教皇ベネディクト十六世の310回目の一般謁見演説 小さな聖霊降臨

4月18日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の310回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月14日から開始した「使徒言行録と聖パウロの手紙における祈り」に関する連続講 […]


4月18日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の310回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月14日から開始した「使徒言行録と聖パウロの手紙における祈り」に関する連続講話の第2回として、「小さな聖霊降臨」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりにイタリア語で行ったあいさつの中で、教皇は、4月16日(月)に85歳の誕生日を祝い、4月19日(木)に教皇在位7周年を迎えるにあたって、次のように述べました。
「わたしの教皇選出7周年と誕生日のために皆様がお祝いのことばを寄せてくださったことに心から感謝申し上げたいと思います。皆様にお願いします。聖霊の助けによって、わたしがキリストと教会への奉仕を続けられるよう、皆様の祈りによっていつもわたしを支えてください」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 大きな祝いの後に、わたしたちは今、祈りについての連続講話を再開します。聖週間の前に行った謁見で、わたしたちは、聖なるおとめマリアの姿について考察しました。おとめマリアは、聖霊が降るのを待ち望みながら祈る使徒たちのただ中におられました。教会の最初の歩みに伴うのは、祈りの雰囲気です。聖霊降臨は、他と切り離された出来事ではありません。なぜなら、聖霊の現存と働きは、キリスト教共同体の歩みをつねに導き、力づけ続けるからです。実際、使徒言行録の中で、聖ルカは、過越祭から五十日後に、上の部屋で偉大な聖霊の注ぎが行われたことを語るだけでなく(使徒言行録2・1-13参照)、もう一つの聖霊の特別な到来について述べます。この聖霊の到来は、教会史の中で繰り返されます。今日はこの「小さな聖霊降臨」と呼ばれてきた出来事について考察したいと思います。「小さな聖霊降臨」は、初代教会の生活における困難な時期の最中に起こりました。
 使徒言行録は語ります。エルサレムの神殿で足の不自由な人をいやした後(使徒言行録3・1-10参照)、ペトロとヨハネは逮捕されました(使徒言行録4・1参照)。なぜなら、二人は民衆全体にイエスの復活を告げ知らせたからです(使徒言行録3・11-26参照)。簡単な取り調べの後、二人は釈放されました。すると彼らは兄弟たちのところに行き、復活したイエスをあかししたために受けなければならなかったことについて語りました。聖ルカはいいます。このとき、「これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った」(使徒言行録4・24)。聖ルカはここで、新約聖書に見いだされるもっとも長い教会の祈りを報告します。先ほど朗読されたとおり、この祈りが終わると、「一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神のことばを語りだした」(使徒言行録4・31)。
 このすばらしい祈りを考察する前に、あるきわめて重要な態度に注目したいと思います。初期キリスト教共同体は、危険と困難と脅威を前にして、どのように対応すればよいか、どのような戦略があるか、どのように自分たちを防御すればよいか、どのような手段を用いればよいかを分析しようとしません。むしろ彼らは、試練を前にして祈ります。神に触れます。
 この祈りにはどのような特徴があるでしょうか。それは、イエスのゆえに生じた迫害の状況に立ち向かうために、共同体全体が心と声を一つにしてささげる祈りです。聖ルカはギリシア語の原語で「ホモテュマドン」――「心を一つにし」――ということばを用います。このことばは、使徒言行録の他の箇所でも、心を一つにして絶えず祈りをささげることを強調するために用いられます(使徒言行録1・14、2・46参照)。心の一致は、最初の共同体の根本的な要素です。またそれは教会にとってつねに根本的なものでなければなりません。したがって、これは危険の中に置かれたペトロとヨハネだけの祈りではありません。それは共同体全体の祈りです。二人の使徒の体験していたことは、二人だけでなく教会全体にかかわることだったからです。イエスのゆえに迫害に遭っていた共同体は、恐れることも、分裂することもありませんでした。そればかりか、彼らは、一人の人のように、深く一致して祈り、神に祈り求めました。これは、信じる者がその信仰のゆえに試練に遭ったときに起きた最初の奇跡だといえます。一致は、揺らぐどころか、強まりました。揺るぎない祈りによって支えられていたからです。教会は、自らの歴史の中で受けることを強いられる迫害を恐れてはなりません。むしろ、ゲツセマネにおけるイエスと同じように、神の現存と助けと力をつねに信頼し、祈りのうちに願い求めなければなりません。
 もう少し先に進みたいと思います。この試練のときに、キリスト教共同体は何を神に願うでしょうか。彼らは迫害の中で生命の安全を願いません。ペトロとヨハネを投獄した人々に主が復讐することを願うのでもありません。彼らが願うのはただ、神のことばを「大胆に語ることができるようにしてください」ということだけです(使徒言行録4・29参照)。彼らは、信仰の勇気を、すなわち信仰を告げ知らせる勇気を失うことがありませんようにと祈ります。しかし彼らはまず、出来事の意味を深く理解しようとします。信仰の光に照らして出来事を解釈しようとします。そしてそれを神のことばを通して行います。神のことばこそが、わたしたちに世の出来事の意味を解読させてくれるからです。
