教皇ベネディクト十六世の2012年4月29日の「アレルヤの祈り」のことば 世界召命祈願の日

教皇ベネディクト十六世は、復活節第四主日の4月29日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「アレルヤの祈り」(復活祭から聖霊降臨の主日まで「お告げの祈り」の代わりに唱えられる祈り)を行 […]


教皇ベネディクト十六世は、復活節第四主日の4月29日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「アレルヤの祈り」(復活祭から聖霊降臨の主日まで「お告げの祈り」の代わりに唱えられる祈り)を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「アレルヤの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「サン・パオロ・フオリ・レ・ラ・ムーラ大聖堂にお集まりの巡礼者の皆様に特別なごあいさつを申し上げます。同大聖堂では今朝、ジュゼッペ・トニオーロ(Giuseppe Toniolo 1845-1918年)が列福されました。19世紀から20世紀にかけて生きたトニオーロは、夫また7人の子どもの父、大学教授また若者の教育者、経済学者また社会学者、教会の交わりへの情熱的な奉仕者でした。彼は教皇レオ十三世(在位1878-1903年)の回勅『レールム・ノヴァールム』の教えを実現し、カトリック・アクション、聖心カトリック大学、イタリア・カトリック社会週間、平和・国際法研究所を推進しました。トニオーロのメッセージはとくに現代において大きな意味をもっています。福者トニオーロは人間の人格と連帯を優先する道を示しました。彼は述べます。『個々の民族や国家の正当な善益と利害を超えて、すべての人を一致に向けて秩序づける不可分の要素がある。それは人間的連帯の責務である』。
 今日、フランスのクタンスで、18世紀後半に生きたプレモントレ会の司祭ピエール=アドリアン・トゥロルジュ(Pierre-Adrien Toulorge 1757-1793年)も列福されます。この輝かしい『真理の殉教者』のゆえに神に感謝しようではありませんか。
 教皇ヨハネ・パウロ二世の列福1周年にあたってローマ教区が開催するヨーロッパ大学生の集会への参加者の皆様にごあいさつ申し上げます。親愛なる若者の皆様。大学における新しい福音宣教の歩みを信頼をもって継続してください。明日の晩、わたしは皆様が行う晩の祈りに霊的な意味で参加します。この晩の祈りは、トール・ヴェルガータで、2000年のWYD(ワールドユースデー)の大きな十字架の前で行われます。ようこそおいでくださいました」。
この日、教皇は午前9時からサンピエトロ大聖堂でミサを司式し、ミサの中でローマ教区の神学校の9名の助祭の司祭叙階を行いました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 少し前にサンピエトロ大聖堂での感謝の祭儀が終わりました。この感謝の祭儀の中でわたしはローマ教区の新しい9名の司祭を叙階しました。このたまもののゆえに神に感謝したいと思います。それは教会に対する神の忠実で摂理に満ちた愛のしるしです。これらの新しい司祭を霊的に囲んで祈りたいと思います。どうか彼らが、彼らを祭司であり牧者であるイエス・キリストに似たものとしてくれた秘跡の恵みを完全に受け入れることができますように。そして祈りたいと思います。すべての若者たちが、心の中で内的に語りかけ、すべてを捨てて自分に仕えるように招く神の声に注意を払うことができますように。今日、「世界召命祈願の日」が開催されるのはそのためです。実際、主はつねに招いておられるのに、わたしたちは多くの場合、耳を傾けません。わたしたちは多くの事柄によって、表面的な他の声によって気を散らしています。さらにわたしたちは主の声を聞くのを恐れます。それが自分たちの自由を取り去りはしまいかと考えるからです。実際には、わたしたちは皆、愛から生まれたものです。もちろんその愛は両親の愛ですが、より深い意味では、神の愛です。聖書はいいます。たとえ母親があなたを忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。わたしはあなたを知り、愛しているからだ(イザヤ49・15参照)。このことを考えたとき、わたしの人生は変わります。それは他のいかなる愛よりも偉大なこの愛へのこたえとなります。こうしてわたしの自由は完全に実現します。
 わたしが今日司祭に叙階した若者たちは、他の若者と異なりません。しかし、神の愛のすばらしさが彼らに深く触れたので、彼らは全生涯でそれにこたえるほかなかったのです。彼らはどのようにして神の愛と出会ったのでしょうか。イエス・キリストのうちに、すなわち、イエス・キリストの福音と、聖体と、教会共同体のうちに神の愛と出会ったのです。わたしたちは教会の中で、すべての人の生涯が愛の物語であることを見いだします。聖書はこのことをはっきりと示し、聖人のあかしがそれを確証します。『告白』の中で神に向かって述べた聖アウグスティヌス(354-430年)のことばはその典型です。アウグスティヌスはいいます。「古くて新しき美よ、おそかりしかな、御身を愛することのあまりにもおそかりし。御身は内にありしにわれ外にあり、・・・・御身はわれとともにいたまいし、されどわれ、御身とともにいず。・・・・御身は呼ばわりさらに声高くさけびたまいて、わが聾(ろう)せし耳をつらぬけり」(『告白』:Confessiones X, 27, 38〔山田晶訳、『世界の名著14 アウグスティヌス』中央公論社、1968年、365頁〕)。
 親愛なる友人の皆様。教会と地域共同体のために祈ろうではありませんか。教会と地域共同体が水で潤された園のようになり、この園の中で、神が豊かに蒔(ま)いた召命のすべての種が芽生え、大きく育つことができますように。祈ろうではありませんか。さまざまなたまものへの呼びかけを聞いたすべての人の喜びにより、この園があらゆるところで耕されますように。とくに家庭が神の愛が「息吹く」最初の場となりますように。そしてこの神の愛が、人生の困難と試練の最中でも内的な力を与えてくれますように。家庭で神の愛を体験する人は、はかりしれない恵みを受けます。この恵みは時が来れば実を結びます。神の呼びかけを自由と従順をもって受け入れた模範であり、教会のあらゆる召命の母である聖なるおとめマリアの執り成しによって、この恵みがわたしたちに与えられますように。

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