教皇ベネディクト十六世の313回目の一般謁見演説 聖ペトロが牢から救い出された奇跡 (使徒言行録12・1-17参照)

5月9日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の313回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月14日から開始した「使徒言行録と聖パウロの手紙における祈り」に関する連続講話の第5回として、「聖ペトロが牢から救い出された奇跡(使徒言行録12・1-17参照)」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日は、使徒言行録で語られた聖ペトロの生涯の最後の出来事について考察したいと思います。すなわち、ペトロがヘロデ・アグリッパ(一世)の命令により投獄され、エルサレムで裁判を受ける前夜、主の天使の不思議な助力により解放されたことです(使徒言行録12・1-17参照)。
 物語を特徴づけるのはここでも教会の祈りです。実際、聖ルカは述べます。「こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」(使徒言行録12・5)。また、ペトロが奇跡によって牢から救い出された後、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家を訪ねた際も、「そこには、大勢の人が集まって祈っていた」(使徒言行録12・12)と述べられます。危険と迫害に際してのキリスト教共同体の態度を示す、この重要な二つの注記の間で、一晩を通じて行われたペトロの投獄と解放が語られます。教会の絶えざる祈りの力が神に向かうと、主はそれを聞き入れ、ご自分の天使を送って、考えることも予想することもできなかった解放のわざを行われます。
 この物語は、イスラエルのエジプトの奴隷状態からの解放、すなわちヘブライ人の過越のときの重要な出来事を思い起こさせます。過越という根本的な出来事の際に起きたのと同じように、ここでもおもなわざは主の天使によって行われます。主の天使がペトロを解放するのです。また、使徒ペトロが行った行為そのもの――ペトロは、急いで起き上がり、帯を締め、履物を履くよう命じられます――が、神のわざによる解放の夜に、選ばれた民がした行為を思い起こさせます。選ばれた民は、腰帯を締め、足に靴を履き、杖を手にし、急いで小羊を食べて、エジプトの国を出る準備をするよう命じられます(出エジプト12・11参照)。だからペトロは叫んでいうことができるのです。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から・・・・わたしを救い出してくださったのだ」(使徒言行録12・11)。しかし、この天使は、イスラエルをエジプトから解放した天使だけでなく、キリストの復活における天使をも思い起こさせます。実際、使徒言行録は語ります。「すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こした」(使徒言行録12・7)。牢の部屋を満たす光、使徒を起こす行為は、主の過越の解放をもたらす光を思い起こさせます。この光が、夜と悪の闇に打ち勝ったのです。最後に、「上着を着て、ついて来なさい」(使徒言行録12・8)という命令は、イエスの最初の呼びかけのことばを心の中でこだまします(マルコ1・17参照)。この呼びかけは、復活の後、ティベリアス湖畔で二度、繰り返されます。そのとき主はペトロに二度、「わたしに従いなさい」といいます(ヨハネ21・19、22)。それは主に従いなさいという切迫した招きです。自分自身から出て、主とともに歩み、主のみ心を行うときに初めて、まことの自由を生きることができるのです。
 わたしは牢におけるペトロの態度のもう一つの側面も強調したいと思います。実際、わたしたちは、キリスト教共同体がペトロのために熱心に祈っていたとき、ペトロが「眠っていた」(使徒言行録12・6)ことに気づきます。深刻な危機的かつ危険な状況の中で、これは奇妙な態度のように思われるかもしれません。しかし、この態度はむしろ落ち着きと信頼を示します。ペトロは神に信頼し、弟子たちの連帯と祈りに囲まれていることを知りながら、主のみ手に完全に身をゆだねます。それゆえ、わたしたちの祈りもこのようでなければなりません。すなわち、熱心で、他の人々と連帯し、神に完全に信頼を置かなければなりません。神はわたしたちを深く知り、わたしたちを心にかけてくださいます。イエスがいわれるとおり、「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな」(マタイ10・30-31)。ペトロは、主に従う時として、投獄された夜と牢からの解放を体験します。主は夜の闇に打ち勝ち、奴隷の鎖と死の危険から解放してくださるからです。ペトロの解放の奇跡は、正確に記されたいくつかの段階によって特徴づけられます。彼は、番兵が見張っていたにもかかわらず、第一、第二の番兵所を過ぎて、町に通じる鉄の門まで天使に導かれます。すると、目の前で門がひとりでに開きます(使徒言行録12・10参照)。ペトロと主の天使は一緒に通りを進みます。ついに使徒ペトロはわれに返って、主が本当に救い出してくださったと分かります。こう分かると、ペトロはマルコの母マリアの家に行きます。そこでは多くの弟子が集まって祈っていました。あらためて、困難と危険に対する共同体の応答は、神に信頼し、神との関係を深めることなのです。
