教皇ベネディクト十六世の2012年3月11日の「お告げの祈り」のことば イエスの熱意

教皇ベネディクト十六世は、四旬節第三主日の3月11日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリ […]


教皇ベネディクト十六世は、四旬節第三主日の3月11日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「わたしの思いは愛するマダガスカルの国民に向かいます。マダガスカルは最近激しい自然災害に見舞われ、人間と建物と農業に大きな被害を受けました。わたしは、犠牲者と大きな試練に遭う家族の皆様のために祈ることを約束するとともに、国際社会が惜しみなく救援の手を差し伸べてくださることを願い、励まします」。
2月26日(日)から27日(月)にかけて熱帯性低気圧「イリーナ」がマダガスカル北部を通過し、3月8日(木)の同国の自然災害管理局(BNGRC)の発表によると、少なくとも72名が死亡、3名が行方不明となっています。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 四旬節第三主日の福音は(聖ヨハネの記事を通して)、イエスがエルサレム神殿から動物を売る者や両替をしている者を追い出したという有名な逸話を報告します(ヨハネ2・13-25参照)。すべての福音書記者が伝えるこの出来事は、過越祭が近づいていたときに起き、群衆にも弟子たちにも深い印象を与えました。わたしたちはこのイエスの行為をどのように解釈すべきでしょうか。まず注意しなければならないことはこれです。イエスの行為は、公的秩序を守る人々によって決して鎮圧されませんでした。なぜなら、それは典型的な預言的行為とみなされたからです。実際、預言者はしばしば神の名をもって違法な行為を非難しました。その際、預言者は時として象徴的な行為を用いました。もし問題となるとすれば、それはこの行為の権威でした。だからユダヤ人はイエスに「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」(ヨハネ2・18)と問いかけました。つまり、あなたは本当に神の名をもって行為しているのか示してほしいと。
 イエスを熱心党(ゼーロータイ)運動と関連づけることにより、神殿からの商人の追放が、政治的・革命的な意味で解釈されたこともあります。熱心党は、神の律法にまさしく「熱心」であるがゆえに、律法を尊重させるために進んで暴力を行使しました。イエスの時代、熱心党の人々は、ローマ人の支配からイスラエルを解放してくれるメシアを待望していました。しかし、イエスはこの期待を裏切りました。そこで、一部の弟子はイエスから離れ去り、イスカリオテのユダはさらにイエスを引き渡しました。実際のところ、イエスを暴力を振るう人と解釈するのは不可能です。暴力は神の国と相容れません。また暴力は反キリストの手段の一つです。暴力は人類のために決して役立たず、むしろ人類を非人間的なものとします。
 ですから、イエスがこの行為を行いながら述べたことばに耳を傾けたいと思います。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」。そのとき弟子たちは詩編に書かれたことばを思い出しました。「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」(詩編69・10)。この詩編は、敵の憎しみによって引き起こされたきわめて危険な状況において助けを求める祈願です。イエスもご自身の受難においてこのような状況をこれから味わうことになります。父と父の家に対する熱意は、イエスを十字架へと導くことになります。イエスの熱意は、暴力を用いて神に仕えようとする熱意ではなく、自らを犠牲にする愛による熱意です。実際、イエスが自らの権威の証拠として与える「しるし」は、ご自分の死と復活です。イエスはいわれます。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」。聖ヨハネは解説していいます。「イエスのいわれる神殿とは、ご自分のからだのことだったのである」(ヨハネ2・20-21)。イエスの過越によって、新しい礼拝が、愛による礼拝が、新しい神殿が始まります。新しい神殿とは、イエスご自身です。復活したキリストです。すべての信じる者は、この復活したキリストを通して「霊と真理をもって」(ヨハネ4・23)父である神を礼拝することができるからです。
 親愛なる友人の皆様。聖霊はおとめマリアの胎内でこの新しい神殿を築き始めました。マリアの執り成しを通じて祈ろうではありませんか。すべてのキリスト信者がこの霊的な家の生きた石となることができますように。

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