教皇ベネディクト十六世の312回目の一般謁見演説 最初のキリスト教殉教者、聖ステファノの祈り (使徒言行録7・53-60参照)

5月2日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の312回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月14日から開始した「使徒言行録と聖パウロの手紙における祈り」に関する連続講話の第4回として、「最初のキリスト教殉教者、聖ステファノの祈り(使徒言行録7・53-60参照)」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 最近行った講話の中で、個人と共同体の祈りにおいて聖書を読みまた黙想することが、神に耳を傾けることへと心を開いてくれることを考察しました。神はわたしたちに語りかけ、現在を理解するためにわたしたちを光で満たしてくださいます。今日は教会の最初の殉教者、聖ステファノのあかしと祈りについてお話ししたいと思います。聖ステファノは貧しい人に対する愛の奉仕のために選ばれた七人のうちの一人です。使徒言行録が述べるとおり、聖ステファノの殉教の際、神のことばと祈りの間の実り豊かな関係があらためて示されます。
 ステファノは最高法院の法廷に連行されました。そこで彼は、「イエスは、この場所(神殿)を破壊し、モーセがわれわれに伝えた慣習を変えるだろう」(使徒言行録6・14)と述べたと訴えられます。実際、イエスは公生活の中でエルサレム神殿の破壊を予告しました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2・19)。しかし、福音書記者ヨハネが注釈するとおり、「イエスのいわれる神殿とは、ご自分のからだのことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこういわれたのを思い出し、聖書とイエスの語られたことばとを信じた」(ヨハネ2・21-22)。
 法廷におけるステファノの説教――それは使徒言行録の中で最長の説教です――は、まさにこのイエスの預言に基づいて展開されます。イエスは新しい神殿です。彼は新しい礼拝を創始し、古いいけにえを、十字架上でのご自身の奉献に代えます。ステファノは、自分がモーセの律法を破壊したという訴えは根拠のないものであることを説明しようとします。そして、救いの歴史と神と人間の間の契約についての自分の考えを示します。そのために彼は、聖書の物語全体、すなわち聖書に含まれる歩みを再解釈します。それは、この歩みが神の決定的な現存の「場」であるイエス・キリストへと、とくにその受難と死と復活へと導くことを示すためです。このような観点から、ステファノは自分がイエスの弟子であることの意味をも解釈します。イエスの弟子である彼は、殉教に至るまでイエスに従うのです。こうして聖書の黙想は、ステファノに自分の使命と生涯と現在の姿を理解することを可能にします。その際彼は、聖霊の光によって、すなわち主との深い関係によって導かれます。そこで最高法院を構成する人々にはステファノの顔が「さながら天使の顔のように見えた」(使徒言行録6・15)のでした。神が支えていることを表すこのしるしは、神と出会った後にシナイ山を下ったモーセの顔が光輝いていたことを思い起こさせます(出エジプト34・29-35、二コリント3・7-8参照)。
 ステファノの説教は、アブラハムを思い起こすことから始まります。アブラハムは、神が示した地に向かって歩みましたが、彼はこの地を約束としてのみ所有しました。続いてステファノはヨセフへと進みます。ヨセフは兄弟たちに売られましたが、神に支えられて解放されました。そしてステファノはモーセに至ります。モーセは神の民を解放するための神の道具となりましたが、何度も同じ民からの拒絶も経験しました。ステファノが敬虔に耳を傾けた、これらの聖書に語られる出来事から、つねに神が姿を現します。神は、しばしば頑(かたく)なな反抗を受けても、うむことなく人間と出会いに来られます。そしてこのことは過去にも、現在にも、未来にもいえます。それゆえ、ステファノは旧約全体のうちにイエスご自身の到来の先取りを見いだします。イエスは肉となった神の子です。彼は旧約の父祖たちと同じように、抵抗と拒絶と死を体験します。そこでステファノはヨシュアとダビデとソロモンに言及し、この三人をエルサレム神殿の建設と関連づけます。そして終わりに預言者イザヤのことば(イザヤ66・1-2)を引用します。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。お前たちは、わたしにどんな家を建ててくれるというのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。