教皇ベネディクト十六世の311回目の一般謁見演説 祈りと神のことばの告知を優先すること (使徒言行録6・1-7参照)

4月25日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の311回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月14日から開始した「使徒言行録と聖パウロの手紙における祈り」に関する連続講話の第3回として、「祈りと神のことばの告知を優先すること(使徒言行録6・1-7参照)」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 これまでの講話の中で、教会がその歩みの初めから、予想外の状況、新たな問題、緊急の事態に直面しなければならなかったことをお示ししました。教会は聖霊に導かれながら、これらの事柄に信仰の光に照らされながらこたえようと努めました。今日はこれらの状況の別の一つのものについて考察したいと思います。それは、エルサレムの初期キリスト教共同体が立ち向かい、解決しなければならなかった深刻な問題です。すなわち、聖ルカが使徒言行録6章で語る、支えと助けを必要とするやもめに対する愛の奉仕職のことです。この問題は教会にとって二次的なことではなく、当時、教会全体の分裂を招きかねない事柄でした。実際、弟子たちの数は増えていたものの、ギリシア語を話す弟子たちはヘブライ語を話す弟子たちに対して苦情を言い始めました。彼らのなかのやもめが日々の分配のことで軽んじられていたからです(使徒言行録6・1参照)。共同体の生活の根本的な側面――すなわち、弱者、貧しい人、よるべのない人に対する愛のわざと正義――にかかわるこの緊急の問題に対して、使徒たちは弟子のグループ全員を招集します。この司牧的な非常事態の中で際立つのは、使徒たちが行った識別です。使徒たちは、主の命令に従って、何よりもまず、神のことばを告げ知らせなければなりません。しかし、たとえこれが教会の優先課題であっても、彼らは愛と正義の務めも同じように重大だと考えます。すなわち、やもめと貧しい人を支え、兄弟姉妹が置かれた困難な状況に愛をもってこたえるという務めです。それは、わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさいというイエスの命令にこたえるためです(ヨハネ15・12、17参照)。それゆえ、みことばを告げ知らせ、神を優先することと、具体的な愛と正義という、教会が生きなければならない二つの事柄が、困難を生み出し、解決を見いださなければなりませんでした。それは、これら二つの事柄の両方に位置づけと必要な関係を与えることを可能にするためです。使徒たちの考察はきわめて明快でした。先ほど朗読されたとおり、彼らはいいます。「わたしたちが、神のことばをないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、〝霊〟と知恵に満ちた評判のよい人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りとみことばの奉仕に専念することにします」(使徒言行録6・2-4)。
 二つのことが明らかになります。第一はこれです。このときから教会の中に愛の奉仕職が存在するようになりました。教会はみことばを告げ知らせるだけでなく、愛と真理であるみことばを実現しなければなりません。第二はこれです。これらの愛の奉仕者は、評判がよいだけでなく、聖霊と知恵に満ちた人でなければなりません。つまり、彼らはなすべきことを知っている組織者であるだけではいけません。神の光に照らされ、心の知恵をもって、信仰の精神のうちに行動しなければならないのです。それゆえ、彼らの任務は、きわめて実践的なものでありながら、霊的な任務でもあるのです。愛と正義は、社会活動ではなく、聖霊の光に照らされながら果たす霊的な活動です。それゆえ、こういうことができます。使徒たちは大きな責任をもってこの状況に対処しました。彼らは次の決断を行います。彼らは七人の人を選びます。使徒たちは聖霊の力を求めて祈ります。それから彼らは、七人が特別なしかたでこの愛の奉仕職に専念できるよう、彼らの上に手を置きます。こうして教会生活の最初の歩みの中に、イエスの公生活においてベタニアのマルタとマリアの家で起こったことがある意味で反映されます。マルタはイエスと弟子たちをもてなす奉仕に専念しました。これに対して、マリアはもっぱら主のことばに耳を傾けることに努めます(ルカ10・38-42参照)。いずれの場合も、祈り、神に耳を傾けることと、日々の活動、愛の実践は対立しません。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアはよいほうを選んだ。それを取り上げてはならない」(ルカ10・41-42)というイエスの呼びかけも、「わたしたちは、祈りとみことばの奉仕に専念することにします」(使徒言行録6・4)という使徒たちの考えも、わたしたちが神を優先しなければならないことを示します。ここではマルタとマリアの記事の解釈に立ち入るつもりはありません。いずれにせよ、隣人と他の人のための活動を非難すべきではありません。むしろ強調すべきことはこれです。このような活動には内的に観想の精神が浸透しなければなりません。他方で、聖アウグスティヌス(354-430年)はいいます。このマリアの姿は、天上でのわたしたちの状態の先取りです。それゆえわたしたちは地上でそれを決して完全に手にすることができませんが、自分の活動全体の中でそれを少しでも前もって味わえなければなりません。神の観想も存在しなければなりません。わたしたちは単なる活動主義によって自分を失ってはなりません。むしろつねに自分の活動の中に神のことばの光が浸透しなければなりません。そこから、真の愛のわざを、他の人への真の奉仕を学ばなければなりません。他の人は多くのことを必要としません。もちろん必要とするものはあります。しかし、何より彼らが求めているのは、わたしたちの愛情に満ちた心です。神の光です。
