教皇ベネディクト十六世の306回目の一般謁見演説 神との関係における沈黙の大切さ

3月7日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の306回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2011年5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第28回として、「神との関係における沈黙の大切さ」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。本講話をもって教皇はイエスの祈りについての連続講話を終了しました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 これまでの連続講話の中で、イエスの祈りについてお話ししてきました。この考察を終えるにあたり、イエスの沈黙というテーマを簡単に取り上げないわけにはいきません。それは神との関係においてたいへん重要だからです。
 シノドス後の使徒的勧告『主のことば』の中で、わたしは、イエスの生涯において沈黙が果たす役割について述べました。このことはとくにゴルゴタにおいていうことができます。「ここでわたしたちは『十字架のことば』(一コリント1・18参照)の前に立ちます。みことばは沈黙します。みことばは死の沈黙となります。なぜなら、みことばは『語り尽くされ』て沈黙し、わたしたちに伝えるべきものを何も残さなかったからです」(同12)。この十字架の沈黙を前にして、証聖者聖マクシモス(Maximos Homologetes; Maximus Confessor 580-662年)は神の母に次のことばを語らせます。「ことばを話すすべての被造物を造られた御父のみことばが、ことばを失います。そのことばとしるしによっていのちあるすべてのものを動かすかたの目が、いのちを失います」(『マリアの生涯』:Vita Mariae 89, Testi mariani del primo millennio, 2, Roma 1989, p. 253)。
 キリストの十字架は、イエスの沈黙を、御父に対する最後のことばとして示すだけではありません。むしろそれは、神が「沈黙」を通して「語る」ことを示します。「全能の父と引き離された体験は、受肉したみことばである神の子が歩んだ、地上の旅路の決定的な時です。十字架の木につけられたキリストは、この沈黙がもたらす苦しみを嘆きました。『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』(マルコ15・34 、マタイ27・46)。イエスは、死の暗闇の中で、息を引き取るまで忠実に歩みながら、父に呼びかけました。イエスは死を通って永遠のいのちへと過ぎ越すとき、ご自分を父にゆだねました。『父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます』(ルカ23・46)」(シノドス後の使徒的勧告『主のことば』21)。十字架上でのイエスの体験は、祈る人間の置かれた状況と、祈りの頂点を深く表します。わたしたちは、神のことばを聞き、悟った後、神の沈黙によって自らを計らなければなりません。神の沈黙は、神のことばそのものの重要な表現だからです。
 地上での生涯全体で、とくに十字架においてイエスの祈りを特徴づける、ことばと沈黙の力強い関係は、二つの方向性においてわたしたちの祈りの生活にもかかわります。第一は、神のことばを受け入れることに関してです。神のことばを聞くことができるために、内的また外的な沈黙が必要です。これは現代のわたしたちにとって特別にむずかしい点でもあります。実際、現代という時代において精神の集中を行うことは容易ではありません。わたしたちが一瞬でもことばとイメージの氾濫から離れることを恐れているかのような印象を受ける場合もあります。これらのものが生活を特徴づけ、満たしているからです。そのため、すでに引用した使徒的勧告『主のことば』の中で、わたしは沈黙の価値を教えることの必要性を思い起こさせました。「教会生活における神のことばの中心的な意味を再発見することは、黙想と内的静寂の意味を再発見することでもあります。偉大な教父の伝統は、キリストの神秘がすべて沈黙を含むことを教えてくれます。神のことばは沈黙のうちに初めてわたしたちのうちに住まうことができます。みことばの女性であり、同時に、沈黙の女性でもあったマリアのうちに行われたとおりです」(同66)。わたしたちは沈黙なしに、ことばを聞くことも、傾聴することも、受け入れることもできません。この原則は個人の祈りにもいえることですが、典礼にも当てはまります。典礼は、真に耳を傾けさせるために、沈黙と、ことばなしに受け入れるための時間を十分とらなければなりません。聖アウグスティヌスの次のことばは永遠に有効です。「みことばが栄えるとき、さまざまなことばは衰える(Verbo crescente, verba deficiunt)」(『説教集』:Sermo 288, 5: PL 38, 1307; Sermo 120, 2: PL 38, 677参照)。福音書がしばしば示すとおり、イエスは、とくに決定的な決断を行う際に、群衆や弟子たちから離れて人里離れたところに独りで退きます。それは、沈黙のうちに祈り、神との子としての関係を体験するためです。沈黙はわたしたちの心の奥深くに、神が住まうための内的な空間を作り出すことができます。こうして神のことばはわたしたちのうちにとどまります。神への愛がわたしたちの思いと心に根づき、わたしたちの生活を力づけます。それゆえ、第一の方向性は、沈黙と、聞くことへと開かれた心を学ぶことです。それが、いと高きところ、すなわち神のことばへとわたしたちの心を開くのです。
