教皇ベネディクト十六世の307回目の一般謁見演説 初代教会を形成する弟子のグループとともにいて祈るマリア

3月14日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の307回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、新しいテーマの「使徒言行録と聖パウロの手紙における祈り」に関する連続講話を開始し、その第1回として、「初代教会を形成する弟子のグループとともにいて祈るマリア」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の講話から、使徒言行録と聖パウロの手紙における祈りについての話を始めたいと思います。ご存じのとおり、聖ルカは、イエスの地上での生涯を扱う、四福音書の一つをわたしたちに与えましたが、教会史に関する最初の著作と呼ばれる書物も残しました。すなわち使徒言行録です。この二つの書物の中で繰り返し現れる要素は、まさしく祈りです。それには、イエスの祈りから、マリア、弟子、女性、そしてキリスト教共同体の祈りまでが含まれます。教会の最初の歩みのリズムを刻むのは、第一に聖霊の働きであり(聖霊は使徒たちを、復活したキリストを血を流してまであかしする証人に造り変えます)、第二に、東方と西方への神のことばの急速な広まりです。しかし、福音が広く告げ知らされる前に、聖ルカは復活したキリストの昇天の出来事を報告します(使徒言行録1・6-9参照)。主は弟子たちに、福音宣教にささげる生涯の計画を示して、次のように述べます。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1・8)。イスカリオテのユダの裏切りのために十一人になっていた使徒たちは、エルサレムで祈るために家の中に集まりました。そして、まさに彼らは祈りながら、復活したキリストが約束したたまものである聖霊を待望します。
 この主の昇天と聖霊降臨の間の、待望という状況とのかかわりで、聖ルカは最後にイエスの母マリアと、イエスの親族に言及します(14節)。聖ルカは自らの福音書の冒頭でマリアを扱います。天使のお告げから、降誕と、人となった神の子の幼年時代に至るまでです。イエスの地上の生涯はマリアとともに始まります。そして教会の最初の歩みもマリアとともに始まります。いずれの場合も、その雰囲気は、神のことばを聞いて、受け入れることです。それゆえ、わたしは今日、初代教会を形成した弟子たちのグループの中にともにいて祈るおとめマリアについて考察したいと思います。マリアは、公生活の間、十字架のもとに至るまで、御子の歩みのすべてに慎み深く従いました。そして今やマリアは、静かな祈りをもって教会の歩みに従い続けます。ナザレの家でのお告げのとき、マリアは神の天使を受け入れます。彼女は天使のことばに注意深く耳を傾け、それを受け入れ、神の計画にこたえます。その際、彼女は、完全な従順の心を示します。「わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身に成りますように」(ルカ1・38参照)。マリアは、まさに聞くという内的な態度のゆえに、自らの歩むべき歴史を読み取ることができ、主がなさることを謙遜に認めることができるのです。親戚のエリサベトを訪問したとき、マリアの口から、神の恵みを賛美し、喜び、たたえる祈りがほとばしり出ます。神の恵みはマリアの心と生涯を満たし、彼女を主の母としたからです(ルカ1・46-55参照)。賛美と感謝と喜び――マリアは「マリアの賛歌」(Magnificat)の中で、神が自分の中でなさったわざだけでなく、神が歴史の中でかつて行い、今も行い続けておられるわざにも目を向けます。聖アンブロシウス(Ambrosius Mediolanensis 339頃-397年)は、「マリアの賛歌」についての有名な注解の中で、マリアと同じ祈りの精神をもつよう招きながら、こう述べます。「マリアの魂がわたしたち一人ひとりのうちにあって主をあがめますように。マリアの霊がわたしたち一人ひとりのうちにあって神をたたえますように」(『ルカ福音書注解』:Expositio Evangelii secundum Lucam 2, 26, PL 15, 1561)。
 エルサレムの二階の広間、すなわちイエスの弟子たちが「泊まっていた家の上の部屋」(使徒言行録1・13参照)でも、耳を傾け、祈る雰囲気のうちに、マリアはともにおられます。それは、弟子たちのために扉が開かれ、彼らがすべての民に主イエスを告げ知らせ、主が命じておいたことをすべて守るように教え始める前のことでした(マタイ28・19-20参照)。ナザレの家から、御子が使徒ヨハネをマリアにゆだねた十字架を経て、エルサレムの家に至るまで、マリアの歩みは、たゆまずに精神の集中を保つ力によって特徴づけられます。こうしてマリアは、すべての出来事を神のみ前で心の沈黙のうちに思い巡らします(ルカ2・19-51参照)。また、神のみ前で黙想することを通じて、神のみ心を理解し、それを心に受け入れることができるようになります。それゆえ、主の昇天の後、神の母が十一人の弟子とともにいたことは、単なる過去の出来事の歴史的な記録ではなく、深い意味を要約しています。すなわち、マリアは弟子たちと、きわめて貴重なこと、つまりイエスについての生きた記憶を、祈りのうちに共有します。マリアは、イエスについての記憶を保ち、そこから、イエスの現存を保つという使命を共有するのです。
