教皇ベネディクト十六世、復活祭メッセージ(ローマと全世界へ)(2012.4.8)

4月8日(日)正午に、サンピエトロ大聖堂バルコニーから、教皇ベネディクト十六世は、復活祭のメッセージを発表しました。メッセージは「ローマと全世界へ(ウルビ・エト・オルビ)」と呼ばれ、毎年、降誕祭と復活祭に発表されています […]


4月8日(日)正午に、サンピエトロ大聖堂バルコニーから、教皇ベネディクト十六世は、復活祭のメッセージを発表しました。メッセージは「ローマと全世界へ(ウルビ・エト・オルビ)」と呼ばれ、毎年、降誕祭と復活祭に発表されています。以下はその全訳です(原文イタリア語)。
メッセージの発表の後、65か国語による祝福が述べられました。教皇は53番目に日本語で次のように述べました。「ご復活祭おめでとうございます」。最後の祝福は、ラテン語で行われました。「わたしの希望、キリストは復活した。アレルヤ(Surrexit Christus, spes mea. Alleluja!)」。復活の続唱からとられたこのことばは、復活祭メッセージ冒頭でも引用されています。最後に全世界の人々への祝福が行われました。
この日、教皇は、午前10時15分からサンピエトロ広場で復活の主日の日中のミサをささげました。


 親愛なるローマと全世界の兄弟姉妹の皆様。

 「わたしの希望、キリストは復活した(Surrexit Christus, spes mea)」(復活の続唱)。

 古代の賛歌がマグダラのマリアの口に語らせたこのことばをもって、教会の喜びの声が皆様に伝わりますように。マグダラのマリアは、復活の朝、復活したイエスに最初に出会った女性です。彼女は他の弟子たちのところへ行って、感動をもって彼らに告げ知らせます。「わたしは主を見ました」(ヨハネ20・18)。四旬節の荒れ野と受難の悲しい日々を歩んできたわたしたちも、今日、勝利の叫び声を上げます。「キリストは復活しました。キリストは本当に復活しました」。
 すべてのキリスト信者はマグダラのマリアが体験したことをあらためて体験します。この体験は、人生を変える出会いです。それは、唯一の人であるかたとの出会いです。このかたはわたしたちに神のいつくしみとまことをことごとく体験させてくれます。このかたはわたしたちを表面的でつかのまのしかたで悪から解放するのではありません。むしろ徹底的なしかたで悪から解放してくださいます。わたしたちを完全にいやし、わたしたちの尊厳ある身分を回復してくださいます。だからマグダラのマリアはイエスを「わたしの希望」と呼ぶのです。イエスは彼女を生まれ変わらせ、新たな未来を与えてくれました。それは悪から解放された、幸福な生活でした。「わたしの希望、キリスト」とは、わたしのいつくしみへの望みが、キリストのうちに本当に実現されうるということです。わたしはキリストとともに、自分の人生が幸福で完全で永遠のものとなると希望できます。なぜなら、神ご自身が、わたしたちと人間性をともにするほど、近くに来てくださったからです。
 しかし、マグダラのマリアは、他の弟子たちと同じように、イエスが民の指導者から拒絶され、逮捕され、鞭打たれ、死刑判決を受けて、十字架につけられるのを目にしなければなりませんでした。人となられたいつくしみが人間の悪意にゆだねられ、真理であるかたがいつわりによって嘲笑われ、あわれみであるかたが復讐によって侮辱されるのを目にするのは耐えがたいことだったはずです。イエスの死によって、イエスに信頼を置いていた人々の希望はついえたかのように思われました。しかし、この信仰は完全に失われたわけではありませんでした。何よりもイエスの母であるおとめマリアの心の中で、夜の闇の中でも、小さな炎が生き生きと燃え続けました。この世において、希望は強固な悪のことも無視できません。希望を妨げるのは死の壁だけではありません。嫉妬と傲慢、虚偽と暴力のとがった刺もさらなる妨げとなります。イエスはこの死の網を通って歩みました。それは、わたしたちにいのちの国に至る道を開くためです。イエスは一時的に敗北したかのように思われました。闇が地を覆い、神の沈黙がすべてとなり、希望は今やむなしいことばとなったかのように思われました。
 しかし、安息日の翌日、墓は空になっていました。それからイエスは、マグダラのマリアと他の婦人たち、そして弟子たちにご自身を現しました。信仰はこれまでになく生き生きと力強く、もはや何ものも打ち勝ちがたいものへと生き返りました。なぜなら、それは決定的な体験に基盤を置くからです。「死といのちとの戦いで死を身に受けたいのちの主は、今や生きて治められる」。復活のしるしは、死に対するいのちの、憎しみに対する愛の、復讐に対するあわれみの勝利をあかしします。「開かれたキリストの墓、よみがえられた主の栄光、あかしする神の使いと、残された主の衣服を」。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。イエスが復活したなら、そのとき――そして、そのときにのみ――、真の意味で新しいことが起こったといえます。この新しいことは、人間と世の条件を変化させます。そのときわたしたちは、このかたに、イエスに絶対的な信頼を置くことができます。わたしたちはイエスのメッセージだけでなく、イエスというかたそのものに信頼することができます。なぜなら、復活した主は、過去に属するのではなく、今、現在に属しておられるからです。このかたは生きておられるからです。キリストは、とくに信仰のゆえに差別と迫害に深く苦しむキリスト教共同体にとって希望と慰めです。キリストはご自分の教会を通じて、希望の力としてともにいてくださいます。教会は、苦しみと不正に満ちたあらゆる人間的状況のそばにいるからです。
 復活したキリストが中東に希望を与えてくれますように。この地域を構成する諸民族、諸文化、諸宗教が皆、共通善と人権の尊重のために協力することができますように。とくにシリアにおいて、流血がやみ、人々がただちに尊敬と対話と和解の道を歩み始めますように。これこそが国際社会の望みです。人道支援を必要とする、シリアから逃れた多くの避難民が、受容と連帯を見いだし、その辛い苦しみが和らげられますように。復活の勝利が、安定と発展の道を歩む努力を惜しまないよう、イラク国民を励ましてくれますように。聖地において、イスラエルとパレスチナの人々が勇気をもって和平交渉を再開することができますように。
 悪と死に打ち勝った主が、アフリカ大陸のキリスト教共同体を支えてくださいますように。どうか困難に立ち向かうための希望を彼らに与え、自分たちが属する社会で平和を作り出し、発展を築く者としてくださいますように。
 復活したイエスがアフリカの角(ソマリア)の苦しむ民を慰め、彼らの和解を促進してくださいますように。大湖地域、スーダンと南スーダンを助けてくださいますように。これらの地域の住民にゆるしの力を与えてくださいますように。栄光のキリストが、微妙な政治状況にあるマリに平和と安定を与えてくださいますように。復活の喜びが、最近テロリストの血なまぐさい攻撃に見舞われたナイジェリアに、すべての市民の信教の自由を尊重する平和な社会をあらためて築くために必要な力を注いでくださいますように。
 皆様、ご復活祭おめでとうございます。

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