教皇ベネディクト十六世の2012年4月15日の「アレルヤの祈り」のことば 神のいつくしみの主日

教皇ベネディクト十六世は、復活節第二主日(神のいつくしみの主日)の4月15日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「アレルヤの祈り」(復活祭から聖霊降臨の主日まで「お告げの祈り」の代わ […]


教皇ベネディクト十六世は、復活節第二主日(神のいつくしみの主日)の4月15日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「アレルヤの祈り」(復活祭から聖霊降臨の主日まで「お告げの祈り」の代わりに唱えられる祈り)を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「アレルヤの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 まず、サント・スピリト・イン・サッシア教会でローマ教区の総代理アゴスティーノ・ヴァッリーニ枢機卿が司式したミサに参加された巡礼者の皆様にごあいさつしたいと思います。サッシア教会は神のいつくしみの信心にとって特別な場所です。そこでは聖ファウスティナ・コヴァルスカ(1905-1938年)と福者ヨハネ・パウロ二世も特別に崇敬されます。皆様がキリストのいつくしみ深い愛の証人となってくださいますように。ご参加くださり感謝します」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 わたしたちは毎年、復活祭を祝いながら、イエスの最初の弟子たちが体験したことを追体験します。それは復活したイエスと出会うという体験です。ヨハネによる福音書は語ります。弟子たちは復活の日、すなわち「週の初めの日」の夕方、そして「八日後に」、二階の広間で彼らのただ中に現れたイエスを目にしました(ヨハネ20・19、26参照)。後に「主日」、「主の日」と呼ばれたこの日は、集会の日です。自分たちの礼拝、すなわち感謝の祭儀のために集まるキリスト教共同体の日です。感謝の祭儀は初めから、ユダヤ人の安息日の礼拝と異なる新しい礼拝でした。実際、主の日の祭儀は、キリストが復活したことのもっとも強力な証拠です。なぜなら、ある特別で驚天動地の出来事だけが、ユダヤ教の安息日とは異なる礼拝を始めるよう初期キリスト信者を促すことができたからです。
 現代と同じように当時も、キリスト教の礼拝は、単なる過去の出来事の記念でもなければ、特別な神秘的、内面的体験でもありませんでした。むしろそれは、基本的に、復活した主との出会いです。復活した主は、時間と空間を超えた、神の次元に生きておられます。にもかかわらず、このかたは、共同体のただ中に現実に現存され、聖書の中でわたしたちに語りかけ、わたしたちのために永遠のいのちのパンを裂いてくださいます。わたしたちはこれらのしるしを通じて弟子たちの体験したことを体験します。すなわち、イエスを見ると同時に、イエスだと分からないことです。 イエスのからだに触れることです。このからだは、まことのからだでありながら、地上のきずなから自由です。
 福音書が述べるもっとも重要なことはこれです。イエスは、二階の広間に集まっていた使徒たちへの二回の出現の際に、「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20・19、21、26)というあいさつを何度も繰り返して述べます。わたしたちに「シャローム(平和)」を願う、伝統的なあいさつは、ここで新たなものとなります。それは、イエスだけが与えることのできる、平和のたまものとなるのです。なぜなら、平和は、イエスが悪に徹底的に勝利したことからもたらされるからです。イエスが自分の友に与える「平和」は、神の愛からもたらされます。この神の愛に促されて、イエスは十字架上で死に、「恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1・14)柔和で従順な小羊として、ご自分の血をすべて注ぎ出しました。だから福者ヨハネ・パウロ二世は、今日の復活祭後の第二の主日を「神のいつくしみの主日」と名づけようと望んだのです。その際、ヨハネ・パウロ二世ははっきりとした聖画像(イコン)を念頭に置いていました。すなわち、キリストの刺し貫かれた脇腹の聖画像です。使徒ヨハネの目撃証言によれば、この脇腹から血と水とが流れ出ます(ヨハネ19・34-37参照)。しかし、今やイエスは復活されました。そしてこの生きたイエスから、洗礼と聖体という復活の秘跡が湧き出ます。信仰をもってこれらの秘跡に近づく者は、永遠のいのちのたまものを受けるのです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。復活したイエスがわたしたちに与えてくださる平和のたまものを受け入れようではありませんか。復活したイエスのいつくしみで心を満たしていただこうではありませんか。そうすれば、わたしたちも、聖霊の力によって、すなわち、キリストを死者の中からよみがえらせた霊の力によって、他の人々に復活のたまものをもたらすことができます。あわれみの母である、至聖なるマリアの執り成しによって、この恵みがわたしたちに与えられますように。

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