 聖ルカの二つの著作において最後に行われるマリアへの言及は、安息日のうちに置かれます。安息日は、創造の後に神が安息なさった日です。イエスの死後、沈黙し、イエスの復活を待ち望む日です。土曜日に聖マリアを記念する伝統は、この出来事に基づきます。復活したキリストの昇天とキリスト教の最初の聖霊降臨の間、使徒たちと教会はマリアとともに集まり、マリアとともに聖霊のたまものを待ち望みます。聖霊のたまものがなければ、だれも証人となることができないからです。受肉したみことばを産むためにすでに聖霊を受けていたマリアは、教会全体とともに同じたまものを待ち望みます。それは、信じるすべての者の心のうちに「キリストが形づくられる」(ガラテヤ4・19参照)ためです。聖霊降臨がなければ教会は存在しません。そうであれば、イエスの母がいなければ聖霊降臨は存在しません。なぜなら、マリアは、教会が日々、聖霊の働きのもとに経験することを、独自のしかたで経験されたからです。そこでアクイレイアの聖クロマティウス(Chromatius Aquileiensis 407年頃没)は、使徒言行録の記録を解説していいます。「それゆえ教会は二階の広間でイエスの母マリアとイエスの兄弟たちとともに集まった。それゆえ、主の母マリアがともにおられなければ、だれも教会について語ることはできない。・・・・キリストの教会は、おとめマリアからキリストが受肉したことを告げ知らせるところである。そして、主の兄弟である使徒たちが説教し、人々が福音を聞くための場である」(『説教30』:Sermo 30, 1, SC 164, 135)。
 第二バチカン公会議は、マリアと使徒たちが、同じ場所で、聖霊を待ち望みながら、ともに祈ることのうちに目に見える形で示されたこのつながりを強調しようと望みました。『教会憲章』はいいます。「キリストの約束された霊を注ぐ以前には人類の救いの神秘を荘厳に現さないことを神はよしとされたので、使徒たちは聖霊降臨の日の前に『婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた』(使徒言行録1・14)こと、マリアも、お告げのときすでにご自分を覆った聖霊のたまものが与えられるように求めて祈っておられたことをわれわれは知っている」(同59)。マリアのおられる特別な場は教会です。マリアは教会の中で「教会の卓越してまったく独特な肢体として、さらに信仰と愛の点で教会の象型、もっとも輝かしき範型として敬われるのである」(同53)。
 ですから、教会の中でイエスの母を崇敬するとは、祈る共同体となることをマリアから学ぶことです。祈る共同体であるということこそ、使徒言行録に示された、キリスト教共同体に関する最初の記述の本質的な点の一つです(使徒言行録2・42参照)。しばしば祈りは、困難な状況や個人的な問題で占められます。わたしたちはこうした問題に促されて、主に向かって光と慰めと助けを求めます。マリアはわたしたちを招きます。祈りの次元を広げなさい。困っているときだけ、また自分自身のためだけでなく、一致と堅忍と忠実のうちに、「心も思いも一つにして」(使徒言行録4・32参照)神に向かいなさいと。
 親愛なる友人の皆様。人生はさまざまな道を通ります。人生の道はしばしば困難で努力を要します。絶対的な決断と、自己放棄と犠牲も求められます。主はイエスの母を救いの歴史の決定的な時のうちに置きました。そして彼女はつねに完全な従順をもってこたえることができました。この従順は、熱心で深い祈りのうちに培われた、神との深いきずなが生み出したものです。受難の金曜日と復活の主日の間に、主に愛された弟子は、弟子たちの共同体全体とともに、イエスの母にゆだねられました(ヨハネ19・26参照)。主の昇天と聖霊降臨の間に、イエスの母は祈る教会とともに、祈る教会のうちにおられます(使徒言行録1・14参照)。神の母であり教会の母であるマリアは、歴史の終わりに至るまでその母として気遣いを注ぎます。わたしたちの個人として、また教会としての生活のすべての歩みを、人生の最後の旅立ちも含めて、このかたにゆだねようではありませんか。マリアはわたしたちに祈りの必要性を教えてくださいます。そしてわたしたちにこう教えられます。あなたがたは、御子と絶えることのない深く完全な愛のきずなをもつことによって初めて、勇気をもって「自分の家」すなわち自我から脱け出ることができます。そこから、世の果てにまで行って、あらゆるところで、世の救い主、主イエスをのべ伝えることができるようになるのです。ご清聴ありがとうございます。

略号
PL Patrologia Latina
SC Sources Chrétiennes

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