。わたしたちは世の終わりに主と相まみえるために、今、回心を始めなければなりません。
 教会は典礼の特別な表現となった用語を用いてこの時期を名づけます。今日わたしたちは「四旬節」、すなわち四十日の期間に入ります。そして教会は、明確に聖書を参照しながら、わたしたちを特別な霊的文脈へと導きます。実際、四十は、神の民の信仰体験の重大な出来事を表すために旧新約が用いる、象徴的な数字です。それは、期待し、清められ、主に立ち帰り、神がご自分の約束を忠実に守られることを自覚する時を表す象徴です。この数字は、日数に分けることのできる、正確に計った期間を表すものではありません。むしろそれは、忍耐と堅忍、長い試練、神のわざを見るための苦しみの期間、遅滞することなく責任をとる決断を行うべき時期を表します。それは成熟した決断を行う時期なのです。
 四十という数はまず、ノアの物語に現れます。義人ノアは、洪水のために、家族と、神が一緒に運ぶように命じた動物とともに、四十日四十夜、箱舟の中で過ごします。さらにノアは、洪水の後も、大地を見いだし、破滅から救われるまで、もう四十日待ちました(創世記7・4、12、8・6参照)。さらに次の段階はこれです。モーセは、律法を与えられるために、シナイ山で、主のみ前に四十日四十夜とどまります。彼はその間ずっと断食しました(出エジプト24・18参照)。四十は、ユダヤ民族がエジプトから約束の地に向けて旅した年数です。それは神の忠実さを体験するのにふさわしい時期でした。モーセはこの四十年間の移住が終わるとき、申命記の中で述べます。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。・・・・この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」(申命記8・2、4)。イスラエルが士師のもとで平穏に過ごした年数も四十です(士師記3・11、30参照)。しかし、この時期が過ぎると、人々は神の恵みを忘れ、罪に戻り始めます。預言者エリヤは四十日間かけてホレブの山に着き、そこで神と出会います(列王記上19・8参照)。四十は、ニネベの都の人々が神のゆるしを得るために悔い改めた日数です(ヨナ3・4参照)。四十は、イスラエルの最初の三人の王であるサウル(使徒言行録13・21参照)、ダビデ(サムエル記下5・4-5参照)、ソロモン(列王記上11・41参照)が統治した年数でもあります。詩編も四十年の聖書的な意味を考察します。たとえば、詩編95には次の箇所が見いだされます。「今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。『あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように、心を頑にしてはならない。あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしのわざを見ながら、なおわたしを試した。四十年の間、わたしはその世代をいとい、心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった』」(7c-10節)。
 新約において、イエスは、公生活を開始する前に、荒れ野に退いて、四十日間、食べ物も飲み物も口にしませんでした(マタイ4・2参照)。イエスは神のことばを糧とし、これを悪魔に打ち勝つための武具として用いました。イエスの誘惑は、ユダヤの民が荒れ野で遭遇して、打ち勝つことのできなかった誘惑を思い起こさせます。復活したイエスは、天に上げられ、聖霊を遣わす前に、四十日間、弟子たちを教えます(使徒言行録1・3参照)。