 共同体は、主にささげた祈りの中で、神の偉大さと限りなさを思い起こし、祈り願うことから始めます。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られたかたです」(使徒言行録4・24)。それは創造主への祈願です。わたしたちは知っています。万物は創造主に由来することを。万物は創造主のみ手のうちにあることを。万物は創造主に由来し、創造主のみ手のうちにある――この自覚は、わたしたちに確信と勇気を与えます。それから祈りは、神が歴史の中で行われたわざを思い起こします――それゆえ、神のわざは創造によって始まり、歴史の中で継続します――。神はご自分の民に近づかれました。そして、ご自分が人間に心をとめる神であることを示されました。神は、退くことも、ご自分の造られた人間を見捨てることもありません。そしてここで詩編2がはっきりと引用されます。そして、この詩編に照らして、教会がそのとき体験していた困難な状況が解釈されます。詩編2はユダの王の戴冠を祝います。しかしこの詩編は、預言的にメシアの到来に言及します。何もこのメシアに逆らって反抗や迫害や人々への虐待を行うことはできません。「なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう」(使徒言行録4・25-26)。この詩編はすでに預言的にメシアについて語ります。権力者が神の力に反抗することは、歴史全体の特徴です。共同体は、神のことばである聖書を読むことを通じて、祈りのうちに神にいうことができます。「事実、この都で・・・・一緒になって、あなたが油を注がれた聖なるしもべイエスに逆らいました。そして、実現するようにとみ手とみ心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです」(使徒言行録4・27-28)。出来事はキリストの光に照らして解釈されました。キリストは、迫害を理解するための鍵でもあるからです。十字架は、つねに復活を理解するための鍵です。イエスへの反抗、イエスの受難と死は、詩編2を通じて、世の救いのための父である神の計画の実現として再解釈されました。初期キリスト教共同体が体験していた迫害の意味もここに見いだされます。初期共同体は単なる団体ではなく、キリストに結ばれて生きる共同体です。それゆえ、この共同体に起きたことは、神の計画の一部です。イエスに起きたのと同じように、弟子も反対と誤解と迫害を受けます。祈りのうちにキリストの神秘に照らして聖書を黙想することは、救いの歴史の中で現在の現実を解釈する助けとなります。神は、つねにご自身のやり方で、救いの歴史を世において実現されるからです。
 だからエルサレムの初期共同体が祈りの中で神に願ったのは、自分たちが守られ、試練と苦しみを免れることではありません。それは成功のための祈りではありません。彼らが願うのはむしろ、「パッレーシア」をもって、すなわち、大胆に、自由に、勇気をもって神のことばを告げ知らせることができるようにしてくださいということだけです(使徒言行録4・29参照)。
 さらに祈りは続けて願います。この告知に神のみ手が伴い、いやしとしるしと不思議なわざが行われるようにしてください(使徒言行録4・30参照)。それは、神のいつくしみが目に見えるようになり、現実を造り変え、人々の心と思いと生活を転換し、福音の徹底的な新しさをもたらす力となるためです。
 聖ルカはいいます。祈りが終わると「一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神のことばを語りだした」(使徒言行録4・31)。場所が揺れ動いたとは、信仰には地上と世を造り変える力があるということです。教会の祈りの中で詩編2を介して語った聖霊は、家の中に流れ込み、主に祈り求めていたすべての人の心を満たします。キリスト教共同体が神にささげる共同の祈りが生み出すのは、この聖霊の注ぎです。この復活したキリストのたまものは、神のことばを自由に勇気をもって告げ知らせることを支え導きます。それは、主の弟子が恐れることなく出かけて行って、世の果てにまでよい知らせをもたらすよう駆り立てるのです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちも日常生活の出来事を祈りの中に置くことができなければなりません。それは、その深い意味を探るためです。初期キリスト教共同体と同じように、わたしたちも、聖書の黙想を通して神のことばに照らしていただきながら、見ることを学べます。神が、困難なときにも、わたしたちの生活の中にともにいてくださることを。すべてのことは――理解しがたいことも含めて――最高の愛の計画の一部であることを。この愛の計画の中で、善と恵みといのちと神が、本当に悪と罪と死に最終的な勝利を収めます。
 初期キリスト教共同体と同じように、祈りは、わたしたちがより正しく忠実な観点から、すなわち神の観点から、個人と共同体の歴史を解釈する助けとなります。わたしたちも聖霊のたまものをあらためて願いたいと望みます。聖霊は心を温め、思いを照らします。そして、神が、わたしたちの考えに従ってではなく、ご自分の愛のみ心に従ってわたしたちの願いをかなえてくださることを認めるのを可能にしてくれます。わたしたちも、イエス・キリストの霊に導かれるなら、どんな生活の状況をも落ち着きと勇気と喜びをもって生きることができるようになります。そして聖パウロとともに「苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」。この「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5・3-5)。ご清聴ありがとうございます。

PAGE TOP