 聖アンブロシウス(339頃-397年)は、マルタとマリアの記事を解説しながら、自らの信者に対して、またわたしたちに対しても、次のように勧告します。「わたしたちも、わたしたちから取り上げてはならないものをもとうと努めようではありませんか。気をそらさずに、熱心に主のことばに注意を向けようではありませんか。なぜなら、天からのことばの種が、道端に蒔かれると、取り去られることもあるからです。マリアと同じように、知ることへの望みを強くもちなさい。これこそがもっとも偉大で完全なわざだからです」。聖アンブロシウスは続けていいます。「奉仕への気遣いが天からのことばを知ることからわたしたちを引き離すことがありませんように」(『ルカ福音書注解』:Expositio Evangelii secundum Lucam VII, 85, PL 15, 1720)。それゆえ聖人たちは、祈りと活動、完全な神への愛と兄弟への愛を深く一致させた生活を送りました。観想と活動を調和させた模範である聖ベルナルドゥス(1090-1153年)は、教皇職に関する若干の考察を示すために教皇エウゲニウス三世(在位1145-1153年)に宛てて書いた『熟慮について』(De consideratione)の中で強調していいます。自分がどのような状況に置かれ、どのような任務を帯びているとしても、過度な活動という危険から身を守るために、内的に精神を集中させることと祈りが大切です。聖ベルナルドゥスはいいます。多くの仕事や忙しすぎる生活はしばしば心の頑固さと魂の苦しみをもたらします(同:ibid. II, 3参照)。
 すべてのことを生産性と効果という基準で評価しがちな現代のわたしたちにとって、これは貴重な警告です。使徒言行録の記事はわたしたちに次のことを思い起こさせてくれます。働くこと――いうまでもなくそれは真に固有の意味での奉仕職を生み出します――、日々の活動を責任をもって熱心に果たすことは大切です。しかし、わたしたちは神とその導きと光も必要としています。これこそがわたしたちに力と希望を与えるからです。日々、忠実に祈らなければ、わたしたちの活動はむなしいものとなり、深い魂を失います。それはわたしたちを最終的に満足させることのない、単なる活動主義に陥るのです。キリスト教の伝統の中には、あらゆる活動を行う前に唱える、すばらしい祈願があります。それは次のものです。「主よ、わたしたちの行いを導き、あなたの助けをもって支えてください。わたしたちのすべてのことばと行いが、つねにあなたから始まり、あなたのうちに実を結びますように(Actiones nostras, quæsumus, Domine, aspirando præveni et adiuvando prosequere, ut cuncta nostra oratio et operatio a te semper incipiat, et per te coepta finiatur)」。わたしたちの生活と働き、また教会のすべての歩みは、神のみ前で 、みことばの光に照らされて行われなければなりません。
 先週の水曜の講話の中で強調したとおり、初期キリスト教共同体は試練を前にして心を一つにして祈りました。 そして彼らは、まさに祈り、聖書を黙想することを通して、自分たちが体験した出来事の意味を理解することができました。神のことばによって祈りを深めるなら、わたしたちは現実を新たな目で、すなわち信仰の目で見ることができるようになります。そして、思いと心に語りかける主は、どんなときも、どのような状況に置かれていても、わたしたちの歩みに新たな光を与えてくださいます。わたしたちは神のことばの力と、祈りの力を信じます。教会は、貧しい人々への奉仕という問題、すなわち愛のわざの問題をめぐって体験した困難も、祈りによって、神と聖霊の光に照らされて、乗り越えることができました。使徒たちはステファノと他の人々の選択を承認しただけではありません。彼らは「祈って彼らの上に手を置いた」(使徒言行録6・6)のです。福音書記者ルカは、パウロとバルナバの選びの際にももう一度この行為が行われたことを報告します。こう書かれています。「彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた」(使徒言行録13・3)。これは、実践的な愛の奉仕が霊的な奉仕であることをあらためて確認します。両者はともに歩むのです。
 使徒たちは按手という行為によって七人に特別な奉仕職を授与しました。それは、七人に奉仕職に対応する恵みが与えられるためです。祈りが強調されることは重要です――「祈って」といわれるとおりです――。ここで行われることの霊的な性格を明らかにしているからです。ここでいわれるのは、社会的組織で行われるのと同じような、単なる職務の授与ではありません。むしろそれは教会的な出来事です。この出来事の中で、聖霊は、教会が選び、真理であるイエス・キリストのうちに聖別した七人の人を、ご自分のものとします。イエス・キリストこそが、静かな主人公です。イエス・キリストは、按手の際にともにおられます。それは、選ばれた人々がご自身の力によって造り変えられ、実践的な課題、すなわち司牧的課題に立ち向かえるように聖別されるためです。さらに祈りが強調されることは、次のことを思い起こさせてくれます。神との親密な関係を日々深めることによって初めて、主の選びへの応答が生まれ、教会におけるあらゆる奉仕職をゆだねることができるということです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。使徒たちは、司牧的な問題に促されて、七人の人を選び、彼らの上に手を置いて、愛の奉仕の務めを与えました。それは、自分たちが祈りとみことばの告知に専念するためです。このことはわたしたちにも、祈りと神のことばを優先すべきことを示します。しかし、祈りと神のことばを優先することが、やがて司牧活動を生み出すのです。司牧者にとって、これこそが、自分にゆだねられた民に対する、第一のもっとも貴重な奉仕の形です。祈りと神のことばの肺がわたしたちの霊的生活に深く息をつかせてくれなければ、わたしたちは日々の生活の多くの事柄の中で窒息する恐れがあります。祈りは魂と生命の呼吸です。もう一つ強調したい貴重な教訓があります。わたしたちは、たとえ教会や自分の部屋で沈黙のうちにいても、神との関係をもち、神のことばに耳を傾け、神と対話しているなら、主のうちに信仰における多くの兄弟姉妹と結ばれます。楽器の集まりが、それぞれの特徴をもちながら、執り成しと感謝と賛美の一つの大交響楽をともに神にささげるのと同じように。ご清聴ありがとうございます。

略号
PL Patrologia Latina

PAGE TOP