 このように何度も繰り返される四十という数字は、ある霊的な文脈を示します。この霊的な文脈は、現代的な意味と有効性を保ち続けます。教会は、まさに四旬節の日々を通じて、この不変の価値を保ち、その有効性をわたしたちに自覚させようとするのです。キリスト教の四旬節の典礼が目指すのは、長期にわたる聖書の体験に照らしながら、霊的刷新の歩みを深めることです。それは何よりも、イエスに倣うことを学ぶためです。イエスは、荒れ野で過ごした四十日間の中で、神のことばによって誘惑に打ち勝つことを教えてくださるからです。イスラエルが荒れ野を旅した四十年は、両義的な態度と状況を示します。一方で、この四十年は、神との最初の愛、すなわち神と神の民の間の最初の愛の時期です。そのとき神はイスラエルの心に語りかけ、歩むべき道を絶えず教えました。神はいわばイスラエルのただ中に住まい、雲と火の柱をもって彼らに先立って進み、マナを降らせ、岩から水を湧き上がらせて、彼らに日ごと、糧を与えました。それゆえ、イスラエルが荒れ野で過ごした四十年は、神の特別な選びと、民の神への信従の期間とみなすことができます。それは最初の愛の時期です。他方で、聖書はイスラエルの荒れ野での旅のもう一つの姿も示します。それは誘惑と大きな危険の時期でもありました。そのときイスラエルは自らの神に反抗してつぶやき、異教に戻って、自分たちの偶像を造ろうと望みました。もっと身近で、手で触れることのできる神を拝みたいと望んだためです。四十年は、偉大で目に見えない神に対する反抗の時期でもありました。
 神に特別に近づいた時期(最初の愛の時期)と、誘惑(異教への回帰の誘惑)の時期――この両義性を、わたしたちはイエスの地上の歩みの中に驚くべきしかたで再び見いだします。しかし、もちろんイエスにおいては罪とのいかなる妥協も見られません。イエスはヨルダン川で悔い改めの洗礼を受けました。この洗礼によって、イエスは神のしもべの運命を自ら引き受けます。神のしもべは自分を捨てて、他の人々のために生き、世の罪を自らの上に負うために、自分を罪人の中に置きます。その後、イエスは荒れ野に行き、四十日間、御父との深い一致のうちにとどまります。こうしてイエスは、イスラエルの歴史と、そこにしるされた四十日あるいは四十年のリズムのすべてを反復します。この動きは、イエスの地上の生涯の中で変わらずに続きます。イエスはつねに独りきりになる時を求めました。それは、ご自分の父であるかたに祈り、父との深い交わりにとどまって、父とともに深い孤独を過ごし(それはイエスだけがもつ、父との交わりだったからです)、それから、群衆のただ中に戻るためです。しかしイエスは、この「荒れ野」と御父との特別な出会いの時の中で、危険にさらされ、悪い者の誘惑とそそのかしに遭いました。悪い者は、神の計画とはかけ離れた、別のメシアの道を彼に示します。なぜなら、この道は、十字架上での完全な奉献ではなく、権力と成功と支配の上を歩むものだからです。権力と成功によってメシアとなるか、愛と自己奉献によってメシアとなるか。このいずれかを選ばなければならないのです。
 このような両義的な状況は、世と歴史の「荒れ野」を歩む教会の状況をも示します。確かにこの「荒れ野」は、わたしたち信じる者が神を深く体験するための機会ともなります。この体験はわたしたちの精神を力づけ、信仰を強め、希望を養い、愛を促します。この体験は、十字架上での愛のいけにえによって罪と死に打ち勝ったキリストの勝利にわたしたちをあずからせます。しかし「荒れ野」は、わたしたちを取り囲む現実の悪い側面でもあります。すなわち、いのちと価値に関することばの不毛と貧しさ、世俗主義と物質的な文化です。これらは、超越に目を注ぐことを完全に奪うことによって、人間を生活の現世的な側面に閉じ込めます。これは、わたしたちの上に広がる天を暗くする環境でもあります。天は、利己主義と誤解といつわりの雲で覆われるからです。にもかかかわらず、現代の教会にとっても、荒れ野の時は恵みの時に変わることができます。わたしたちは確信しているからです。神はもっとも固い岩からも、わたしたちの渇きをいやし、生き返らせる、生きた水を湧き上がらせることがおできになることを。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちを復活祭へと導くこの四十日の間、忍耐と信仰をもって、どんな困難と苦悩と試練に満ちた状況をも受け入れる新たな勇気を再び見いだすことができますように。主は暗闇から新たな日を昇らせることを悟ることができますように。イエスに忠実にとどまり、イエスに従って十字架の道を歩むなら、神の明るい世界が、光と真理と喜びに満ちた世界がわたしたちに再び与えられます。どうか皆様が恵み深い四旬節の旅路を歩まれますように。

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