これらはすべて、わたしの手が造ったものではないか」(使徒言行録7・49-50)。ステファノは、救いの歴史における神のわざの黙想において、神とそのわざに対する拒絶がつねに行われてきたことを強調しながら、こう主張します。イエスは預言者たちが予告していた義人です。神はこのかたのうちに唯一、決定的なしかたでご自身を現存させます。イエスはまことの礼拝の「場」です。ステファノはある時期、神殿が重要な意味をもったことを否定しません。しかし彼は強調していいます。神は「人の手で造ったようなものにはお住みになりません」(使徒言行録7・48)。神が住まわれる新しいまことの神殿は、人間の肉をとられた御子です。キリストの人間性です。復活された主です。このかたは諸国の民を集めて、ご自分のからだと血の秘跡のうちに彼らを一致させるからです。神殿が「人の手で造ったようなものではない」という表現は、聖パウロとヘブライ人への手紙の神学にも見いだされます。イエスは、罪をあがなうためのいけにえとしてご自身をささげるために、からだをとられました。このイエスのからだが神の新しい神殿です。生ける神が現存する場です。イエスにおいて、神と人、神と世が本当に触れます。イエスは人類のすべての罪をご自分の上に負います。それは、これらの罪を神の愛のうちに置き、この愛のうちに「焼く」ためです。十字架に近づき、キリストとの交わりに入るとは、この変容にあずかることです。これこそ、神に触れることであり、まことの神殿に入ることなのです。
 ステファノの生涯と説教は石打ちの刑によって突然断たれます。しかし、彼の殉教はその生涯とメッセージを完成します。ステファノはキリストと一つになったからです。こうして、イエスのうちに完全に実現された、歴史における神のわざと神のことばについてのステファノの黙想は、十字架上での祈りにあずかるものとなります。実際、ステファノは死ぬ前にこう叫びます。「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(使徒言行録7・59)。これは、詩編のことば(詩編31・6)を自分のことばとし、カルワリオ(されこうべ)でのイエスの最後のことばである「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ23・46)に従ったものです。そして最後にステファノは、イエスと同じように、石を投げる人々の前で大声で叫びます。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録7・60)。わたしたちは次のことに気づきます。一方で、ステファノの祈りはイエスの祈りを繰り返します。他方で、この祈りをささげる対象は異なります。なぜなら、この祈願は主ご自身、すなわちイエスに向けられているからです。ステファノはイエスが栄光を受けて父の右の座におられるのを仰ぎ見ながらいいます。「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」(56節)。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。聖ステファノのあかしは、わたしたちの祈りと生活にいくつかの示唆を与えてくれます。わたしたちは次のように問うことができます。この最初のキリスト教の殉教者は、迫害者に立ち向かい、ついには自分自身をささげるための力をどこから引き出したのでしょうか。こたえは簡単です。神との関係からです。キリストとの交わりからです。救いの歴史を黙想することからです。イエス・キリストのうちに頂点に達した、神のわざを見いだすことからです。わたしたちも自分の祈りを、神のことばに耳を傾け、イエスとその教会と交わりをもつことによって深めなければなりません。
 第二の点はこれです。聖ステファノは、神と人間の愛の関係の物語の中で、イエスの姿と使命があらかじめ告げられているのを見いだします。神の子であるイエスは、「人の手で造ったようなものではない」神殿です。この神殿において、父である神の現存が、人間の肉の中に入って来られるほどにわたしたちに近づきました。それは、わたしたちを神へと導き、わたしたちに天の門を開くためです。ですから、わたしたちの祈りは、神の右の座におられるイエスを仰ぎ見るものとならなければなりません。イエスは、わたしたちの、わたしの日々の生活の主だからです。わたしたちも、聖霊に導かれながら、イエスにおいて神に呼びかけ、子としての信頼と委託のうちに神に本当の意味で触れることができます。子は、限りなく自分たちを愛してくださる父に呼びかけるからです。ご清聴ありがとうございます。

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