 しかし、沈黙と祈りにはもう一つの重要な関係があります。実際、神のことばを聞けるようにわたしたちを整えるのは、わたしたちの沈黙だけではありません。わたしたちは祈りの中でしばしば、神の沈黙の前に置かれます。わたしたちは見捨てられたかのような感覚を味わいます。神はわたしたちのことばを聞き入れず、こたえてくださらないかのように思われます。しかし、イエスの場合と同じように、この神の沈黙は、神の不在のしるしではありません。キリスト信者はよく知っています。主は、たとえわたしたちが苦しみと拒絶と孤独の暗闇の中にいても、ともにいて、耳を傾けてくださるということを。イエスは弟子たちとわたしたち一人ひとりに約束されます。神は、わたしたちの人生のどんなときにも、わたしたちが必要とすることをよくご存じです。イエスは弟子たちに教えられます。「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイ6・7-8)。注意深い、沈黙のうちに開かれた心が、多くのことばよりも重要です。神は、わたしたちのことをわたしたち自身よりもよく知り、愛しておられます。そして、このことを知るだけで十分です。これに関連して、聖書で述べられたヨブの体験はとくに重要です。ヨブという人はまたたく間に、家族も富も友人も健康も含めて、すべてを失います。神のヨブに対する態度は、遺棄と完全な沈黙であるように思われます。にもかかわらず、ヨブは神との関係の中で、神と語り、神に叫び声を上げます。どんなことがあっても、ヨブは祈りの中で自らの信仰を完全に保ちます。そしてついに彼は自らの体験と神の沈黙の意味を見いだします。こうしてヨブは最後に創造主に向かって、こう結論づけることができます。「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」(ヨブ42・5)。わたしたちは皆、あたかも神が語るのを聞くことを通してのみ神を知ります。しかしわたしたちは、神の沈黙と自らの沈黙に心を開けば開くほど、神を真に知ることができるようになります。神との深い出会いへと開かれた、このような最高の信頼は、沈黙の中で深まります。聖フランシスコ・ザビエル(Francisco Xavier 1506-1552年)は、主にこういって祈りました。わたしが御身を愛するのは、御身がわたしに楽園を与え、あるいはわたしを地獄に定めることがおできになるからではありません。御身がわたしの神だからです。わたしは御身が御身であるがゆえに御身を愛します。
 イエスの祈りに関する考察を終えようとするにあたり、『カトリック教会のカテキズム』のいくつかの教えが思い起こされます。「祈りの劇的な性格は、人となってわたしたちとともにおられるみことばにおいて完全に明らかにされます。キリストの祈りを、その証人たちが福音書の中で告げていることを通して理解したいならば、燃える柴に近づくかのように、聖なる主イエスに近づかなければなりません。すなわち、まず祈りの中でイエスご自身を観想した上で、わたしたちに祈り方を教えようとしておられる主のことばに耳を傾けるならば、主がどのようにわたしたちの祈りを聞き入れてくださるかを知ることができるでしょう」(同2598)。イエスはどのようにわたしたちに祈り方を教えてくださるでしょうか。『カトリック教会のカテキズム要約』には明快な答えが書かれています。「イエスは『主の祈り』によってだけでなく(もちろんそれが、祈り方を教えるわざの中心ですが)、ご自分が祈るときも祈ることをわたしたちに教えておられます。このようにしてイエスは、祈りの内容だけでなく、真に祈るために必要な心構えをわたしたちに示されます。すなわち、神の国を求め、敵をゆるす心の清さ。わたしたちが感じたり理解したりすることがらを超越する、大胆な子としての信頼。そして弟子たちを誘惑から守るための、目覚めて祈ることです」(同544)。
 福音書を読むと、主はわたしたちの祈りの相手、友、証人、教師であることが分かります。イエスのうちに、わたしたちの神との対話の新しい要素が示されます。すなわち、御父が自らの子らに期待しておられる、子としての祈りです。わたしたちはイエスから次のことも学びます。絶えざる祈りは、わたしたちが自分の人生の意味を読み取り、決断を下し、自らの召命を見いだして受け入れ、神が与えてくださった才能(タレント)を発見し、日々神のみ心を果たす上で助けとなります。神のみ心を果たすことこそが、わたしたちが人生を実現するための唯一の道です。
 わたしたちはしばしば作業効率や、達成できる具体的な成果に気をとられています。イエスの祈りは、そのようなわたしたちに教えてくれます。わたしたちが立ち止まって、神との親しい交わりの時を過ごさなければならないことを。日々の騒音から「離れ」なければならないことを。それは、耳を傾け、人生を支え養ってくれる「根拠」に向けて歩むためです。イエスの祈りの中でもっともすばらしい瞬間は、イエスが、自分に語りかける人々のさまざまな病気や苦難や限界に立ち向かうために、ご自分の父に向かって祈るときです。こうしてイエスは、ご自分の周りにいる人々に、希望と救いの泉をどこに探さなければならないかを教えます。すでにわたしは、感動的な例として、ラザロの墓のそばでのイエスの祈りを思い起こしました。福音書記者ヨハネは語ります。「人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いでいわれた。『父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこういうのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです』。こういってから、『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた」(ヨハネ11・41-43)。しかし、御父に対する祈りが最高の深みに達したのは、イエスが受難と死の時を迎えたときです。そのときイエスは、神の計画を最高のしかたで受諾して、次のことを示します。人間の意志が実現されるのは、神のみ心に完全に従うことによってであって、これに逆らうことによるのではありません。イエスの祈り、それも十字架上での御父への叫び声のうちに、「罪と死の奴隷であるすべての時代の人類のすべての悲嘆、救いの歴史におけるあらゆる願いや執り成しの祈りが集約されています。そこで、御父はこれらを受けとめ、ご自分の御子を復活させることによって、あらゆる期待を超えた形でお聞き入れになります。こうして、創造と救いの営みの中での祈りのドラマは成就し、完成されます」(『カトリック教会のカテキズム』2606)。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。信頼をこめて主に願おうではありませんか。わたしたちが子としての祈りの道を歩めるようにしてください。そのために、わたしたちのために人となられた独り子から、日々、神に向かうことを学ばせてください。あらゆるキリスト教的生活について述べた聖パウロのことばは、わたしたちの祈りにも当てはまります。「わたしは確信しています。死も、いのちも、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8・38-39)。

略号
PL Patrologia Latina

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