 ここで、初期キリスト教共同体が体験したもう一つの困難な状況を思い起こすのが役に立つように思われます。これについて聖ヤコブがヤコブの手紙の中で語っています。共同体が危機と困難のうちにあったのは、迫害のためばかりでなく、内部のねたみと争いのためでした(ヤコブ3・14-16参照)。使徒ヤコブはこのような状況の原因を自問します。ヤコブは二つのおもな原因を見いだします。第一は、彼らが情念とほしいままな欲望と利己主義に支配されていることです(ヤコブ4・1-2a参照)。第二は、祈りが欠如している――「願い求めない」(ヤコブ4・2b)――ことです。あるいは、次のようにいうほかないしかたで祈ることです。「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(ヤコブ4・3)。聖ヤコブによれば、このような状況を変えるには、共同体全体がともに神と語らなければなりません。熱心に、心を一つにして、真の意味で祈らなければなりません。実際、祈りに力づけられ、支えられ、同伴され、主と生きた対話を持ち続けていなければ、神について語ることばも内的な力を失い、あかしは干からびたものとなる恐れがあります。これはわたしたちと共同体にとっても重要な教訓です。それは、家庭のような小さな共同体にも、小教区、教区、教会全体のような大きな共同体にも同じようにいえます。それはわたしに次のことを考えさせます。聖ヤコブの共同体の中で、人々は祈ってはいましたが、間違ったしかたで、すなわち、ただ自分の情念に従って祈っていたのです。わたしたちはつねにあらためてよく祈ることを学ばなければなりません。自分の善のためにではなく、神に向かって、本当の意味で祈ることを学ばなければなりません。
 これに対して、投獄されたペトロに同伴した共同体は、一晩中、心を一つにして、真の意味で祈る共同体でした。使徒ペトロが思いがけず門の戸をたたいたとき、抑えることのできない喜びがすべての人の心を満たしました。それは、祈りを聞いてくださる神のわざに対する喜びと驚きでした。こうして教会はペトロのために祈りをささげます。ペトロは帰って来て、教会の中で「主が牢から連れ出してくださった次第」(使徒言行録12・17)を説明します。自分がその岩として置かれた教会の中で(マタイ16・18参照)、ペトロは自らの解放の「過越」を語ります。ペトロは、まことの自由はイエスに従うことのうちにあることを体験しました。彼は復活の光輝く光に包まれました。だから彼は殉教に至るまであかしすることができました。主が復活の主であることを。そして「主が天使を遣わして、ヘロデの手から・・・・わたしを救い出してくださったのだ」(使徒言行録12・11)と。後にローマで殉教を受けることにより、ペトロは決定的なしかたでキリストと一致させられます。キリストはこういわれたからです。あなたは、年をとると、他の人に、行きたくないところへ連れて行かれる。ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこういわれたのです(ヨハネ21・18-19参照)。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。ルカが述べたペトロの解放の出来事は、わたしたちにこう語ります。教会は、すなわちわたしたちは皆、試練の夜を通ります。しかし、目覚めて絶えずささげる祈りがわたしたちを支えます。わたしも聖ペトロの後継者として選ばれた最初の瞬間から、とくにきわめて困難なときに、つねに皆様の祈りと、教会の祈りに支えられていると感じてきました。心から感謝します。信頼をこめた絶えざる祈りによって、主はわたしたちを鎖から解き放ってくださいます。時としてわたしたちの心を苦しめる、いかなる牢獄の夜の間もわたしたちを導いてくださいます。そして、人生の困難や、拒絶、反対、迫害にも立ち向かうための心の落ち着きを与えてくださいます。ペトロに起きた出来事は、祈りの力を示します。使徒ペトロは、鎖でつながれていたときも、自分が独りきりでないことを確信して、落ち着いていられました。共同体が彼のために祈っていたからです。主が彼のそばにいてくださったからです。そればかりか、彼は「キリストの力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(二コリント12・9)ということを知っていました。絶えず心を一つにしてささげる祈りは、人生の歩みの中で生じうる試練を乗り越えるための貴重な道具ともなります。なぜなら、神との深い一致は、わたしたちが他者と深く一致することをも可能にしてくれるからです。ご清聴ありがとうございます。

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